折 れ て も ひ び 割 れ て も い な い け ど 傷 つ い て る 


火曜日の午後7時48分、仕事帰りのエースは両足首に湿布を貼って、診療時間が午後8時までの内科兼外科兼整形外科の前に佇んでいた。月曜日の朝、とある事情で足首と、それから脛全体にあざと擦りむいた痕を作ったエースは、事情が事情だけにもう20分も中に入るふんぎりがつかずに医院の前をふらふらしながら携帯の時計とにらめっこしている。擦りガラスの向こう側が暗くなって、あと12分しかないな、と見て取ったエースが、「うん、もう間にあわなかったってことで」と呟いて、明日職場には適当に言い訳しよう、と思いながらくるりと踵を返したときに、ガチャリと医院の扉が開いて、中から顔を出した男が

「入るならさっさとしろよい」

と言った。面倒くさそうな顔でエースを眺める男は白衣姿で、内心ものすごく驚いたエースが跳ねる心臓を押さえながら「せ、…先生ですか」と尋ねると、「まあな」と頷きながら、戸を開け放したまますたすたと中に戻って行く。一瞬男の背を黙って見送りそうになったエースに、「早く来い」とぞんざいに男が顎をしゃくるので、「あ、ああ、はい」とエースは成り行きで医院内に足を踏み入れて、後ろ手に扉を閉めた。男が、薄暗い待合室をそのまま抜けて行こうとするので、「あの、」とエースが声をかければ、「何だよい」と振り向かずに男は言って、「問診票とか書かなくていいんすか」と尋ねたエースを「必要ねえよい」と切り捨てる。必要ないって。ここもしかして藪なのか?と憮然としかけたエースをちらりと見て、「その足だろい」と男は言って、「そうですけど」と頷いたエースに、「お前しか患者はいねえんだから、症状は聞きながら治療できるだろい。あとは保険証があればいいよい」と、つらつらと述べられた男の言葉は正論である。特に引きずるわけでもなく、サロンパス臭いだけの両足首を抱えるエースは、木の扉を引き開けた男の途に続いて、タイル貼りの診察室に滑り込んだ。「保険証」と短く行って手を出した男の手に、財布から出した保険証を乗せると、「座ってろ」と男は丸椅子を指して一つ先の扉の中に消えていく。言われた通りオレンジ色の椅子に腰を降ろして、見るともなしに壁際を眺めれば、プラスチック製の薬棚にさまざまな薬がおさめられていて、あまり病院に縁のないエースは「わー」と、ほとんど感嘆の目で眺めてしまった。そうこうしているうちに、扉の向こうから男が帰ってきて、エースに保険証を手渡して、自分は机の上に保険証のコピーを置いている。「ポートガス・D・エース」と、ほとんど抑揚のない声で男は言って、「間違いねえか」と尋ねるので「はい」とエースが頷けば、男は白衣の胸元から縁のない眼鏡をするりと取り出して、片手でそれをかけてから、流れるような速度でPCにエースの個人情報を入力していく。たん、と、エースの生年月日を入力し終えた男は、ようやくエースに向き直って、「それで、どうしたんだよい」とたいして興味もなさそうな声で尋ねた。あまり話したくないエースは、しかし医者に隠しだてできるほどずぶとい神経を持っているわけでもなかったので、軽く俯いて、俯いたときに男が首から下げる名札の半分側だけ覗くことができて、そこに「マルコ」と書いてあるのが見えた。マルコ先生、と言うらしい。苗字はよく見えないが。へえ、と気を取られたエースに、男-マルコが急かすように視線を送るので、エースは意を決して息をのんで、真っ直ぐマルコの顔を見て

「駅の階段を正座で転げ落ちました」

と答えた。それを聞いたマルコは何とも言えない顔、というか有体に言えば笑うのを我慢している顔をしたので、昨日の朝から何度も同じ顔を眺め続けているエースは、「いいですよ笑って」と溜息を吐く。情けないことが分かっているエースは、だから医者になど来たくはなかったのだけれど、たまたま電話がかかってきた母親に笑いを交えて話したら「何があるか分からないから絶対に病院に行きなさい」と念を押されてしまって、わりと母親に弱い(マザコンというか、物理的に強いので頭が上がらない)エースは、結果としてここにいるのだった。「別に笑わねえが」と言ったマルコは、エースの両足首を眺めて、「何段落ちた」と聞くので、「…8段」とこれもまた恥ずかしいエースが小さな声で告げれば、「器用な落ち方だな」とたいして感情の籠らない声でマルコはキーボードを打っている。それから「とりあえず両足、サロンパスはがして、靴も脱いで見せてみろい」とマルコが促すので、やっぱりサロンパスってわかるんだな、と、エースはどうでもいいところで関心しながら、粘着質に顔をしかめつつ白いサロンパスを引っぺがした。月曜の朝より、あきらかに腫れて紫色になっている左足首と、赤く擦りむいた上に甲も熱を持った右足首に触れて、「痛いか」とぶっきらぼうにマルコが尋ねるので、「痛いです」と素直にエースが答えれば、「折れてるかもしれねえし、とりあえずレントゲンだな」と、痛いって言う必要あったのか、と言う簡潔さでマルコは言って、「あっちだよい」とエースの前にスリッパを投げ落として部屋のカーテンの向こうを指す。これ履いて向こうに行けってことだよな、と思いつつエースがすたすた歩を進めるので、「8段落ちたにしちゃしっかりしてるな」と、エースに聞かせるでもなくマルコは呟いた。

カーテンの向こうに置かれた簡易ベッドの上に横になる間、「ところで、朝って事は出勤中か」と思いだしたようにマルコが尋ねるので、労災申請をしたくないエースが「いえ違います」とはきはき答えれば、「そうかい」とたいして深入りもせずにマルコは頷いて、「上からと横から、二枚撮るからじっとしてろい」とエースに告げる。一旦部屋を出たマルコが、レントゲン室の扉を閉めれば機械音が響いて、中に戻ってきたマルコはエースの脚の角度を調整して、もう一度同じことを繰り返した。「いいよい」と、扉だけ開いて言ったマルコが先に診察室に帰って行くので、エースは慌てて寝台を下りて小走りで後を追いかける。と、「走るんじゃねえよい」とマルコにぴしゃりと言われて、エースは心持ゆっくり歩くことを心がけた。医者は、医者である。さて、丸椅子に戻ったエースの前で、マルコはもう一台のPCを操作している。レントゲン印刷しなくていいのか、と思ったエースは、次の瞬間何の初動もなく画面一面に現れた脚の骨格にわりと、声も出せないくらい驚いた。「お前の骨だよい」と至極冷静な声で言うマルコは、心臓を押さえているエースになど構いはせずに、白黒のコントラストを調整している。最近のレントゲンは進んでる、というか初めて見たよ俺の脚の骨、と思うエースに、「痛いのはどっちの足だ」とマルコが尋ねるので、「どっちかと言えば左です」とエースが答えると、マルコは写真を拡大したり縮小したり濃くしたり薄くしたりして矯めつ眇めつ眺めてから、

「右に傷が入ってるよい」

と軽い声で言った。「へ?」と間の抜けた声を上げたエースに、「ここだ」とマルコは写真を指して、「普通は、こうやって縦にしか線は入らねえんだが、お前の場合ここに薄く、横線が入ってるだろい。骨に傷ついてるってことだ」と淡々と述べて、「それって、…結局どういうことですか」と尋ねるエースをちらりと眺めて、

「ものすごく軽度の骨折だよい」

とマルコは告げる。「普通は傷じゃすまねえよい、罅も入らなくてよかったな」とマルコは言ったが、ほとんど医者にかかったこともないエースにとってはまさに青天の霹靂で、「え、ちょ、これ大丈夫なんですか?」と不安に駆られて尋ねれば、「別にほっといても治る程度だよい」と素気無くマルコは流して、「むしろこことここ」と、右足のくるぶしあたりを指して、「別に怪我して治った跡があるよい」と無造作に言った。学生時代にきつい捻挫をして、それを3カ月かけて自然治癒したエースには思い当たる節がありすぎるほどあって、「あれ折れてたのか…」と呟けば、「だから軽度だよい」と面倒くさそうにマルコは訂正する。でも骨折なんだろ、と言い募りたいエースの前で、マルコはなにやらかたかたとキーボードを操作して、薬と湿布を選択している。「とりあえず湿布を2週間分、28枚と、痛み止めと胃薬を4日分処方するから、貼って飲めよい」と、処方箋をプリントアウトしながら、マルコは立ちあがって薬棚をごそごそ探った。「ケンタン60mg、これはロキソニンのジェネリックで痛み止め、こっちがレバミピド100mg、ムコスタのジェネリックだよい」と言って適当な袋に放り込んだものをエースに渡したマルコは、また別の場所をごそごそ探って「で、これが湿布だ、ロキソニンテープ100mg」と言いながら4袋まとめてエースの腕に落とす。1袋7枚、1日2枚×14日で4袋28枚。「さっきも言った通り、放っといても治るが貼っておきゃ早く治るよい。痛み止めは要らねえと思ったらのまなくていいし、痛み止めを飲まねえなら胃薬もいらねえよい」と滔々とマルコは言って、それでも心配そうなエースを見下ろして、薄い眼鏡越しに目を眇めて、「お前、運動神経良さそうなのに階段からなんて落ちるんじゃねえよい」と、僅かばかり呆れをにじませたような声で言った。はじめて感情らしきものがこめられた声に、エースが「すみません…」と肩を落とせば、「別に責めるわけじゃねえが」とマルコは返して、もう一度ごそごそ棚を探って、もう一袋、エースが抱えるのと同じ湿布を取り出す。もう一週間分追加されるのか、とぼんやり見上げるエースの前で、マルコはびりっと袋の口を破って、「これはおまけだよい」と言いながら、エースの両足に湿布を貼って、手慣れた手で包帯を巻いて固定してくれた。

「ほら、これでいいよい」

と言ったマルコの手つきが思いがけず優しいので、「ありがとうございます」と言ったエースが、続けて「また何かあったら来てもいいですか」と尋ねれば、「患者を選びはしねえよい」とマルコはやはりほとんど抑揚のない声で答える。そりゃそうか、と頷きかけたエースの前で、「ただし」と前置いたマルコが、驚いたことにほんの少しばかり唇の端を上げて言うことには、

「次は定休日じゃねえ日に来いよい」

と、壁に掛けられたカレンダーを指した。指されるままにカレンダーに目を向けたエースには、きれいに赤丸が並ぶ「火曜日」が目に入って、「…マジで?」と呟いてしまう。道理で、待合室が暗かったわけである。「たまたま俺がいて良かったな」と飄々と言ったマルコの顔をまじまじと眺めて、「あの、…ありがとうございます」と深々と頭を下げたエースに、「よい」と短くマルコは答えた。
診察料は、湿布と薬代も含めて1,980円だった。


(ほぼ実話 / 勤め人エースと医者マルコ / 現代パラレル / ONEPIECE )