I t ' s   a   f i n e   d a y / 土 曜 日 の 外 廊 下 で


数カ月ぶりに開いたサッチの部屋の、玄関から臨む光景を目にした瞬間、マルコはぱたりと開けたばかりの扉を閉めた。マルコを迎えて、「よく来たな」とにこやかに言いかけていたサッチは「うおい、なんで閉めるマルコ!」と飛び出してきたが、サッチ越しに見える風景が何も変わらないので「3年後に出直してくるよい」と呟いてマルコはサッチに背を向ける。「いやいやいやいや待てって、この部屋俺ひとりじゃどうにもなんねえよ」とマルコの腕を掴むサッチは必至としかいいようのない顔をしていて、そりゃそうだろい、と腰の高さまでびっしり雑誌の積まれた短い廊下に胡乱な目を向けたマルコは、「来るんじゃなかったよい」と盛大に溜息を吐いた。残念ながら、マルコに「サッチを放って帰る」と言う選択肢はない。

話は三日前まで遡って、エースがいない水曜日の午後である。勤務表を回収に来たサッチが、独り言のように「俺来月引っ越すんだ」と言った言葉に、「そうかい」と投げやりにでも返事をしてしまったことがマルコの運の尽きだった。あれよあれよと言う間にサッチの部屋がどれだけ物に囲まれているか、引っ越しまでのごみの灯があと何回か、段ボールがどれだけロフトに積まれているかを滔々とまくし立てられて、結局何が何だか分からない内に「土曜日の9時、サッチの家に」と言う話がまとまっている。「じゃ、よろしくな」と星でも飛ばしそうな笑顔で去っていくサッチをじっとり見送りながら、それでもサッチがあの部屋を出る気になったのなら何よりだ、とマルコは思った。

サッチの部屋は、わりと広めの1DKにロフトの付いた、男の1人暮らしには少しばかり贅沢な部屋である。そもそも6年前の入居当時は新築だったから、それなりに家賃も張る、という話をサッチから聞いている。1年半前まではたまに顔を出していたその部屋と、今目の前に広がる参上がうまく結び付かなくてマルコは頭を抱えそうになった。具体的に言っても言わなくても、ただ一言で言い表せる。汚い。二言で言うととても汚い。それだけの話だった。前述の通り短い廊下にはどうにか人の通れるだけの幅を残しつつ、マルコの腰の高さまで雑誌と新聞が積まれて、その隙間には厚く埃が溜まっている。そもそも玄関扉の内側に、郵便受けから落ちたチラシが降り積もっているので、マルコはまず紙を纏めて自分の靴を置くためのスペースを作った。「とりあえず中どうぞ」と促すサッチに続いて、キッチンの惨状には目を背けつつ居間というか何と言うか、に足を進めたマルコは、やはり足の踏み場もない10畳にまたしても溜息を吐く。できればこの部屋の空気を吸いたくない。「…窓開けろよい」と、脱ぎ散らかした服だか取り込んだ洗濯物だかがもっさりと乗せられたベッドの向こうを指差せば、「あー開くかなあ、半年くらい開いてねえし」といろいろなものを踏み越えながらサッチはがたがた窓を揺らして、「なんか引っかかって開かねえ」と途方に暮れたようにマルコを振り返るので、「もういいから玄関開けて来い」とマルコはこめかみを押さえた。「え、それはあんま良くねえだろ」とサッチが眉を潜めるので、「こんな部屋に何があるってんだよい!良いからさっさと空気入れ変えろい!!」とマルコがびしりと言いつければ、サッチは「はい!!」と素直に返事をして、ぱたぱたと玄関に駆けて行く。その間にぐるりと部屋中を見まわしたマルコは、ベッドと二人掛けのソファとパソコンデスクとテレビと、その間を埋めるように散らばる紙類とコードと、それから二畳のロフトに山のように積まれた段ボールを確認した。「やー、チラシがドアから流れそうでびっくりしたぜー」と笑いながら帰ってきたサッチに冷たい視線を送って、「お前あのロフト、前は布団が敷いてあったろい。あれはどうした」とマルコが尋ねれば、サッチはえー?とマルコから視線を反らすので、「早く答えろい」とマルコが促すと、「えーと…まだ敷いてある…と思う」とサッチは言った。まだ敷いてある。サッチの言葉に、マルコはもう一度ロフトを見上げた。だいたい地上2メートルちょっとのロフトと、3メートルちょっとの天井の、つまり1メートル程の空間には本当にびっしりとでかい段ボールが積まれている。たぶんベッドを買った時の箱と、パソコンデスクを買った箱と、PCを買った箱と、あとはamaz○nの箱が死ぬほど積まれている。その下に敷かれた布団の末路を思うマルコはがりがりと頭を掻いて、「もう良いから、ゴミ袋とビニールひもとハサミ出して来いよい」とマルコはもう観念した。このゴミ部屋は片づけるとか掃除をするとかそう言った次元の話ではなく、まず解体が必要である。


そもそも物が積まれすぎてあるべきところに掛けられないロフトの梯子にどうにかしがみついたマルコは、ベッドに立ったサッチへ無造作に段ボールを投げ落としていく。「ちょっ、これ、どうすんだよマルコ!」と戸惑ったように受け取るサッチに、「段ボールなんか潰して縛るだけで捨てられるだろうがよい」とマルコは素っ気なく言い捨てて、「さっさと底のガムテープ剥がせ」と促した。おとなしくかりかりと爪を立てるサッチに僅かばかり視線を送って、どうして中身を出したところでそれができねえんだよい、とマルコは思うが、ともかくロフトは半分ほど空になって、どうにか上に乗れそうである。ぐらつく梯子を上りきったマルコの足元には、たしかに湿ってぺちゃんこになったダブルの布団が敷かれたままで、万年床にもほどがある状態だった。それでもしかたがないのでそこに立ったまま、マルコも段ボールに手をかける。何が嫌かと言えば、時おり開いた段ボールの中に緩衝材と梱包材が詰め込まれたままになっていることで、特に発泡スチロールの厄介さを知っているマルコはぐぐ、ともう寄っている眉をさらに顰めた。「おい、ゴミ袋一袋よこせ」とサッチに命令すれば、「どうぞ」と腰の低い言葉と共に45L30枚入りのゴミ袋が投げられて、マルコは3枚とって燃えるごみと、燃えないごみと、プラスチックごみの3種類を分別してどんどん放り込んでいく。しばらく黙々と作業していたマルコは、「あの、終わりました」とおずおず声をかけるサッチに残りの段ボールを投げ落として、「それが終わったら、上がってきてこの段ボールの中身どうするか考えろよい」と、カビ臭い服の詰まった段ボールを示す。ああ、と存在そのものを忘れていたような顔で頷いたサッチが、「全部要らねえからどうにかしてくれ」とあっさり言うものだから、マルコはまた頭を掻こうとして、ふ、と視線を落とした自分の手が真っ黒なことに気付いたマルコは、「軍手持ってくるべきだったよい…」と自分のうかつさを嘆いたが、「あの、買って来ましょうか」と伺いを立てるサッチの言葉は「いいから手を動かせ」とぴしゃりとはねつけて、全部終わったら風呂を借りようと勝手に決めた。たぶん風呂のカビも落とさなくてはならないから、そのくらいの事はしてもらっていいだろう。どうしてせっかくの、休日の、しかも朝からこんなことをしなけりゃならねえんだ、と、布類を纏めて縛りあげながらマルコはなんだか泣きたくなったが、サッチも泣きそうなので良いことにする。もちろん自業自得なのだが。

それこそ何十箱単位で積まれて、下の方では色の変わっていた段ボール全てを縛りあげるころには1時間が経過していて、幸先のいいスタートだな、とマルコは自嘲気味に鼻を鳴らす。「次は何をしたらいいでしょうか」と尋ねるサッチは従順だが、その分自分では何も考える気がないらしい。どこから手を付けていいかわからないのだが、ともかく物がなくなれば「片づける」作業に入れるので、「その辺に落ちてる服を全部まとめて洗濯機に入れて来い」とマルコは言った。サッチの家の洗濯機は無駄にでかい9L入りのドラム式だから、たぶん頑張れば全部詰め込める。洗うのは2回に分けるとしても、ともかく今入れておく分には問題ないだろう。「ポケットにティッシュとか入ってねえか確認しろよい」と、服を拾い集めるサッチに声をかけながら、俺はこいつの母親か、とサッチが自問したところで、「わかりましたお母さん」とサッチが自答するので、「もうこの部屋をお前ごと燃やしてやろうかい」とマルコは言った。その方が早い。延焼させずに燃やせるのなら、わりと本気でそうしたかった。ごめんなさい、と素早く謝ったサッチを背に、マルコはすたすた歩いて廊下に戻り、ハサミとビニールひもを片手に雑誌を纏めて行く。間に、雑誌に何か白ごまのようなものが付いていることに気付いてよくよく目を凝らせば、小バエのさなぎである。別に叫ぶほど虫が苦手なわけでもないが、積極的に好きなわけでもないマルコは一呼吸置いてから、「あいつもう本当にただのバカだろい」とサッチに全ての感情をぶつけて、見なかったことにして雑誌を纏め続けた。ここにさなぎがあるということは、もう孵った連中もいるのだろう。というかきっとダニもいる。さっきの湿った布団に座った時からもうずっと足が痒い。やっぱり帰る前に、服も洗濯した方がいいかもしれない。だったらサッチの服を借りて帰らなければいけないから、まず洗濯乾燥機でまともな服を作っておく必要がある、と結論付けたマルコは、すっくと立ち上って、うろうろするサッチを突き飛ばすようにやはり荒廃したバスルームに進んで、無造作に詰め込まれた洗濯物の山から色柄物と特殊素材の衣服を分けて早速洗濯機を回した。「え、こっちは?」とまだ残っている山を指したサッチには、「これはあとで、こっちは分けて、あとこれはせめてネットに入れろよい」と告げて、「次はどうしたってロフトの上を開けてゴミぶくろが置けるようにしなくちゃならねえから、あの布団をどうにかしろい」とマルコは言う。「布団て普通に捨てられたか?」尋ねるサッチに、「粗大ごみ扱いだから、収集依頼の予約とシールが必要だよい」と返せば、「それってどうやんの?ネットとかで?」とサッチが重ねるので、「…ロフトの梯子に掛けた俺の鞄にゴミの分別票が入ってて、そこに清掃センターの番号があるよい」とマルコはサッチの背後を指した。せめて手を洗いたかったが、洗ってもどうせ汚れるので止めておく。「土曜日もやってるのかあ?」とマルコの鞄を探りながらサッチが間延びした声を上げるので、「土曜日の午前中はな」と短くマルコは答えて、てきぱきと残りの雑誌を括っていく。新聞はそもそも紙袋に入っていたのでそのままで良いかと思ったが、それにしても中身があんまり綺麗なので、「おいサッチお前この新聞ちゃんと読んだのかよい」とマルコが低い声で尋ねると、「いや届いたまま積んであるだけだぜ?」と当然のようにサッチが答えるので、イラっとしたマルコが「ふざけんなよお前」と言ったら、「ああもう半年前に更新止めてるから大丈夫」とサッチのノリは軽い。ということはつまり最低でも半年以上前からこの新聞はここにあったわけで、「幾らでも捨てる機会はあっただろうが」と、ビニールひもを切りながらマルコは青筋を立てる。別にサッチがサッチ一人でそうしているのならマルコが腹を立てるようなことでもないのだが、こうして手伝わされている以上マルコにはサッチに文句を言う権利があった。「まあ、そうなんだけどよ」と言ったサッチが、さっさと清掃センターに電話をかけ始めるので、マルコも黙って雑誌を括る。文句を言ったところで、サッチの部屋がひとりでに綺麗になるわけでもないし、サッチがひとりで部屋を片付けられるわけでもないし、さらに言えばマルコがサッチを見捨てることもできないのだった。せめてもの腹癒せに、「お前もうほんとにただのバカだろい」とだけ呟いておく。


そんなわけでロフトと廊下のゴミを片付けただけで2時間かかったわけだが、その後も部屋中のゴミを分別しながらゴミ袋に放り込んだり、そのゴミ袋が12袋分になったり、半間の物入れを開けてみたらまた段ボールが現れたり、不用品ばかり入っていたり、何の気なしに開いたベッドの下の引出しになぜか発泡スチロールが入っていたり、開かなかったベランダの扉脇には大量のハンガーが落ちていたり、ベランダにエアコンの室外機から漏れた水で濡れたネクタイが落ちていたり、見たくなかった台所の床にはいつ落ちたのかわからないネギがしなびていたり、当然のようにシンクは油で固まっていたり、オール電化で掃除もしやすいというのにレンジが汚れ捲っていたり、極めつけはシンク下の物入れに何か分からない油の塊が入った皿があるので「これは何だよい」と尋ねたら「唐揚げ作ろうとして失敗した何か?」という答えが返ってきてとてつもなく触りたくなかったので皿ごと燃えないゴミにしたり、いつか言っていた数カ月開いていない炊飯器の蓋をあけるために15分間心の準備が必要だったり、冷蔵庫の中に緑色のグレープフルーツがあったり、引っ張り出したサイクロン掃除機はまず中の掃除から始めなければいけなかったり、埃が一度に吸いきれなかったり、敷きっぱなしの敷物の下から靴下が三足見つかったり、ソファの継ぎ目からも一足見つかったり、カビの巣を覚悟していた風呂場が意外ときれいなので褒めてやったら「もうずっとジムの風呂で済ませてるから」とあっさりサッチに返されて「体鍛える前に部屋を掃除しろよい」とマルコが半眼になったり、まあ他にも散々なことがあった。とりあえずどうして俺がこいつのパンツを畳んでやらなきゃなんねえんだよい、と、3回ほどマルコは思った。

どうにか床が見える状態にして、「あとはお前がゴミの日に精いっぱい頑張って働けばどうにかなるだろい」と、雑巾でそこら中を拭きまくったマルコが淡々と告げるころには、冗談ではなく開始から9時間が経過している。途中何度か時計を確認したマルコは、12時には帰れるかと思っていた9時間前の自分を脳内で罵倒した。元凶のサッチについては、掃除中散々声に出して罵倒している。「お前もうただのバカだろい」と「何考えてんだよいお前は」と「ふざけんなよいお前」を何度繰り返したかわからないマルコは、それなりに綺麗になった部屋の爽快感も合わせてわりとすっきりした。罵倒され続けたサッチの方は知らないが、「ああマジで助かったぜ飯奢るわ」と笑っているのでいいんだろう。


一人暮らしにしてはすこしばかり広い部屋と、9Lのドラム式洗濯乾燥機と、230Lの冷蔵庫と、サイクロン式掃除機と、32インチの液晶テレビと、ダブルの敷布団を置いた部屋で、サッチは1年前まで二人暮らしをしていた。1年間、ほとんど何もないような顔で生きていたサッチがこんな生活をしていたことを今日まで知らなかったマルコは、少しだけ後悔している。だから9時間解体に付き合ったくらいでサッチがどうにかなるのなら、マルコはそれで良いのだった。サッチと自分の着ていたものを詰めて洗濯機を回して、シャワーと服を借りたマルコは、「この部屋に泊まるのはものすごく嫌だが、シーツも洗って干したから我慢するよい」と不遜に告げて、サッチに続いて埃の無くなった部屋を後にした。「あっもう、今日は何でも食って、ゆっくり泊まってくれ」とようやく閉めた玄関扉に鍵を掛けながらサッチはあくまでも下手に出ている。こんなこと程度で恩を着せるつもりもないマルコは、まあそれでも今日は散々飲み食いして溜飲を下げてやろう、と密かに思った。長い筈の7月の陽がもうすでに傾いていることに、少しばかり眉を下げながら。

(部屋の汚いサッチ/ 会社員マルコと人事のサッチ/ 現代パラレル / ONEPIECE )