I t ' s   a   f i n e   d a y / 終 電 後 の エ ー ス の 部 屋 で


ハードな飲み会帰りの深夜だった。
金曜日だったはずの日付は土曜日に変わって、時計の針は緩やかに交差している。ぎゅうぎゅう詰めの終電を降りてようやく一息ついたマルコとエースは、お互いの顔があまりにもぐったりしているので、おかしくなって笑ってしまった。あまり力のない笑いだったから、人気のないホームの端でもそう響かずに済んでいる。ひとしきり笑って、「…フルコースだったな」とマルコがぽつりと漏らせば、「サッチ主任は最後まで元気でしたね」と、先ほどまで同じ電車に乗っていたサッチの後を追うように、遠い目をしてエースも呟いた。「あいつは人間じゃねえよい」とばっさり切り捨てたマルコは、エースを促して長いホームを横切りながら、何の気なしに家の鍵が入っているはずの右ポケットを探って、その指が空を切るのを感じて「ん?」と首を傾げる。右ではなくて左だっただろうか、とまだ冷静な頭でそっと手を入れ替えて、しかし左にもないことに気付いたところで、「あ、」とマルコは声を上げた。隣で歩いていたエースが、「どうかしましたか?」とマルコを見上げる。ポケットにない、鍵の在り処。マルコのキーケースには、自宅の鍵の外にデスクとキャビネの鍵とUSBがついていて、帰り際、エースを待たせていたために幾分急いで鍵を掛けた後に、何を思ったのかマルコはキーホルダーをカードキーと一緒に机の引出しにしまったのだった。不安そうな顔をするエースに、「鍵を置いて来ちまったよい」とマルコが告げれば、エースは「えっ」と声を上げて、反対側のホームを見やって、「会社にですか」とエースは言う。マルコが黙って頷くと、「じゃあ取りに帰らないと、…って、でも上りの終電もさっき行きましたよね」とエースは言って、「そもそも施錠後だから、社内に入れねえよい」と沈んだ声でマルコは返した。ああそうか、と府に落ちた様子のエースを尻目に、マルコは緩くため息を吐く。エースとの飲み会も、カラオケもわりと楽しかったというのに、最後の最後でろくでもないことになってしまった。原因が随分早いうちに出来上がっていたことは棚に上げて、全部悪乗りするサッチが悪い、と結論付けるマルコは、エースに袖をひかれて我に帰る。「誰か、鍵預けてる知り合いとか、彼女とか?いないんですか」とエースが尋ねるので、「残念ながらいねえよい」とマルコは緩く頭を振った。「ああ…」と目に見えてがっかりしたエースに、「お前がそんな顔することはねえよい」とマルコはことさら軽く告げて、「でも」と言い募るエースに、「一晩くらいネカフェでもホテルでも、時間はつぶせるから大丈夫だよい」と笑ってやる。過ごせないことはないだろう、とマルコはあまり働かない頭で考えた。

幸いなことにマルコの財布にはまだいくらか金が残っているし、駅から10分も歩けばネカフェも満喫もカプセルホテルも揃っている。だから気にしなくて良いよい、と言いかけたマルコに、「いやでもそれはあんまりなんで、えーと…家に、来たらいいと思いますよ」とエースは言った。「もし、よければですけど」と小さく付け加えたエースの顔を眺めて、マルコは「いや、そりゃ願ってもねえ話だが」と呟く。ぱちり、と瞬いたマルコが、「でも、いいのかよい。お前こそ彼女とか」と尋ねれば、俺彼女いないんで、と前置いた上で、「家、よくいろんな奴らが泊まって行くんで別に平気ですよ。布団も二組ありますから安心してください」と言ってエースはにっこり笑った。やさしい。酒の力も加わって、不覚にも泣きそうになったマルコは、慌ててエースから目を離して「正直助かった。ありがとよい」とエースに告げる。「いえ」と短く切ったエースは、「じゃ、行きましょうか」と改札の先を指差した。定期で改札を抜けて、普段は別れるはずの階段を並んで下りながら、「俺の家、ここから10分くらい歩きますけどいいですか?」とエースが尋ねるので、否やなどはあるわけもないマルコは「20分でも歩くよい」と返す。駅前のバスターミナルを横切って、薄暗い街灯がでラス大通りを歩きながら、「大丈夫です、10分で」と笑うエースが存外楽しそうなので、「今日はどうだったよい」とマルコが水を向けると、「正直な話、期待してなかったんですけど、すごく楽しかったです」とエースがストレートに答えるので、「まあ、あの席次はなかったよい」と役職付きだらけのテーブルを思い出しながらマルコも頷いた。「ええ、でも結果的に社長とたくさん話せて、やっぱかっこいいなって思いました」とエースが感想を述べるので、「うちの親父は最高だよい」とマルコも胸を張る。「おやじ?」とエースが首を傾げるので、「ああ、社長のことだよい。『会社ってのは家族見てえなもんだ。だから、俺の事は親父と呼べ』っていうのが新入社員研修の一番最初の項目にあってな?最初は気恥ずかしかったが、今じゃすっかり呼び慣れたよい」とマルコは言った。慣れた、どころかどこか誇らしささえ感じているマルコは、「親父かあ…」と呟いたエースの横顔が嫌悪や拒絶ではなくむしろ羨望に満ちていることを見てとって、後少し親父に手を引かれたら落ちてくるんじゃねえかい、と密かに推察しておく。サッチに伝えればさぞかし喜ぶだろう。

駅から延びる大通りを5分ほど下ったところで脇道に逸れたエースは、住宅地の中を何度か折れて、とてつもなく傾斜の急な坂道の手前で右に曲がって、マルコを二階建のアパートまで導いた。明らかに木造だが、作りはしっかりしているようだし、洗濯機置き場は外にあるが雨が吹き込まないように塀と屋根が作りつけられている。そのアパートの右から二つ目、、102号室がエースの部屋だと言った。がちゃり、と鍵を廻したエースは、すぐには扉を開かずに、「すいませんすぐ終わるんで5分だけここで待っててもらえますか」と一息にマルコに告げて、マルコが頷くのを待ってから半分だけ扉を開いて中に滑り込んで行く。そりゃ大人に見られたくねえものもあるよい、と学生時代に思いをはせながら、洗濯機の上に置かれた洗剤を眺めつつマルコが待っていると、中からは随分慌てて物をしまいこんでいるらしい音が聞こえて、マルコは少し微笑んだ。どんなに汚れていてもマルコは気にしないが、エース自身が気にするのだろう。そうして、5分と言うには少しばかり長い時間が経った後で、ようやくマルコの前で扉が開いて、軽く息の上がったエースが「お待たせしました、どうぞ」とマルコと招き入れた。「お邪魔します」と断って扉を潜れば、玄関には先ほどまでエースが履いていた靴すら見当たらない。ちらりと視線を落とした靴箱から、ビーサンらしきものの端が覗いているのはまあご愛敬だろう。玄関から先に目を向ければ、そこは直接わりと広い板張りの台所になっていて、マルコがぐるりと見渡した限りでは、エースは綺麗に暮らしているようである。ぺたぺた歩くエースの後に続いて、台所と自室を区切っている襖を抜けても、マルコの印象は変わらなかった。物のすくねえ部屋だな、と言うのが第一の感想である。妙な形で張り出す押入れを除いて6畳ほどの部屋に、ノートPC2台と周辺機器が置かれた金属製のラックが一つ、デスクトップPCの乗るパソコンデスクが一つ、大学の教科書らしいテキストが詰まったカラーボックスが一つある以外は、フローリングの床が覗いている。ふうん、と頷いたマルコの視線に気づいたのか気付かないのか、「今テーブルと座布団出すんで、ちょっと待ってください」と、エースは押入れの片端をそっと開いて、中から小さな折りたたみ式のテーブルと、続いて天袋から大きめの座布団を二枚引っ張り出した。かちん、と足を立ててテーブルを置いたエースは、台所から台拭きを取ってテーブルを拭いて、座布団を敷いてから「どうぞ」とマルコに向き直る。まめな性格だよい、と、つい不要な物を増やしがちなマルコは嘆息しながら座布団に腰を下ろした。この座布団も、それほど新しくは見えないのにへたっていないから、良く日に当てて乾かしているのだろう。

マルコが落ち着く間、台所に消えていたエースは、やがて麦茶のポットとグラスを二つ、それから「こんなものしかなくてアレですけど、じいちゃんが送ってきたんで」と言いながら塩羊羹を差し出すので、「お前、面白いなあ」と、マルコは思わず笑ってしまった。麦茶を作っている男子学生にも笑えるし、お茶受けに塩羊羹を差し出す20歳もたいがいどうかしている。悪い意味ではないが。「なんか、すいません…」とエースが僅かに肩を落とすので、「悪い、随分まともに生活してるみたいだからな、つい笑っちまったい」とマルコは弁解する。「今はいらねえが、塩羊羹も好きだよい」とマルコが頷けば、「え、ほんとですか?これ結構うまいですよね」とエースが目を輝かせるので、こいつかわいいな、とマルコは思って、思った瞬間にその言葉が目の前のエースとうまく重ならなくて首を傾げる羽目になった。が、まあそれはそれとして、と遠慮なく、麦茶を一口すするマルコは、「随分綺麗な部屋に見えるが、さっきは何を慌てて仕舞ってたんだよい」とエースに尋ねる。「いや、その、」とエースが口ごもるので、隠したいものを白状したら隠した実がなくなることを知りつつ、「うん?」と意地悪くマルコが続ければ、「PCの背景がひどいんで仕舞ってました…」とエースは言った。「あれは」とデスクトップを指して、「だいたいテレビ見たり課題したりするのに使ってるんでまともなんですけど、こっちの二台」と、ラックに置かれたノートPCを示して、「遊び用なんで見せらんないものがいろいろありまして…」と、俯きながらエースは俯いている。開いてみたい気もしたが、そこまで聞いてもう満足だったマルコは、「そうかい」とだけ頷いて、もう一口麦茶を飲んだ。エースはしばらく顔を上げなかったが、やがて復活して「風呂、入りますか?」と尋ねるので、マルコは少しだけ逡巡して、しかし酒臭いまま人の家の布団に潜り込むわけにもいかないので「頼むよい」と頭を下げる。エースは、「湯船浸かります?それともシャワーにしときます?」と重ねて尋ねるので、「飲んだ後だからな、シャワーで」とマルコは答えて腰を上げた。キッチンとの境を越えて、「ここです」とエースが指した風呂場は独立型で、ユニットバスの部屋に住むマルコはわりと本気で「お前、俺と部屋交換しねえかい」と言ったのだが、マルコの声はエースが流したお湯の音でかき消されてしまったらしい。「適当に着替えとタオル出しとくんで、あとシャツは洗濯するんでそこ置いといて下さい」とエースが言うので、「そこまでしなくていいよい」とマルコは首を振ったが、「でも明日会社行くんですよね?俺の分もするついでなんで、えーと、マルコ主任が嫌じゃなければ」とエースは頬を掻きながら笑う。何から何まで。「それじゃあ、頼むよい」とまた頭を下げるマルコに、「はい」とエースは頷いて、すたすた歩いてぱたんと襖を閉めた。脱衣所のない部屋だから、気を使ってくれたらしい。本当に、何から何まで。ばさばさと服を脱いだマルコは、ざっと服を畳んで風呂場に入って、蛇口を捻ってエースが調整してくれた湯を浴びる。気持ち良いよい、と目を閉じるマルコの耳にはやがて、タイミングを見計らったらしいエースの足音と、それから玄関の扉が閉じる重い音、さらに洗濯機を使う水音が聞こえて、(この時間に外で洗濯機まわしたら苦情が出るんじゃねえかい)とマルコはちらりと考えたが、シャワーを浴びる水音も相当うるさい筈なのであえて目を(耳を?)逸らすことにした。

泡を流して、きゅ、と蛇口を閉めたマルコの耳にはまた襖を閉じる音が聞こえて、数秒待ってから薄く風呂の扉を引いたマルコの視界には、古びた四角い椅子と、その上に置かれたタオルと着替えが目に入る。ついでに、先ほどまで何もなかった風呂場のすぐ下の床にもバスマットが敷かれている。だから、何から何まで。エースのものらしいTシャツとハーフパンツを身に着けて(新しいものではないがきちんと洗って畳んである)、タオルを頭に掛けたマルコががらりと襖を開けば、エースは台所に背を向けて布団を敷いているところだった。「上がったよい、良い風呂だな」とマルコが声をかければ、「ちょっと…かなり、狭いですけど、そう言ってもらえると嬉しいです」と、わずかばかり振り返ってエースは答えて、シーツの最後の一片を布団の下に押し込んでいる。布団の端に枕を置いて、ぽん、と叩いたエースは、「じゃあ、どっちでも好きな方どうぞ」と、並べて敷かれた布団を指して、「俺もシャワー浴びて、あと洗濯物干すんで先に寝ててください」と言った。さすがにそれは、とマルコが躊躇すると、エースは僅かに首を傾げて、「そうですか?」と言って、それから「じゃ、押入れに漫画とかあるんで、あとデスクトップ」と机の上を指して、「電源押してくれればテレビ画面になってるんで、好きにしててください」と緩く笑って、押入れからもう一枚タオルを取って、仕切りの襖をぱたんと閉める。一瞬静まり返った部屋の中で、良く見ればマルコが脱いだ服はきちんとハンガーに掛けられて部屋の隅に下げられているし、マルコの服は一段高い棚の上に乗っていた。いやもう本当に、何から何まで、と何度目になるかわからない言葉を反芻して、押入れに近い布団に腰を下ろしたマルコは、とりあえず押入れの扉を開けてみる。一間ある押入れは、半分に洋服、もう半分の上に本棚、下の段に簾が敷かれて、どうやら布団はここにしまわれているらしい。敷きっぱなしというか、置きっぱなしの自分の部屋のベッドを思い出したマルコは、エースのマメさに頭が下がるばかりだった。いい嫁になれるよい、とナチュラルに考えたところで、嫁じゃなくて婿だよい、とマルコは笑おうとしたが、どちらにしてもしっくりくるような気がして軽く首を捻る。たぶん酔っているのだろうと思う。

マルコが本にもパソコンにも手をつけずに布団の上でボーっとしているうちに、風呂場の扉が開く音が聞こえて、下半身はともかく、上半身にタオルを羽織っただけのエースが顔を出した瞬間にどきりとしたことも、マルコの洗濯物を干すエースの後ろ姿に見行ってしまったことも、マルコの隣に腰を下ろしたエースの濡れた髪がやけに鮮やかに見えたことも、全て「酔っているから」ということで片づけたマルコは、「おやすみなさい」と緩やかに告げられたエースの声に、「よい、」と短く返して目を閉じた。夏がもうそこまで迫っているエースの部屋のベランダの扉は全開で、一枚だけのカーテンが風に揺れている。良く乾いた空気は、洗濯物をきれいに乾かしてくれるだろう。最後に、朝目が覚めた時にエースが隣にいると言うのはなかなか興味深いことだよい、と思ったマルコは、どうしてそう思ったのか分かりかけたような気がしたが、エースの寝息とマルコの呼吸に意識を取られて、結局思考を手放してしまった。エースの部屋の天井は、マルコの部屋のそれと同じ色をしていた。


(エースの家に泊めてもらうマルコ大学生エースとリーマンマルコ/ 現代パラレル / ONEPIECE )