I t ' s   a   f i n e   d a y / 金 曜 日 の 居 酒 屋 で


それは、エースがはじめて白髭社の飲み会に連れて行かれた夜のことだった。
金曜日の午後からのバイトを終えて、18:30に上がろうとしたエースの腕を掴んだのはいつもいつの間にか編集部に顔を出すサッチ主任で、「どうかしましたか」と尋ねるエースも慣れたものである。何か物をくれるか、相変わらず就職を進められるか、さもなければただの雑談で終わるかだ。けれども、今日のサッチ主任は一味違って、「お前今日用はあるか?」とエースに問いかける。特に何も無い、帰って飯食って寝るだけのエースが頭を振ると、「じゃ明日は」と続けてサッチは尋ねるので、「や、別に、洗濯と掃除くらいです」とエースが答えれば、サッチ主任は「そりゃ良かった」と頷いて、「お前あと15分ここにいろよ」と言ってエースの二の腕を離した。「はあ、」と、別にかまわないが理由は教えて欲しいエースが間の抜けた声を漏らすと、「今日社長も来る飲み会だから、お前も一緒に連れてってやるよ」と、サッチ主任は満面の笑みで、わりと大きなことをさらりと言ってのける。「へっ?でも、」と言いかけたエースを制して、「ああ大丈夫、お前一人分の飲み代くらい社長が出してくれるから」とサッチ主任が続けるので、金の問題ではないエースはどうにか反論しようとするのだが、「飲めねえわけじゃねえよな?いくら食っても飲んでもいいし、別にこれでお前の一生決めよってわけでもねえし、気楽に参加しろよ」と言われてしまえばもう手も足も出ない。そうして、「詳しいことはマルコに聞けよ」と言ったサッチ主任がすたすた歩いていくので、エースは呆然とその後ろ姿を見送った。

えーと、とエースが状況を整理していると、「悪いなエース、迷惑だったろい」と横のデスクからマルコ主任が声をかけるので、「いえ、でも突然なんで驚いてます」とエースは短く答える。「先に伝えると理由つけて断られるだろうから、当日まで黙っとけ、ってサッチがな」と言ったマルコ主任の眉根が軽く潜められていて、あ、サッチ主任に言われたら黙ってるんだ、と思ったことは表情に出さず、「俺はいいんですけど、でも俺が参加していいんですか?社長が来るって、結構大きい飲みなんじゃ?」とエースが尋ねれば、「新しいプロジェクトを立ち上げることになってな、何人か中途採用したからその歓迎会ってのが名目で、まあ実際はただ理由をつけて騒ぎたい奴らの集まりだよい」とマルコ主任は答える。「堅苦しいことはねえから、嫌じゃなけりゃ参加してくれよい」と言ってから、社長も喜ぶしな、と付け加えるマルコ主任に「はい」とエースは頷いた。「それで、参加費は?」とエースが現実的なことを聞くと、「サッチも言ってたが、本当にいらねえよい」とマルコ主任はひらひら腕を振る。「もともと人数や会費の決まってる会じゃねえしな、社長は冗談としても俺とサッチでお前の分は出すよい」とやけにきっぱりした顔でマルコ主任が言うので、マルコ主任に奢られ慣れてしまったエースは「ありがとうございます」と頭を下げた。マルコ主任はしばらくエースを眺めていたが、やがて眼を反らして、「7時に現地集合だから、PC落としたら一緒に出るよい」と言ってデスクに腰を下ろす。「はい」と歯切れよく返事したエースが、ぐるりとあたりを見回して、隅に寄せられた段ボールの山を綺麗に積み直しているうちに、PCを落としてデスク周りを整理したマルコ主任が「エース」と声をかけるので、エースは丸椅子に乗せた鞄を取ってマルコ主任の横に並んだ。同じ課の皆がまだほとんどデスクに向かっているので、「皆で行かなくていいんですか」と声を潜めてエースが尋ねると、「すぐ近くのなじみの店だからな、お前がいなきゃ俺も5分前に出るよい」と当然のようにマルコ主任は言う。エースは一瞬足を止めかけたが、「どうかしたかい」とマルコ主任が振り返るので、「なんでもないです」と言って小走りにマルコ主任の後を追った。

8階にあるオフィスからエレベータでロビーまで降りる間に、エースはマルコ主任に社長の印象を尋ねられた。「会ったことはあるんだろい」とエレベータの側面に背を預けたマルコ主任が水を向けるので、「ここで受けた会社説明会と、あと最後の面接で少し、会ったって言うか見た、くらいですけど」とエースは答える。それから、「えーとなんていうか、かっこいい人ですね。写真でも思いましたけど、面接実際に目の前に座っているところを見たらちょっと気押されそうになって、」とエースはがりがり頭を掻いて、「でもかっこ悪いところ見せたくなかったんでがんばりました」と言った。既に最終面接に合格しているエースはほとんど内定まで漕ぎつけていて、あとはエースの気の持ちようだとサボにすら言われている。確かに、社会に出てから大学で詰め込んだ知識はほとんど役に立たないと言うし、エース自身そこまでプログラミングやネットワーク構築に思い入れがあるわけではないので、PC操作に長けた要因として白髭社で働くのも悪くはない。問題は、エースの実家との兼ね合いである。エースの両親はたいして気にしていないが、エースの祖父-正確には大伯父よりもっと遠い関係に当たるのだが-はエースが地元に戻ってこないことを嘆いているらしい。なんだかんだで家族を愛しているエースは、確かに大学の4年間が終わった後は地元に帰ることも考えていて、春休み中に受けた2つの会社のどちらからも色よい返事をもらっている。一社は自転車でも、もう一社は徒歩での通勤にも手当てがつくと言われて、エースは少しばかり笑ってしまった。エースの地元は王政の小さな島国で、だからどちらの会社も白髭社とは比べ物にならないほど規模は小さいのだが、その分やりがいはあるような気がしている。けれども、この数カ月の間にエースは白髭社にも、白髭社の社長にも、マルコ主任にもサッチ主任にも随分思い入れができてしまって、今さら断ち切れるか、と聞かれて首を縦に振る自信がない。きっかけさえあればな、と、優柔不断な自分を責めているうちに、エースとマルコ主任は自動ドアまで足を進めている。

すぐ近く、と言ったマルコ主任の言葉通り、飲み屋は白髭社の入るビルから駅を背にして徒歩2分、むしろ8階から下まで降りる方が時間がかかったんじゃないか、と言う距離にあった。見た目がこじんまりとしているので、どういう規模の会なのかさっぱり理解せずに「白髭社の、」と店員に告げたマルコ主任の後に続いて靴を脱いだマルコは、随分長い廊下の、ふすまを開いた先の光景に軽く目を見開く。幅はそれほどでもないが、とにかく奥行きの広い座敷一面に作られた座席は、すでに3分の1ほど埋まっている。上着はなくても、シャツにネクタイを絞めた面々の中で、学生のエースは明らかに浮いていて、短パンにTシャツじゃなくて良かった、と、せめてジーンズと黒シャツだったことにエースは胸を撫で下ろした。「どこに座りたい」とマルコ主任が尋ねるので、「できれば隅の方がいいです」とエースが訴えると、マルコ主任は軽く頷きながら唇の端を上げて、「お前が入社しても歓迎会はここだからな、よく覚えとけよい」と笑う。そうして、だいたい奥から詰めて座る人々の間をすり抜けて、エースとマルコ主任がどうにか柱脇で襖側の目立たないスペースに腰を落ち着けようとした―その時、「なんでそんな奥に座るんだ、こっち来いよお前ら!」と空気を読まない大声が聞こえて、エースはびくりと背筋を震わせた。隣ではマルコ主任も、「見つかっちまったか」と肩を落としているので、エースの反応は違っていないらしい。無視できるものならそうしたい、と言う感情がありありと伝わる表情で、それでも振り返ったマルコ主任が、「いつまで続くかわからねえんだから、あんまり奥の方には座らせられねえだろい」とエースの肩に腕を置くので、エースはほんの少しだけ驚いて、でもちらりと眺めたマルコ主任の顔がいつも通り眠そうなだるそうな顔なので、エースもおとなしく立っていた。

結局、マルコ主任の抗議もむなしく、「いいから来いよ」と言い続けるサッチ主任の声にはエースとマルコ主任も敵わなくて、エースはなぜか主任や課長や部長が並ぶ「一番いい席」の真ん中に、マルコ主任とサッチ主任に囲まれて座っている。いやいやいやいやこれはねーよ、正座した上に握り拳を置いて誰もいない前の席を凝視するエースに、「せっかく掘りテーブルなんだから、足は降ろしとけよい」とマルコ主任が言うので、エースはやけに強張った足をそろそろと床に伸ばした。ただしエースの視線が揺らぐことはない。が、19時59分に「あっ」と思い出したように呟いたサッチ主任が、運ばれてきたおしぼりに手を伸ばしながら、「ちなみにお前の向かいが社長な」と言った瞬間、襖ががらりと開いて、入ってきたのは白い髭を蓄えた、エードワード・ニューゲード社長である。ええええええええ今さらそれ言うのかよオオオオ、とテンパったエースはきょろきょろとあたりを見渡したが、間の悪いことにすぐ移動できそうな席が近くに見当たらない。ぐるぐる考えているうちに、誘導される社長がどっかりとエースの前に陣取って、「よう、エースじゃねえか」とその落ち着いた低い声を響かせるので、もう逃げられねえよ、と観念したエースは掘りテーブルから足を抜いて正座すると、「こんばんは、お邪魔してます」と手をついて頭を下げた。グララララ、と面白そうに笑った社長は、「堅苦しくなるな、お前はまだうちの社員じゃねえからな、客だと思って楽しんで行けよ」と言って、テーブル越しに腕を伸ばしてエースの肩を叩く。相変わらずかっこいいぜ、と胸をときめかせたエースがごそごそと足を戻せば、それが合図だったように飲み物の注文が始まった。

「ビールで良いかい」と尋ねるマルコ主任に「はい」と頷けば、テーブル全体を廻っていたサッチ主任がまとめて店員に伝えてくれる。「あの、次から俺やりますね」と、戻ってきたサッチ主任にエースが告げると、「乾杯の時以外は皆適当にやるから、気にすんなよ」とサッチ主任は笑って、それから「やっぱお前、うちに入れよ」と言ってエースの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。どこからどう繋がってそうなったのか分からないエースは、「はあ」とあいまいに笑って結論を先延ばしにする。「相変わらずつれねえ返事だな」と笑ったままサッチ主任がぐいぐいエースを押すので、えーとこれどうしようか、とあいまいな笑顔を張り付けたままエースが困っていると、「飲む前から絡むんじゃねえよい」とマルコ主任が横から手を伸ばしてサッチ主任を引き剥がしてくれた。助かった。サッチ主任は、「なんだよ、お前だってこのままエースがお前のところに配属されたら嬉しいんだろうが」と口を尖らせたが、マルコ主任は「そりゃそうだが、それとこれとは別の話だよい」と、肯定しつつもさらりと受け流して、運ばれてきたビールを受け取っている。入社する・しないはともかくとして、『そりゃそうだが』が嬉しかったエースはひとりで照れて頬を掻いた。皆に飲み物が行き渡ったところで、社長が「乾杯!」の音頭を取って、それから先は無礼講である。歓迎会と言うからには、何か紹介があるんだろうと思っていたエースが、一言で終わってしまった社長のあいさつに取り残されていると、「ここはいつもこうだよい」とマルコ主任がエースの耳元で囁いた。なんというか、…フリーダムな会社である。「何せ社長があれだからな」とマルコが示した社長の席、つまりエースの真正面では、すでにビール2杯を空にした社長が上半身裸にシャツを引っかけた格好で談笑していた。いい身体してるな、と思わず見とれかけたエースは、いやそういう問題じゃなくねえか?と慌てて首を振って、しかしこのまま頷いてしまうと白髭社を馬鹿にしてしまうような気がしたので、「俺は楽しくていいと思います」とどうにか肯定的な言葉を絞り出す。と、「そりゃ、良いよい」と言ったマルコ主任が、職場ではついぞ見せたことのない満面の笑みを零したので、エースは今度こそぽかんと口を開けてしまった。この人の皺は笑笑い皺だったのか、とエースは思う。黙りこんだエースに、「まあ、いいから飲んで、食えよい」とマルコ主任が大皿を廻してくれるので、エースは気を取り直して料理と酒に向かうことにした。まったく、一筋縄では行かない会社である。

2時間の予約の筈が、なぜか10時半まで店に居座ったり、それから無理やりサッチ主任に引きずられて三軒隣のカラオケに押し込まれたり、なぜか社長もご機嫌でマイクを握っていたり、結局2時間付き合わされて終電ぎりぎりになったり、エースとマルコ主任が住む駅の先まで行くサッチ主任をふたりで見送ったり、したことはまあ、エースにとってそう悪くもない青春の一ページに刻まれた。

(飲みにつれて行かれたエース/大学生エースとリーマンマルコ/ 現代パラレル / ONEPIECE )