I t ' s   a   f i n e   d a y / 喫 煙 所 前 の 休 憩 室 で


マルコがバイトのエースに気を向けるようになったのは、喫煙所前での邂逅がきっかけだった。
禁煙の風潮が広まる中、白髭社も例外ではなく喫煙室の使用が義務付けられている。周りでは雨ざらしの屋上や駐車場や玄関脇での喫煙を余儀なくされている会社も多かったから文句は言えないが、煙草ぐらいすきに吸わせろ、とマルコなどは思わなくもない。嗜好品の類であるはずの喫煙が隔離されなければ吸えなくなってしまえば、それはもうただの生理現象になってしまうのではないだろうか。トイレ休憩と喫煙休憩。仕事場で吸えた頃は必要なかった時間を無駄に消費することになっていて、だからマルコはそろそろ煙草をやめようかと思っていた。そもそも必死になって続けるようなものでもないのである。職場以外では吸わないし、なければないで困るほどのこともない。職場の机には常にばらばらと細かい菓子類が用意されていて、煙草を吸わない連中はそれで空腹や退屈やイライラを紛らわせている。マルコがそうしても何も悪いことはない。ビジュアル的なことは置いておいて。

問題はやめるきっかけだな、と思いながらマルコが喫煙室までの角を折れると、喫煙室の前の休憩所で誰かが倒れていた。椅子から転げ落ちるような形で、ぴくりとも動かない姿に、驚くよりも身体が先に動いて、「おいどうした?!」と駆け寄って抱き起こせば、ごろりと仰向いた顔があんまり安らかなので、マルコは少々気が抜ける。呼吸はしている。というか、これは、もしかしなくても。そっと長椅子に安らかな顔の子供(図体はでかいが)をおいて、その隣に腰かける。規則正しく上下する胸とあらゆる方向に伸びる黒髪と薄く開いた唇を眺めて、「びっくりさせるなよい」と小さくマルコは呟いた。寝ているのだ、これは。落ち着いて眺めてみれば、それは1週間前にやってきたバイトの大学生だった。マルコの課のバイトは今30分の休憩中で、だからこいつがここで寝ていようとこいつの勝手なのだが、寝るなら寝るで人を驚かせないようにしてほしい。椅子を集めてもいいからちゃんと寝ていることが分かるようにしろ、と起きたら言ってやろうと思ったマルコは、しばらくその幸せそうな寝顔を眺めていた。それにしてもこんなに熟睡してどうやって起きる気だ、と言う疑問がマルコの脳をよぎった瞬間、エースの胸元で携帯が光って、その途端ぱちりと開いたエースとばっちり目が合って、マルコは思わず仰け反った。驚いたのはエースも同じだったようで、「うえっ?!」と妙な声で起き上がろうとして、狭い椅子の上で暴れすぎてまた床に落ちている。

少なからず責任を感じたマルコが、「大丈夫かよい」とエースの腕を掴んで引き上げれば、「すみません、大丈夫です」と額を赤くしたエースはがりがりと頭を掻いた。休憩時間はまだ10分残っている。えーと、と、エースがあんまり困ってるので、マルコは休憩室の端に置かれた自販機に近寄って、「ココアでいいか」と言った。尋ねられているとは思わなかったらしいエースは、「マルコ主任もココア飲むんですか」と驚いたような顔をしている。「俺じゃなくてお前だよい」と、返事を待たずにボタンを押したマルコは、自分用に水を買ってココアをエースに放った。「『マルコ主任も』ってことは、お前も飲めるんだよな」と言えば、「あ、はい好きです、でも、えーと?」と、財布を出そうかどうしようか迷っているので「いいから飲んで血糖値あげろよい」とマルコはひらひら手を振る。「ありがとうございます」と言ってホットココアに口を付けるエースをちらりと眺めて、「お前さっき床で寝てたぞ」と言えば、「でも俺落ちたんですけど」とエースが返すので、「それは俺が椅子に寝かせてやったからだよい」と澄ました顔でマルコは告げた。その瞬間、ココアを噴き出しそうな勢いで「えっ?!」と言ったエースの顔があんまり笑えるので、マルコはさっきの驚きをチャラにしてやることにする。「すいません…」としょんぼり謝るエースに、「最初は座って寝てたんだろうが、どうせ寝るんだったらもっとどうどうと長椅子集めて寝ろい」とマルコは笑ってやった。実際、仕事が忙しくなれば徹夜明けの連中がそうやってここで寝ている。エースはまだ知らないだろうが。そうして、「寝ていたことを怒っているわけではない」とマルコが示してやれば、エースもぎこちなく笑って「ありがとうございます」と言った。

ふたりでしばらく隣り合わせで水とココアを飲んで、それから本来の目的だった煙草を吸うためにマルコが立ち上がると、当然のようにエースも立ち上がった。「課に帰るわけじゃねえよい」とマルコが言って喫煙室を指させば、「煙草吸うんですね」と、エースは意外そうな顔で呟く。「まあな」と言った後で、まあもうやめようと思ってるがと心の中で付け加えたマルコは、「お前は吸わねえのかよい」とエースに尋ねた。他のバイト連中とは、喫煙室で会うことも多いが、エースとは一度も会ったことがないのでおそらく吸わないのだろうと思う。予想通り、「吸わないですね」と言う答えが返って、マルコは頷いた。「煙草は嫌いか?」と続けてマルコが尋ねると、「吸ったことないんですきとか嫌いとかは別に」とエースは言う。「俺は吸わないですけど、誰かが吸っても気にはなりません」とも。「じゃあ吸わない理由もねえのか」とマルコが問えば、「まあ…あるっちゃああるんですけど」とエースは言葉を濁した。「なんだよい」とマルコが重ねると、エースはしばらく目を泳がせて、それから「金がかかるから」と言った。金が余っていてバイトをする大学生なんて聞いたことがないから、エースの言葉はもっともなのだが、「金がかかるから煙草を吸わない」と言う言葉を聞いたことがなかったマルコは、思わずまた笑ってしまった。エースは正直でいい。健康被害も副流煙も気にしないのだろう。たぶん、喫煙室の中でひとりだけ煙草を吸わずに、それでも何も思わずにバイト連中と馬鹿笑いができる。ひとしきり笑った後で、マルコは手にしていた煙草の箱をぐしゃりと潰して、休憩室の屑かごに放り込む。「どうしたんですか」と慌てるエースを、「休憩時間も終わったから帰るよい」と促して、マルコはライターも「燃えないゴミ」に入れた。「え、でも煙草は」と言うエースに、「今止めた」と返して、マルコはぐうっと身体を伸ばす。つられたように伸びをするエースの背中を叩いて、「せいぜい稼げよ」とマルコは薄く笑った。

エースは、人事課のサッチ(入社当時からの腐れ縁が続いている)がねじ込んだバイトだったが、割と良い拾いものだったかもしれない。人を見る目(だけ)はあるサッチの推薦だから心配はしていなかったが、期待以上に。金がないわけではないマルコは、煙草をやめて浮いた金の使い道を考えて、エースに飯でも奢ってやればいい、と言う結論にいたった。もうすこしエースが職場とマルコに慣れて、ココアの一本程度で動揺しなくなったら、実行してやろうと思う。

(サッチは人事部主任 / 大学生エースとマルコ主任 / 現代パラレル / ONEPIECE )