I t ' s   a   f i n e   d a y / 業 後 の ラ ー メ ン 屋 で


22時過ぎのラーメン屋は、ゆるいざわめきに包まれている。
オフィス街の片隅にある店内にはいい加減にいい気分な酔っぱらいと残業帰りの疲れた顔をしたサラリーマンが半々に詰め込まれて、どちらでもないエースはカウンターに肘を付いてその面々を眺めていた。すでに大盛り3倍のラーメン(1杯はチャーシューメン)を平らげたエースは空腹ではなかったが、少しばかり手持無沙汰で、まだ冷たい水を飲み干す。コップ一杯の氷が溶けきる前にラーメン3杯が空になることを、エース自身も気にはしているのだ。特に今日は、奢られ飯なので。ちらり、とカウンターの横の席に視線を送れば、隣で塩ラーメンを啜るスーツ姿が目に入る。エースより10才程年上の彼は、エースのバイト先である出版社の正社員だった。大学3年のエースは就職活動の真っ最中だったが、活動中に出会ったこの会社の人事課のひとりにえらく気に入られて、とりあえずバイトでもしろよと引きずり込まれて今に至っている。どこをどう操作したのかろくに面接も受けずに雇われたエースは、訳も分からないまま編集補助のようなことをしていた。隣の彼は、エースが押し込まれた課の主任で、名前はマルコと言う。なんというか、パイナップルのような髪型に眠そうな目をした、一度見たら忘れられない姿をしていた。はじめて紹介された日に、(あの髪はどうやってセットしているんだろう)と思ったことはエースの中で一緒の秘密である。ともあれ見た目は置いて、マルコ主任は良い上司だった。バイトのエースと社員を明確に線引きした上で、確実にエースにできる仕事をまわしてくれる。

エースはまだ就職活動を続けていたが、「いいからもうここに入れよ」と例の人事課が進めるので、最近は大分ぐらついていた。実際、とても良い会社だと思う。就職活動をして合同セミナーに行っても、大学の就職支援センターに行っても、ネットの口コミでも、驚くほど良い噂しか聞かない。それでなぜ二の足を踏んでいるのかと言えば、そもそもエースがプログラマー志望だったからだ。出版業界とIT業界の企業ブースが近くて、なんとなく足を止めて口上を聞いていたら掴まってしまったのである。「ゆっくり考えろ」とマルコ主任は言うが、ぐずぐずしていたら結局居心地の良いここに居座ってしまいそうで、だからエースは少しばかり焦って、それでもバイトは続けている。今日は大学の6時限目を(たまたま入ってしまった)(ちなみに今日は午後だけなので12時まで寝ていた)終えてバイトに向かい、遅番の皆と働いて別れたところで、マルコ主任に声を掛けられた。早番だったはずのマルコ主任がどうしてここにいるのかといぶかしげだったエースに、「今まで印刷所にいたんだよい」と疲れた顔でマルコ主任は言う。「今日印刷を始めないと困る原稿が午後になっても届かなくて、印刷所と相談しながら作業していた」のだと。

何といっていいか分からなくて、「えーと、お疲れ様です」と曖昧に言ったエースの首を捕まえて、「お前腹へってねえか」とマルコ主任は言った。「減ってますけど」と返したエースの首を捕まえたまま、「じゃあラーメン食いに行くよい」と言ってマルコ主任は歩き出す。ラーメン。「や、ちょっ、」と、断りかけたエースを遮って、「何か用事でもあるのか?」と尋ねるマルコ主任に返す言葉はない。別に用はなかった。明日の講義は2現からで、提出物もない。黙ってしまったエースの首から手を離して、「何もなけりゃ付き合えよい」とマルコ主任はエースを促した。「はい」と観念したエースは頷いて、マルコ主任に続いて歩き出す。けれども、エースの足取りは少しばかり重い。一緒にラーメンを食いに行くことが問題なのではないのだ。問題は、それがマルコ主任のおごりと言うところだった。前にも同じことがあったのだ。ラーメン一杯を奢られるくらいならエースも気にしないが、3杯食べたエースは2杯目以降を自分で払うつもりだったのである。けれども、「奢りだって言ったろい」と言ったマルコ主任は当然のように4杯分の(自分の分を含めて)代金を払って店を出てしまった。エースはさすがに申し訳なくて、次に誘われたファミレスでは普通の量を(一人前を)注文したら「それで足りるのかよい」とマルコ主任に尋ねられて、足りると言って頷いた直後に腹の虫が鳴って(もう食った後だったのに)逆に叱られてしまった。「学生が遠慮するな」と、マルコ主任は言う。それは何の含みもないからこそ心苦しくて、でもマルコ主任と飯を食えるのはうれしいので、結局エースは誘いを断れずに付いていくのだった。

というわけで、今日もやはり瞬く間に3杯を空にしたエースの隣では、マルコ主任が麺を啜り終えてスープを飲んでいる。「ゆっくり食え」とマルコ主任は言うが、これでも随分ゆっくりなのだった。エースの実家では、祖父と弟とエースが戦争のような食事をするので、エースの両親と弟の父親が笑っていられるのが不思議なくらいである。今は一人暮らしなので、そう焦る必要もないのだが、身に付いた習性はそう簡単に治るものでもない。腹も減っていたし。もうすぐ食い終わるなあ、と思って見ていたエースに、不意に振り返ったマルコ主任が「ほら」と言った。動揺して、「え」と付いていた肘を外してがたんと椅子を鳴らしたエースに「何してんだよい」とあきれたような眼を向けながら、「いいから器出せ」とマルコ主任は促す。「あ、はい」と、すっかり空になっている器を差し出せば、マルコ主任の器からチャーシューが1枚移された。「え?」と間の抜けた声を上げたエースを尻目に、マルコ主任は「ごちそうさま」と手を合わせている。食っていいのかなんなのか、良くわからないエースが器のチャーシューとマルコ主任を交互に眺めていると、「金払ってくるから、ちょっと食って待ってろ」と言って、財布だけ手にしてマルコ主任は立ち上がった。食っていいらしい。エースが。全部そうなんだけれども、譲ってもらうのは奢りの中でも特別な気がして、エースはむぐむぐと1秒で食えるはずのチャーシューをゆっくり噛み締めた。エースが食べたラーメンはしょうゆ味だったから、塩味のチャーシューは今日初めてで、だからか知らないけれども格段にうまかった。飲み込むのが惜しいくらいに。

それでもいつまでも噛んでいるわけにはいかなくて、名残惜しいまま余韻を噛みしめていたエースの横に、会計を済ませたマルコ主任が帰ってくる。「ごちそうさまでした」と頭を下げたエースに、「お前がうちに入ったら、もうちょっといいものも食わせてやるよい」とさらりとマルコ主任は言って、目を丸くしたエースを置いて店を後にした。一拍置いて、小走りでマルコ主任を追いかけるエースは、マルコ主任に入社を勧められたのはこれが初めてだとちらりと思った。
悪くない気分だった。

(バイト先は「白髭社」(はくししゃ)前株で / 大学生エースとマルコ主任 / 現代パラレル / ONEPIECE )