ザ ・ グ レ イ ト フ ル デ ッ ド 3


「もうすぐ二度と明けない夜が来て朝が来てあなたは死ぬのね」と、朝露に濡れた丘の上で隣に座るロジャーの右手をそっと握りながらルージュは微笑んだ。薄く朝靄に煙る薄青い海はどこまでも静かにルージュの言葉を飲み込み、決して離すことはない。「そうだな」とごく軽くルージュの言葉を受けるロジャーの声色はひどく薄く、しかしその音はルージュの奥深くにまで染み込んでいく。ルージュを通して、息づく命の縁までたやすく辿り着くのだ、と、細く長く息を吐きながらまだ膨らみかけてもない腹部をルージュはゆるりと撫で擦った。今ここに確かにいるもの。不意に手を握り返されて、「どうしたの」とルージュが尋ねれば、ロジャーはごく僅かに戸惑ったような、心もとないような、およそ見たことのないような顔で、「いいんだぞ」と言った。

「俺がいなくなったら、…逃げてもいいんだ。落ちぶれた海賊王の子供の母親なんて立場から」

え、と声には出さず呟いたルージュの前で、ロジャーはほりほりと顎を掻いてまた海に向き直る。いいんだ、とまた一言呟いたロジャーの声で、ようやく我に返ったルージュは、この人は何を言っているのだろう、としばらく考えて、ああこの人は知らないのだ、と、柔らかに笑いながら知る。一度宿ってしまった命は、どう消そうと母体に、ルージュに影響をもたらすことを。産むことも、産まないことも、ルージュにとっては同じことだった。それとも、と、細いロジャーの指の一本一本を確かめるようになぞりながらルージュは首をかしげる。もっと別の事をロジャーは言っているのだろうか。産まずに、ロジャーと一緒に行っても良いと言うのだろうか。だったら連れて行ってくれたらいいのに、と、昔も今もそれだけは言いださないロジャーの、手の甲にほとんど肉は残っていない。そもそもルージュがいなければ、ロジャーは行く必要などないのだろう。ただ逝くだけで良いのなら、ロジャーはこの楽園のような箱庭で、骨も残さず朽ちたところで惜しくはないに違いない。それを、しないのは、ルージュと、そして。だからルージュは、もう一枚色を重ねるように艶やかに笑って、「大丈夫よ」と心にもないことを言う。「アンもエースも私が護るから、あなたは安心して良いの」と告げれば、ロジャーの顔色は目に見えて明るくなって、本当に良かったとルージュはまた腹を擦る。「まもれるか?」と、幾分持ち直した声を出すロジャーにさらに頷いて、だから、とルージュは口を開いて、「安心して、死んで良いのよ」と続けた。「そうか」と酷く満足そうに笑うロジャーの顔はルージュが見たくてたまらず、そして二度と見たくもない色をしている。そう遠くもない未来に、その日は訪れると言うのに。

ロジャーが病に侵されたのはルージュと出会う前で、ロジャーがルージュの手を引いた日から終わりは見えていた。だから一度は離れたのだ。島を出るロジャーと、残るルージュの間には約束も会話もなく、楽園のような島に住む多くの女たちと同じように、ルージュにもあわい思い出だけが残る、はずだった。だと言うのに、死期を悟ったロジャーはひとりで島に戻りそして、あろうことかルージュに、残していくことしかできないルージュに、子供を遺すと言う。余りにも身勝手な言い分はルージュに船乗りだった父の記憶を呼び起こして、だからというわけでもないがルージュはその手を取ってしまった。愛しい欠片が欲しかった。母のように、叔母のように、祖母のように、父を男を息子を待つだけの生活がそう悪くもないと言う事を知っていたからかもしれない。穏やかに笑う彼女たちの心が欲しかった。愛されたかった。愛された証が欲しかった。そんなもののために生み出される命にすら意味があると言う事を、そんなふうに生み出されたルージュはもちろん知っている。そうでなくてはいけなかった。ルージュが愛されていたことを証明するためには、ルージュが愛されて愛し続けるしかない。そしてそれはもう叶ってしまっている。あんなに大事にしていた船を、海賊団を、仲間を、海を置いてまで、ロジャーはルージュに会いにきた。それだけで十分だった。ルージュにとってのロジャーは栄光ある海賊王でもなければ政府に追われる大罪人でもなく、ただロジャーである。等しくロジャーである。そっとロジャーの指から手を離したルージュは、ロジャーの膝に両腕をかけてごろん、とロジャーの膝の上で横になった。「服が濡れるぞ」と言いながらルージュの肩を抱いてくれるロジャーの腕が、もっとずっと細くなっても、いっそ骨になっても、無くなってしまっても、ルージュにはロジャーの体温が残るのだろう。幸いなことに。いっそ目を閉じてしまいたいくらいだったけれど、ルージュはごろんと寝返りを打って仰向けになると、余り似合ってはいないロジャーの口髭に手を伸ばして口を開いた。

「ねえロジャー」
「ん?」
「私はもっとあなたに恋をしていたかったわ」

こんなふうに、残された時間を享受してやさしく愛し合うのではなく、何も言わずに去っていくあなたをお腹の子と見送って涙を流して、どこかで好き勝手に生きているあなたを想いながら「それでもすきだったのよ」って子供に言えるような、そんなどこにでもいる女になりたかった。

「胸を焦がすような恋をしていたかったの」

ぽつり、と落ちたルージュの声は震えても歪んでもいなかったが、笑えないルージュの上で、ロジャーはことさら大きく笑んで、「それでも愛してくれたんだろう」と言う。「俺も、俺の子も、お前が愛してくれたからここにいる」と続けて、そっとルージュの髪をなでるロジャーの手があまりにも優しいので、「うん」とルージュは頷いた。頷くことしかできなかった。死にに行くロジャーが笑っているのに、残るルージュが泣くわけにはいかない。ルージュが泣くのは、ルージュが死ぬ時だ。それまではずっとやさしくてやわらかくて暖かい感情を、ロジャーにも、アンとエースにも注いでいたい。ロジャーがそうしてくれたように。ロジャーがそうしようとしてくれるように。当たり前のように出来るように。

ロジャーの口から、「さよなら」と「ごめんな」と「ありがとう」は、終に聞くことがなかった。


 ( 子供を産むということ /  ロジャーとルージュ  / ONEPIECE )