ど こ か の 国 の い つ か の 夜 へ


その夜、白ひげ海賊団が停泊したわりと大きな夏島では、年に2日の大きな祭りが開かれていた。それこそ島中の路地を埋め尽くすように小さな提灯と行燈に火が灯り、河には蝋燭を乗せた紙の舟が流されて、風が吹く度に島がゆらゆらとオレンジ色に呼吸している。石造りの家屋はそうそう燃えはしないだろうが、船乗りにとってはあまりぞっとしない光景だ、といったことを考えるマルコは自分の能力を完全に棚上げして、「おい、お前も混ざりてェとか言うんじゃねえよい」と隣を歩くエースに声をかけた。「しねえよ」と、屋台のイカ焼きを齧りながら短く答えたエースは、刺青を隠すためにその辺りで買った紺絣の甚平を上だけ羽織っている。 ぱたぱたと手で顔を仰ぐエースはどうも上着を脱いでしまいたいようなのだが、マルコはマルコで普段は止めないボダンを上まできっちりとめているので同情の余地はなかった。袖をまくれるか、胸を肌蹴られるかの違いである。あーあっちぃ、とぼやいたところで、視線の先に何やら賑やかな一団が見えてマルコは目を眇める。「…何の音だよい、」とマルコが呟けば、「ああ風鈴だ」と嬉しそうに言ったエースは、イカ焼きをがぶっと口に入れて、竹串を自身の炎で焼いてしまってから音のする方角へ小走りで向かっていく。「だからそういうことをすると服を着ている意味がなくなるだろい」と、大して驚きもせずに言ったマルコがすたすたとエースの後に着いて行くと、格子状に組まれた棚木から、ガラス製の丸い物がたくさん吊られていた。

ガラスには先に舌の付いた糸が通してあり、舌が風にあおられる度に糸に付けられた貝殻がガラスに当たってちりりん、と音を立てる。「で、ふうりんか」とエースの肩越しにガラスを眺めたマルコは、一際大きく吹いた風がちりりりりりりりりりりりりりりりん、と盛大に鈴を鳴らして言ったところで、「うるっせえよい」と小さく毒吐いた。「お前ってたまに身も蓋もないよな」と、今さらマルコに夢も希望も抱いていないエースはそう返して、「おっちゃん、そこのくじら柄の見せて」と、藍色の地に白でぬるりと線を描いたようなガラスを差すので、「…くじら?」とマルコは首を捻った。どこがくじらだというのだ。愛想良くガラスを外した青年に「ありがとよ」と返してから、エースはマルコの前にガラスをかざして、「コレ、くじらの目」と得意そうに告げる。「…目って」と、いつか会ったモビーを思い出しながら良く良くガラスを眺めれば、切れ長の狡猾そうな目に見えないこともない。「かっこいいだろ」とエースは嬉しそうだが、マルコはわりと気持ち悪いな、と思って、「それより、あっちの方が良いだろい」と、乳白色と水色と透明の地に赤と黒の金魚が小さく泳ぐガラスを差す。えー、と首を捻ったエースは、「でもくじらだし、めくじらだし」とあくまでそれが良いらしい。軽く溜息を吐いたマルコが、「わかったよい、それ買ってやる」と言ったのは、マルコが上陸前にエースに金を借りたからだった。酒代の清算の時、ちょうど一瞬だけ手元に金がなかったマルコは、少なくない額をエースに建て替えてもらって、もちろんすぐに返そうとしたのだが、「ん、まあ別に今は金に困ってねえし、次の島で何か買ってくれりゃいーよ」と、エースはあくまで剛毅である。マルコも別に困ってはいなかったのだが、エースより出費が多いことは確かで、さらにはエースが行為でも物品でもマルコから何かを欲しがると言うことが嬉しかったので、頭を掻いて「じゃあ、次の島で」と約束した。まさかそれがこの気持ち悪い柄のガラスだとは、と、マルコは少しばかり肩を落としたかったのだが、持ちやすいように取っ手を付けてもらったエースがいかにも嬉しそうだったので、「嵐で割れねェといいよい」とだけ言っておく。と、「ああ、オヤジの部屋に飾ってもらうから大丈夫だろ」とあんまりにもあっさりエースが答えるので、「…………オヤジへの土産かよい」とマルコは今度こそ盛大に肩を落とした。「いいだろ、くじら。白くじらじゃねえのが残念だけど」と、ちりんちりん鳴る風鈴を目の前に掲げて、エースはまた笑った。嬉しさに紛れて気付かずにいたが、エースの顔が随分懐かしそうなので、「それもまた弟と何かあんのかよい」とマルコが尋ねれば、「や、弟じゃなくて長男と」とエースは答えて、それは、とマルコが重ねようとしたところで、「い、って」と不意にエースが人差し指を抑える。「何だよい」とマルコがエースを覗きこめば、ほぼお目にかかることのないエースの血が僅かに流れていて、マルコはぱちりと瞬いた。「それ」とマルコが指差すと、「…貝殻に海水がついてたみてえ」と情けない声でエースは風鈴を持ち上げて、「真水で洗って乾かさねえと炎は出ねえな」と呟きつつ、ちゅ、と指を吸って終りにしている。鮮やかな赤が一瞬エースの舌に移って、それから消えて行った。

「船に戻ったら、貝じゃなくて別の錘をつけるわ」と、風鈴を店のテーブルの隅に寄せながらエースが宣言するので、「ああそうしろよい」と、運ばれてきたアイスコーヒーに口を付けながらマルコは頷く。酒場でも飯屋でもなく、ただの喫茶店にエースと入るのはほとんど初めてなのだが、「屋台じゃなくてどこか入ろうぜ」と言ったエースが目指したのがここだったので、マルコにも特に異存はない。ただ、「食い物はほとんどなさそうだが、良いのかよい?」と尋ねたのは純粋にエースの腹具合が心配だったからで、それも「俺だってたまには腹一杯の時もあんだよ」と緩く笑うエースに消されてしまった。エースはエースで、レモネードなどを注文して「うわーすげえ生レモンぎっしり、っていうか店で酒以外飲むの久しぶり」などと言って喜んでいる。まあ確かに、と、マルコが水と酒以外にはほとんど用がない普段のマルコとエースに思いを馳せていると、「ああそれで」と唐突に切り出したエースが、「小せェ頃に一緒に住んでた奴がこういうの好きでさ」と、指でちょい、と風鈴を転がすので、「さっきの続きかよい」と、うやむやになってしまうとばかり思っていたマルコは少しばかり驚いた。「うん、続き」とエースが頷くので、「長男て、お前兄貴もいたのかい」と、飽きるほど弟のことばかり聞かされているマルコが意外そうに尋ねると、「いや、俺も長男だから、兄貴じゃねえよ」とエースは首を振る。この辺りはエースの持論で、突き詰めたところで答えは出ないような気がしたので、「ああ、そうなのかい」とマルコは素直に頷いておいた。それで、と促せば、ちょいちょい、とまた風鈴を転がしながら、「あの頃俺達は狩りをしなけりゃ食うにも困るような生活をしてたから、正直俺はそれ以外の事に興味なんて無かったんだけど、あいつはこういうのが好きでさ、どっから持ってきたのかわかんねえけど風鈴の本を見せてくれて、他は忘れちまったけど、これだけは覚えてたんだ、『めくじら』って柄」と、懐かしそうにエースは言う。弟を語る時の誇らしげな様子はなく、かといって嬉しくないわけでもなく、エースはごく自然に、どこか諦めを孕んだような声をしている。それはエースが語らない父であり、母であり、またそれら白ひげ海賊団に組みする前のエースを形作るすべての物に対する表情なのだが、けれども今こうしてエースはマルコにそれを語っている。それだけでなんとなく『長男』の行く末に見当がついたマルコは、消息を尋ねることが出来なかった。でも、それも少しずつ変わっていくところなのだろう。つまり、マルコがエースの事を知りたいのだとエースに知らしめることが出来れば、今日のようにマルコが知らない誰かの事をエースが語ることもあるのだ。ごくり、とアイスコーヒーを飲んだマルコが、「いいのかよい、そう言う謂れのあるもんをオヤジにやっちまって」と尋ねれば、エースは風鈴から顔を上げて「いいんだ」と大きく頷く。「あいつが俺に教えてくれて、マルコが俺に買ってくれたんだから、俺も誰かにかえしたいだろ」と言ったエースは、「そうかい」と返すマルコの顔を眺めながら、「俺の大事なものは俺が持ってるよりお前やオヤジに持ってもらった方が嬉しいよ」と、続けて笑った。「ああ、そうかい」と頷いたマルコは、じゃあお前自身も俺達がもらっていいかい、とは終に聞けなかった。

たぶんきっと、エースは「うん」と言わなかった。

 ( 少しだけ聞けるようになったマルコと言えるようになったエース /  マルコとエース  / ONEPIECE )