小 指 は た や す く 裏 切 り す ぎ る 


真鍮磨きの合間に甲板へと逃げ出したエースの横に、いつの間にか並んでいたサッチが、ああいい天気だな、とエースに聞かせるわけでもなく呟くので、「いい天気だな」とサッチに返すわけでもなくエースも空を仰いだ。気配もなく近づくのは隊長格の、エースに対するちょっとした遊びのようなもので、毎回律儀に驚くことにも疲れたエースが無愛想になった今になっても、サッチとマルコだけは続けている。片方は無意識に、片方は揶揄とを込めて。どちらにしても危害を加えられるわけではないので別にいい、と、諦めたわけでもなく素直に感じられるようになったエースに、天気と同じだけの軽さで「どこか遠くに行こう」と不意にサッチは言った。「どこに行くんだよ」と、問い返したエースの疑問はもっともで、ここはグランドラインに浮かぶモビー・ディックの中だ。見渡す限り、せりあげるような深い青に囲まれて、能力者のエースには足を踏み出すこともできない。ひどく悲しいことに、囚われているように。が、「どこにでも行けるだろ」と、サッチは事も無げにエースの杞憂を笑い飛ばして、海を差す。「小船を借りてもいいし、いっそモビーごと進んだっていい」と楽しそうにエースの肩を抱くサッチは、どこか行きたいところがあるのだろうか。そもそもサッチだって、泳げるからと言ってどこにでも行けるわけではない。それはマルコの方だ。何がそんなに楽しいのか分からないサッチの顔色を窺うように、「それただの航海じゃねえの?」と尋ねるエースにしたって、何もサッチと遠くに行きたくないわけではない。まだ見ぬ海の果ても、何度訪れても美しい島も、空の上も海の底も、サッチとならどこへ行ったって楽しいだろうし、エースに後悔もないだろう。ただしサッチとどこへ行くよりも、サッチとここにいるほうが楽しいような気がするエースに、サッチの真意はあまり伝わらないような気がして、結局エースとサッチはそれきり何も変わることなく軽口を叩いて、それぞれのあるべき場所へ戻って行く。つまりサッチは4番隊隊長に、エースは1番隊隊員に。けれどもエースは何かひどく惜しい事をしたような気がしているし、サッチは今一つ押しが足りなかった事を後悔している。真鍮を磨きながら上の空だったエースは(いつものことだが)サッチとどこに行きたいかを真剣に考えていたし、4番隊と玉ねぎを刻むサッチはエースと出かける術を真剣に模索して、どちらも特に良い案が出なくて愕然とした。その日の夕食の席で、「何変な顔してるんだよい」とマルコがエースとサッチのスープに塩を振りながら訝しげな表情を作るくらいには、エースもサッチも動揺していたらしい。どこへも行かないまま。

「何も?」と呟いてから、「ちょっとしょっぱすぎねえか」と、マルコが適当に味を付けたスープを一口啜って顔をしかめたサッチと、「いつもこんな顔ですよ」と言ってから、「まだ薄いんですけど」と首をかしげたエースとが一瞬だけ顔を見合わせて、何も言わずに皿を交換するので、こいつら仲良しだな、とマルコにとってちょうどいい味のスープを噛む様に味わいながらマルコは思ったのだが、口にはしなかった。かちゃ、とスプーンを鳴らして飲んだ味はお互いにちょうど良かったようで、ゆる、と唇の端に浮かべる笑みは向かい合うマルコにだけ届いている。

さく、と塊のパンにナイフを入れながら、「何枚だ」とマルコにだけ尋ねるサッチは、エースの事をないがしろにするわけでもなく、マルコとサッチの分だけ取り分けてしまってから、残りすべてをエースの皿に綺麗に盛り上げて、何気ない仕草で味を添えた。「いただきます」と、もう何度目になるか分からない言葉を吐くエースの食事ぶりはとても美しいとは言えなかったが、サッチにはその健啖ぶりが喜ばしいものである。もとより品性など望みようがない海賊である中、エースは食事を取る、と言う事の本質を知っていた。誰よりも孤独を気取りながら、確かに愛し、愛された記憶を持つエースが、その欠片が愛しくないわけもない。だからサッチは、エースを上手に愛してみたいのだが、何しろサッチの感情も酷く偏っているのでなかなかうまくいかなかった。どうしても、重い。もっとさらっと、友情を深めて、いやいや後輩だからもっとノリは軽く、でもそれなりに尊敬はされたい。なまじ人付き合いに長けているだけ、改めて考えるとどう接して良いか分からなくて、サッチは今日も良く覚えていない母親のようにふるまっている。確実に返されることを知るだけの、愛を。

さりげなく、というほど微量でもないスパイスを味わいながら、エースはただひたすら皿を空にする。たとえば、サッチとふたりきりになったとしてもエースが獲物をとらえて、サッチがそれを料理して、何の不満もなく生きていけるのだろうと思う程度には、エースはサッチのことを知っていて、しかしふたりきりで飯を食って寝て起きて生きる以外の何をすればいいのかはまるでわからない。そもそもそれだけでいいのなら、エースもサッチも二人で居る必要などないのだ。ひとりで居られる。でもやっぱりうまい飯は食いてェよなあ、と、そうひどくもないがどう考えてもサッチよりはまずい手料理の味を思い出しながら、今が幸せだな、とエースは頷いた。ふたりきりになりたいわけではない、不特定多数の中で、サッチもエースもいたらいいのだ。うんうん、と肯定しながら、大きく膨らんだエースの頬の中身は一瞬で飲み込まれていく。温い幸福の味がした。

エースが隊長になって、サッチが一息ついて、マルコが傍観者でいることを諦めて、エースとサッチとが途方に暮れなくなる、ちょうど2か月前のはなしだった。

 ( 友達になりたいサッチとエース / エースとサッチ、とマルコ / ONEPIECE )