当 然 の こ と を 当 然 の よ う に 


淡雪のような花が咲き零れる春島だった。島の周りはかなり遠くまで浅い海が広がって、島を囲うように作られた船着き場から島までは何本もの長い桟橋が伸びている。その桟橋の、一際人通りのない1本に、エースとマルコは腰をおろしていた。特に何をするでもない二人は、空を眺めたり海を眺めたり島を眺めたりしながらどうでもいい会話をしている。風もオールも必要ない小舟を操るエースと、そもそも翼を持つマルコは、遠浅の海で荷運びに役立つかといえば実のところそうでもなく、人手の足りているモビー・ディックでは地位や能力も相まってむしろ邪魔にしかならない。簡単にいえば、ふたりはやんわりと船を追い出されたのだった。「あいつは率先して働いてんのにな」と、遠く浮かぶモビーを仰いでエースが呟くのは、白ひげ海賊団4番隊隊長サッチのことである。「アレは火も爪も出さねえから使い勝手がいいんだろい」と、淡々と、しかし明確な悪意を滲ませながらマルコは返したが、エースはその悪意に敵意も害意もないことを知っていたので、「僻むなよ」と言って肩を竦めた。食べてしまって、変わってしまったものはどうしようもない。どちらにしても選んだのはエースで、そしてマルコだった。もちろんそんなことはマルコも知っているので、「少しくらいは仕方ねえだろい」と眼をそらす姿は存外素直である。ぬるく吹きわたる潮風はどこまでも穏やかで、特にすることもないエースはゆるく欠伸を噛み殺した。眠ってしまっても構わないのだが、ここで昼寝をしていると満潮で波にさらわれる、と忠告してくれたのは、先ほど両手に貝殻を抱えて桟橋を駆け抜けていった少年たちである。素潜りで捕ってきたのだ、と、純粋な好奇心を向けたエースに戦利品を誇らしげに掲げる彼らは、エースとマルコがどこの誰であってもこの島での暮らしを崩すことはないのかもしれない、とエースにすら思わせるほど屈託のない笑みを零した。薄くても力強い背中を見送ったエースは、「俺も潜りてえなあ」と胡坐をかいたまま桟橋から身を乗り出して青く澄んだ海面を見下ろす。手を伸ばしても届かない程度に遠い距離はエースを苛立たせたが、同時に堪えようもない安堵も齎して、エースはだらりと手を垂らしたまま目を閉じた。こんな浅い場所でも、もう安易に浸かることはできない。そんなことはもう3年も前に決めたことだった。夢のような島の端で夢見るように溜息を吐いたエースの横で、じっとエースを眺めていたマルコが、エースを軽く突き飛ばすようにして立ち上がるまで、ずっと。

とん、とエースを押したマルコの力は大したものではなかったが、でもエースはその力に弾みをつけるように桟橋へと仰向けに寝転がって目を開けた。随分高い所でマルコの金髪が揺れて、真っ青な空へと透けるように光るので、エースはごく軽く笑みを浮かべて、「天使みてえ」と呟く。「波酔いでもしたのかよい」とあっさりエースの言葉を一蹴するマルコは、ぐるりと桟橋付近を見回して、やがてすたすたと岸辺に向かって歩き出した。もし崩れても自力で陸まで戻れる距離、というわけでエースとマルコは長い長い桟橋のほんの手前に腰を降ろしていたので、マルコの接岸はあっという間である。エースがごろりと寝転がったままマルコの後を目で追っていると、マルコは僅かばかりの階段を下って砂浜に足を付けて、さくさく進んで、そうして躊躇いもなく海に足を浸した。え、と思ったエースの目の前で、マルコはかくんと膝を折ってエースの視界から消える。ええっ?!と思ったエースががばりと身体を起こせば、マルコはごくごく普通の顔で海に膝をついて、打ち寄せる波に視線を落としていた。ごく浅い海の、さらに浅い岸辺で、でもマルコは能力者である。何を?とゆるゆる立ち上がりながらマルコの行動の意味がわからないエースは、それでも小走りで桟橋の端まで進み、波を被らないギリギリの位置に飛び降りる。「マルコ?」と声をかければ、「なんだよい」と普段とまるで変わらないマルコの声が聞こえて、でもエースは、マルコの隣に行くことができない。ぱしゃ、とマルコの身体にぶつかって弾ける波しぶきが淡いきらめきと共に弾けて、エースは息を詰める。マルコの視線は相変わらず海に落ちるばかりで、エースには届かない。じわ、とエースの胸に広がるのは、海に対する憧憬と、それ以上に深い恐怖だった。「俺じゃなくてお前は何してんだよ?」と、押し出すようにした声がまるで震えていないことにエース自身が驚いている。これは怖いことなのだ。白昼堂々と、能力者が自ら海に浸かっている。傍にいるのは愚にもつかない能力者だけで、もしも今高波が襲ってきたらマルコどころかエースすら一緒に連れていかれるだろう、それだけの。「攫われるぞ」と呟いたエースの声も宙に浮くかと思えば、「そこまで軽くねえよい」とあっさり言ってのけるマルコは、暢気に両手で海水を掬って海に落としている。まるではじめて水に触れる幼子のように、と、穏やかに見えるその光景が、マルコの動きがあまりに緩慢なので、エースはじわじわと不安を募らせて、なんだよそれ、と途方に暮れたくなった。海が好きなのも、海に触れたいのも、海に落ちたいのも、波にさらわれたいのも、全部エースだったはずだ。一緒に沈んでやるよい、と言ったマルコさえいなければ、エースはさっきだって我慢せずに桟橋から手を伸ばしたかもしれない。力尽きるように波に墜ちたマルコの掌が青く透ける様を追いながら、「なあ、俺はお前を背負って帰れねえぞ」と、一歩後ずさってエースは言う。「別に期待してねえよい」と返すマルコの表情は見えない。ゆっくりと、風が流した雲がエースとマルコに影を落として、その対して大きくもない影が消え去った頃にようやく、「わりと気持ちいいよい」とうたうようにマルコは言った。そんなことは、エースだって知っている。それでも、エースはマルコの隣に腰を降ろすわけにはいかないのだ。だって、

「俺はお前と沈む気はねえんだよ」

と、きっぱり言ったエースの前で、マルコはかすかに肩を震わせる。まるで笑ったように見えるマルコは、それから「知ってるよい」と首だけで振り返ってエースに告げる。いつも通りの、少しばかり眠そうな無表情で。波が引く速度に合わせるように、緩慢な動作で砂地に手を着くマルコは、「よっこらせい」とお前それはねえだろ、と言いたくなる掛け声でどうにか身体を起こして、どうにか乾いた砂浜に転がり込んだ。はあ、とそれだけで胸で息をする能力者に、馬鹿じゃねえのか、と胸の中で呟くエースは、まだマルコの爪先を濡らす波にちらりと視線を送ってから、マルコの手を無造作に握ってもう少しだけマルコの身体を陸地へと引きずり上げる。「背負って帰れねえんじゃねえのかい」とマルコが半分揶揄するような声で問いかけるのを、「背負わねえけど、引き摺るくらいならできるだろ」とエースは完全に呆れを含んだ声で返した。マルコの手を濡らしているほんのわずかな海水ですら能力を奪う事を知るエースは、迷わず握り返されたマルコの手を振り払う。どさ、と弾むこともなく落ちたマルコの、ぺたりと座りこんでいた脛が血まみれなことに気付いて軽く眼を開いたエースの視線を追ったマルコは、「ああ、…血を見るのも久しぶりだよい」とやはり何でもないように言って、今度は声もなくよろりと立ち上がった。「初めて見た」と短くエースが呟けば、「別に珍しいものでもねえだろい」と、分かっているだろうに話を反らすマルコは、やっぱりいつも通りである。よろよろ歩く半分びしょ濡れの姿は、でもこの夏島ではそう珍しくもないらしく、白ひげ海賊団が宿泊するホテルまで誰にも見咎められることはなかった。小高い丘の上からちらりと振り返れば、モビー・ディックは相変わらず真っ白にその全身を輝かせている。さすがに、エースの視力でもサッチの姿を捕えることはできなかった。誰もいないロビーを抜けて、こじんまりとした個室のベッドにそのまま座りこもうとするマルコをバスルームに押し込んだエースは、服を着たままのマルコをさらにバスタブに突き落としてシャワーの線を捻った。「…つめて、」と小声で抗議するマルコには、「そのうちマシになるだろ」と適当な言葉をかけて、緩慢な動きでどうにかグラディエーターだけは脱いだマルコを見下ろしながら、「頭でも洗ってやろうか?」とエースは尋ねる。「いらねえよい」と言う言葉と共にマルコに放られたグラディエーターを難なく受け取って、「じゃ、ごゆっくり」とエースはひらひら手を振りながらバスルームから抜けだした。二人が宿泊する部屋の南側は全面がガラス窓になっていて、広がるのはひどく青い海である。ぽい、と濡れたグラディエーターを窓際に落としたエースは、あーあ、と息を吐きながら、ガラス戸を押し開いて、真っ白なテーブルセットが置かれたベランダに踏み出す。あまり良い気分ではなかった。



着の身着のままバスルームに押し込まれたので、腰にタオルを巻いた形で部屋に戻ったマルコは、それほど広くもない(ベッドが二つとテーブルに椅子、水差しが置かれた弧サイドデスク)空間にエースが見当たらないので少しばかり首を捻る。が、ふと目を移した窓の外に、視線を海に向けて頬杖を突くエースがいるので、マルコはゆるく頬を曲げた。笑ったと言うより、呆れたと言う方が正しい。よくよく海が好きな人間だよい、と、タオルで髪を拭いながら適当な衣服を身につけて、まだ乾き切らないグラディエーターは諦めて素足のままマルコもベランダに向かう。ささくれた生木の床に、無造作に置かれたテーブルセットは、よく手入れされてはいるもののやはり古めかしくて、マルコが腰を降ろすとぎしりと音を立てて軋んだ。

ぼうっとしたエースが何をしているのかと思えば、どこから持ってきたのか、何かの貝殻を耳に当ててじっとしている。しばらくマルコがエースの横顔を眺めていれば、「…よう、」と、まるで今気付いた、とでも言いたげな声でエースはマルコに向き直って、耳から外した貝をテーブルに投げ出した。「波の音が聞こえるかい」とマルコが真面目な顔で尋ねれば、「聞こえるよ」とエースもごく真面目な顔で返して、「お前も」と貝殻を指すので、マルコは神妙な面持ちで貝殻を手にとって、エースと同じように左耳に当てる。海の底で起こる地響きのような、風の唸りのような、寄せて返すだけの波のような、至極曖昧で滲むような、それでもひどく耳に馴染む音がした。「聞こえたか?」と、目を開けたマルコに、エースがむしろ優しいとすら言える声で尋ねるので、「聞こえたよい」と、なんだかとても大事なものを受け取ったような気分でマルコが答えれば、エースはわずかに目を細めて、「お前にも血が流れてるんだよなあ」としみじみ呟く。「当たり前だろい」と返したマルコに、「でももう治ってるじゃねえか」とマルコの脛を指しながらエースが反論するので、それはお前も同じだろい、と剣を刺そうが弾丸を撃ち込まれようが後には炎しか浮かばないエースの戦い方をマルコは思い返したが、口には出さなかった。黙り込んだマルコの事など気にもかけず、また海を眺めるエースが、「ここは少しサウスに似てる」と言うので、サウスの海を見たことがないマルコは「そうかい」と返すしかない。ただ、「ここと似ているなら、サウスもいい海なんだな」と続けたら、エースはマルコが驚くほど満面の笑顔で、「俺が二番目に好きな海だからな」と言うので、「…そうかい」とまた呟いたマルコは、エースが一番好きな海の事も知らないのだった。吹き抜ける海風と空と海の青さだけが降り注ぐ午後の光の中で、「でもお前にも血が流れていてよかった」とついでのようにエースが告げるので、「そりゃ、…よかったな」と気の抜けた声でマルコは答える。何がいいのかは分からなかったが、良かったのだろう。エースにも血が流れていて嬉しいなどと言う事は、マルコにとっては当たり前すぎて今更口に出すほどの価値もないのだった。

 ( もどかしい距離間を保つはなし / エースとマルコ / ONEPIECE )