ど う し よ う も な い 底 辺


夜勤明けの昼過ぎだった。ひと眠りしてすっきりして飯を食ったエースが暇を持て余してマルコの部屋を覗くと、ベッドに腰掛けて書類を眺めるマルコが「そんなところで何してんだよい」と顔も上げずに言うので、「お邪魔します」と一礼して扉を開けた。「何か用かい」と昼用の眼鏡をずらしながらマルコが尋ねるので、「いや、腹いっぱいだから」とエースは返して、紙で埋まるベッドではなく部屋にひとつだけの椅子に身体を預ける。机の上にも広げられた書類をペラりとめくって、これ俺もやるんだよなあ明日でいいか、ときっと明日どころか明後日も明明後日も手を付けないエースがぎしぎしと椅子を揺すっていると、「お前暇なのかい」とマルコが声をかけてきたので、「ああ暇だ」とエースはきっぱり答えた。そうか、と頷いたマルコが書類を放って眼鏡を外すので、「何だよ?」とエースが水を向ければ、マルコは「ちょっと待ってろい」と告げて、普段より少しだけまともな(真面目な)顔で、エースの隣の棚の隅をごそごそと漁っている。

マルコの手元を見るともなしに眺めながら、相変わらずものの多い部屋だなあともう何度思ったか分からない感想をエースは抱いた。2ヶ月程前に煤払いしたはずの部屋は、でもたった2回の寄港でまた雑然とした空間に戻りかけている。場所が空けば空いただけ買う本と、積み重なる酒瓶が最大の敵で、しかしマルコはそれで何の不具合もないらしい。こんなに物に囲まれて息苦しくねえのか、これはマルコの巣作りみてえなもんなのか?と、ドーン島の居城を思い出しながらエースが素直に待っていると、神妙な顔のマルコが差し出してきたのは、「…ねこみみ」黒い猫耳付きカチューシャだった。マルコが掲げるそれを思わず受け取ってしまったエースは、「俺、実物は初めて見た」と正直な感想を述べる。「俺も初めてだったから買っちまったよい」とやはり神妙な顔でマルコは言って、いやそれは意味がわからねえ、とエースは突っ込みかけたが、そこは元部下の身としてぐっとこらえた。そっか、とだけ返して、そんでマルコは俺にこれを手渡して何がしてえんだろうな、とエースがマルコの言葉を待っていると、「お前暇ならそれつけてろ」とマルコがろくでもないことを言うので、「いやそれは本気で意味がわからねえ」とエースは真顔のマルコに猫耳を付き返そうとしたが、「意味はあるよい」とマルコが猫耳を押すので、「何だよ」と聞きたくないが聞いてしまうあたり、エースはマルコに弱い。それはもう弱い。案の定、「俺が見てえからだよい」となぜか誇らしげにマルコが答えるので、大丈夫かこのおっさん春島が近いからって脳内まで春にならなくて良いんだけど、と実際エースは思ったのだが、思いはしたのだが、普段マルコはエースに何も求めないので(仕事は別だ)、受け取ってばかりのエースがたまには何かしてやりたいと思うのもまた事実だった。でもそれが猫耳じゃなくてもいいんじゃねえかな俺間違ってるかな、と、エースは手元の黒猫耳と、ひどくまじめなマルコの顔を何度か交互に眺めて、それから「まあ…お前が見てェなら…、」と歯切れの悪い言葉と共に、かぷりと猫耳カチューシャを填める。初めてつけるものだから、うまく勝手が掴めずに何度か位置を調整して、ようやくなんとかなったかな、と言うところで「これでいいか」とマルコに向き直ったエースは、マルコが拳を握りしめているので(うわあ!!)と内心叫んだ。喜んでいる。普段何を考えているか全く分からないマルコだが、これは確実に喜んでいる。そんなに猫耳が好きだったのか、そういえばこのおっさんただのむっつりだった、コスプレも嫌いじゃないのか。知らなかった。別に知りたくもなかったけど。正直ドン引いたエースの前で、マルコは2回ほど瞬きをしてようやく拳を開くので、ああ良かったちょっと帰ってきた、と静かに息を吐いてエースはカチューシャを外そうとしたのだが、「まだ暇潰しには足りねえだろい」とマルコがやけに必死に止めるので、何だかどうでも良くなってしまった。たかが猫耳だった。航海中ではあるし、いつまで付けていたって、このまま出歩いたって、傷が付くのは愚にもつかないようなエースのプライドにだけで、それもマルコが喜んでくれるなら安いものである。「じゃあ、今日1日な」と吹っ切れたようにエースが告げれば、「十分だよい」とそれはもう晴れやかな顔でマルコが返すので、いろいろどうしようとエースは思わないこともないのだが、まあそれはそれでどうでもいいのだった。

それからしばらく、猫耳のエースと眼鏡(老眼鏡ではないらしい、まだ)のマルコは書類を眺めたり他愛のない会話をしたりマルコが新しく仕入れた本を捲ったりしていたのだが、やがて小腹の空いたエースは本を閉じて、「ちょっと食いもんとって来る」とマルコに告げる。「何かいるか」と重ねて尋ねると、「コーヒー、砂糖1個で頼むよい」と書類から顔を上げずにマルコが答えたので、「わかった」と軽く頷いてマルコの部屋を後にした。食堂まで進む間に何度か(と言うか何度も)指を指されたり笑われたり驚かれたりしたのだが、その反応はエースがはじめて白ひげを親父と呼んだ時とほとんど変わらなかったので、まあこんなもんか、とエースは(何度か反論したし応戦もしたが)概ねプライドを保ったまま、含み笑いを堪えるコックから軽食一式を受け取って、元来た道を普通に歩いて行ける。と、無感動に進んでいたら、曲がり角で両手にポットを抱えた誰かとぶつかりそうになって、「うおっ」と飛びのいたエースは、その誰かがサッチだったので、「ごめん、大丈夫か、コーヒーかかってねえか」と素直に謝罪して、しかしサッチがエースの頭頂部を凝視して動かないので、うわサッチに見られた、と今さらながらぶわっと顔を赤くした。「お前それ、」と、サッチはなんだかとても真剣な声で猫耳を指すので、「ああ、…うん、マルコが」と少しばかり目を反らしながらエースが答えると、「やっぱりそうだよなそれこの間のだよなあいつついにっていうかお前ほんとにあいつに頼まれたらつけるのか知ってたけど意外と似合わないこともねえけどやっぱり似合わねえよっつうかそれで、船内普通に歩くなよお前」と、半分以上意味がわからないことをサッチは言う。良く分からなかったが、『それで船内歩くなよ』はエースも賛成だったので、「今日1日付けるって言っちまったから、なんとなく」と返す声はひどく心許ない。今から外そうにも、エースの両手もサッチの両手も塞がっていて、ふたりの間には気まずい沈黙が流れたのだが、ふう、と息を吐いたサッチが「…いや、お前が悪いんじゃねえのは分かってるし、別に猫耳が悪いわけでもねえし、半分くらいは俺に責任があるからそんな顔すんなよ」と言って少しだけ笑ったので、「次から気を付ける」と神妙な表情でエースは頷いた。

「じゃ、止めて悪かったな」とポットを持ったままの手を上げるサッチがすたすたと去っていく後姿を見送ってから、エースは「はあああああ、」と大きく溜息を吐く。やっぱりダメだった。底上げしてみてもダメなものはダメだった。酒の席や、個室でのサッチは基本的にエーが何をしても咎めないが、公的な場所や公共の場ではその限りではない。実のところ、一番船内の規律を守っているのは緩く見えるサッチなのだと言うことを、エースは良く知っていた。何してんだ俺、と零したエースはなんだかどっと疲れてたのだが、食い物を持ったまま廊下に座り込むわけにもいかないので、とぼとぼとマルコの部屋に向かう。扉が開けられないので、とんとん、と軽く叩けば眼鏡姿のマルコがすぐ応じて、しょぼくれた表情のエースに「食い物があるのにそんな顔するなんて珍しいな」と本当に驚いたような顔をするので、「あー、なんかちょっと、凹んだ」とエースは、マルコに両手の荷物を押し付けて、半分片づけられたマルコのベッドにぼふり、と突っ込んだ。仰向けになると猫耳が痛いので、うつ伏せで。ううう、と呻っていれば、「どうしたよい」と僅かばかり困ったような表情を声に滲ませながらマルコがエースの隣に腰を降ろすので、「猫耳が」と呟けば、「誰かに何か言われたかよい」とマルコは語気を強める。そのまま伝えたらサッチに抗議しそうな勢いだったので、「誰かじゃなくて俺がバカだっただけだ」とエースは返して、ぐっと猫耳を押さえた。サッチの言うとおり、猫耳が悪いわけではない。エースが悪いわけでも、マルコが悪いわけでも、ましてサッチが悪いわけでもない。「おいエース」とマルコは尚も問いかけようとするのだが、どう答えていいかわからなかったので、顔を上げないまま「俺、猫耳似合わなくて良かった」とエースが言えば、「良く似合ってるよい」とそこははっきりとマルコが否定するので、エースは少し笑ってしまう。ほんとに猫耳好きなんだなあマルコ、だから別に後悔はねえんだけど、次があるならマルコの前だけにしておこう、と決意して、マルコには「ありがとよ」とだけ返しておいた。エースが少し冷めたコーヒーと、軽食と言うには随分な量の軽食を平らげるところまで立ち直ったのは、それからすぐのことである。もちろん猫耳は着けたままだった。

 ( 猫耳は似合わないくらいがいい / いまいち伝わらない / エースとマルコと、サッチ / ONEPIECE )