静 寂 か ら 流 れ 出 し た 血 の よ う に


少しばかり長く停泊した島からの出港日だった。ちょうど秋島の秋にぶつかった白ひげ海賊団は、それなりに大きな島のあちこちに散らばって、分からないなりに風流に過ごした、様な気がする。エースは主に食欲に走ったが、それでも偶然出くわしたオヤジと紅葉を拝んだから、それで上々だった。出港準備にも雑用にも特に関わらないエースが、それほど多くもない荷物を纏めて2週間滞在した宿を出たのは昼前の事である。潮の関係で錨を上げるのは夜半だと言っていたから、エースは昼過ぎに戻れば良い。隊長などは気楽なものだ。どこで昼飯を食おうか、と2週間ですっかり歩きなれた港まで続く路地を進むエースの耳に、聞き慣れた声が飛び込んだのはエースの背丈を少し超える程度の、薔薇の生け垣に差し掛かった頃である。少し落ちた低い声がマルコで、わざとらしく間延びする明るい声がサッチだ。2週間の間に、何度か食堂で一緒になったが、それ以外別行動だったふたりとエースは、そう言えばしばらくろくな会話をしていない。エースは横道を探してきょろきょろとあたりを見回したが、右側は生垣に、左側は土壁に遮られて、エースの進路は前と後ろにしかなかった。たぶん一本か二本隣の通りを進んでいるだろうサッチとマルコの声は、エースが立ち止まっている内にだんだん遠くなってしまう。声を出して呼べば良かったのだ、とエースが気付いたのは、ようやく見つけた横道が行き止まりだったことに笑ってしまったときで、まあ別に帰る場所は同じなのだから、と思ってみてもどことなくそれからのエースの足取りは重い。ていうかあいつら別の宿に泊まってたのになんで一緒にいるんだ、と理不尽な感情をぶつけてみて、結局それが悔しかったんじゃないのか、とエースは行く手を阻むざらりとした石垣を撫でた。

サッチとマルコは仲がいい。それはもう主観的でも客観的でも、エースから見てもサッチから見てもマルコから見ても確かなことだし、サッチもマルコも(マルコは少しばかり顔をしかめるが)否定しない。あまり詳しいことは聞いていないが、船に乗ったのが同じ時期だといつかオヤジが言っていた。まあ親父は、「船に乗った」ではなく「息子が増えた」と言ったのだが。だからどうだとか、エースがどうかとか、そんなことを言いたいわけではないのだが、それでもエースはたまにサッチとマルコに距離を感じて、それが漠然とした不安になっていることを知っている。過ごした時間と重ねた歳月を思い浮かべればサッチとエースがサッチとマルコより遠いのは当たり前のことで、マルコとエースがサッチとマルコのようにごく自然に笑えないのも当たり前の事なのだが、当たり前のことを当たり前に受け止められるくらい素直だったらエースは海賊になどなってはいない。そもそも生きてさえいないかもしれない、死どころか存在自体認められなかった海賊王の息子は。それでもエースは最初から最後までただのエースでしかないので、運命に唾を吐いて、必然を偶然と笑い飛ばして、冗談のように生きて、どうでもいいことに命を張って生き永らえている。だからつまるところどうなのかと言えば、おもしろくない。マルコとサッチがエースとサッチより、エースとマルコより仲がいいことに、柄にもなく悋気している。それがマルコとサッチふたりでいるときのことならまだマシだ、と、袋小路をゆるゆると引き返しながら、エースは意味もなく傍らの小枝を一本折った。何にするわけでもなくただ放っただけの小枝の軌道を目で追ったエースは、エースとマルコとサッチが三人でいる時の事を思い出す。マルコとサッチは、エースを子供扱いするのだ。ただしエースは年齢の割に冷めていたし、能力や外見や言動から伺えるほど子供じみているわけでもないので、エース自身が大人ではないことを十分に理解していて、だから子供扱い自体がそれほど勘に触るわけでもない。では何が、と問われれば、それはマルコとサッチが同じようにエースを子供扱いする、つまりマルコとサッチが境界線の向こう側にいて、エースがこちら側にいる、そんな気分になることが嫌なのだった。それはそう毎日感じるわけでもない。忘れている時は忘れている。ただ、ある時は明確にわかる。といった終着点にずいぶん長いことぐるぐると考えてから辿りついたエースは、しかしその悋気の矛先がどこに向かうのかわからなくて割と途方に暮れていた。マルコかサッチどちらかに、というのならエースにも解る。エースは自分でも笑ってしまうほどマルコがすきだったし、サッチはと言えば好き嫌い以前にどこかもっと深い部分で呼応したような気がしている。あの、サッチがハートの海賊団を叩きのめしたと言うモビー・ディックの甲板で。けれどもそのどちらにも、というのなら、それはただのエースのわがままだった。三人でいるときに、ふたりとひとりになってしまうことが寂しいのだ、などと、口に出した瞬間にエースはさらに孤独になるだろう。ほとんど表情を変えないマルコが薄く目を眇める様も、噴き出しそうな口元をさりげなく隠してエースの肩に腕を回すサッチの姿もありありと思い浮かべられるエースは、ぶんぶんと首を振ってろくでもない想像を吹き飛ばす。始末に負えないのは、エースがそうして悋気をしていることをたぶんきっと確実にマルコとサッチが知っていることなのだった。そしてマルコも口数は少ないなりに口は悪い方だし、サッチなどは虎視耽々と機会を伺ってエースをからかっていると言うのに、エースがマルコとサッチにたいして漠然と抱いている悋気、のようなものを、全く気付かないような顔をしていると言う時点で、エースはそれはもう他に類がないほどマルコとサッチに甘やかされている、と言う結論に達している。

だから結局どうなのかと言えばどうしようもないのだ。

口に出しても出さなくてもエースの悋気がどこかへ行くわけでもなければ、マルコとサッチと、エースの距離が変わるわけでもない。これからどれだけ時を重ねたところで先に重ねた時間に追いつけるわけはないし、またそうしたいわけでもなかった。エースがマルコとサッチのどちらかになり変わりたいと言うのならもっと話は早かったかもしれないし、子供扱いを止めて欲しいと言えるようならさらに簡単なのだ。でも、どう考えてもエースはそうしたいわけではない。むしろ嫌だと思いつつ、マルコとサッチに甘やかされている空間は耐えようもなく心地良いし、感じる悋気だってそう悪い心持ちと言うわけでもないのだ。だからエースはマルコとサッチに追いつけなくても小枝一本に八つ当たりするだけで済んでいるし、おそらくふたりが向かっただろうモビー・ディックにすぐ足を向けることもなく、目に着いた食堂の暖簾をくぐって昼飯を-大量に-たいらげている。喧騒を好む割にひとりでいることにも抵抗のないエースは、2週間をほとんどひとりで過ごしていて、食堂で一緒になったマルコとサッチともテーブルは別だったのだ。それで何ともなかったと言うのに、ただ一言二言生垣越しに聞こえたマルコとサッチの会話に馬鹿みたいに心臓を抉られている。ふたりは、エースの話をしていた。

『…そういや、エースの宿もこの辺だな』
『ああ、…その辺に歩いてねえかい』
『見当たらねえけど』
『昼飯時だからな、腹が膨れたらそのうち帰ってくるだろい』
『まあ、そうだな』

それだけだった。あとはどんどん声が離れて、エースにはまっしろな砂の道と石壁だけが見えた。マルコとサッチがふたりでいるときにエースの話をしている。だというのに、そこにエース自身がいない。そんなことはあんまりだとエースは思う。エースはひとりでいる時にだってちゃんとマルコとサッチをふたりとも思い出しているのに、マルコとサッチはエースを話題にすることでマルコとサッチがふたりきりであることをことさら主張しているのだ。エースがいようがいまいがエースの事を考えていると言うのなら、エースが側にいなくてもマルコとサッチはエースに優しくして、甘やかして、子供扱いすることができるのだろう。マルコとサッチのふたりで同じように甘やかに。かちゃん、と空になった陶器の皿に金属のスプーンを投げ出して、それでもエースは「ごちそうさまでした」と目を閉じて頭を下げた。エースの機嫌が悪くても食事はうまかったし、たとえどんな時でも食い物には感謝するべきである。それでも昼食が終わってしまえば、夕方までに出港するモビー・ディックにどうあってもエースは帰らなくてはいけない。いやまあ、エースが黙って後続の4隻に乗船したって同じ航路は進めるし、きっと誰もが面白がってくれるのだろうが、マルコとサッチだけはそうはいかないだろう。エースが二番隊の隊長になってからずっと、エースはマルコとサッチにほとんどの行動を把握されている。「危なっかしいから」とサッチは笑うし、「お前が分かりやすいんだよい」とマルコは哂ったが、笑みの向こう側に何かもっと得体の知れない感情が見えて、やっぱりエースは悋気を抱えるしかないのだった。エースだって、マルコを甘やかしたいしサッチにやさしくしたいのだ。けれどもエースにはなかなかその機会が与えられないし、また悲しいことにその器でもない。エースにできることはただひたすら甘やかされることと、やさしくされることだけなのだった。いつまでもぼんやり居座るわけにもいかないので、二週間分の礼、というわけでもないが幾らか色を付けた額を置いたエースは、行きと同じようにぶらぶらと暖簾をくぐって白砂の往来に踏み出している。相変わらず少ない荷物にちらりと視線を送って、またマルコとサッチの事に思い当たるエースは、ふたりが今度は何を買ってきたのかを考えた。もともと持ち込んだ荷物が身一つだったエースと、始点は同じだったと言うのに、マルコの部屋にはどう見繕ったところでガラクタ、としかいいようのないものが山のように溢れているし、それほどではないとしてもサッチの部屋にだって何の役にも立たないものが転がっている。それは立ち寄った島で適当に買い求めることがほとんどで、エースが船に乗ってからの1年に満たない間にもマルコの部屋のガラクタは積み上がっては捨てられ、捨てられてはまた場所を埋めていく。捨てるくらいなら買わなければいいとエースは思うのだが、マルコやサッチにとってモノというのはそれだけのものではないらしい。欲しいものは金で手に入らないものだけだったエースにはあまり理解できないし、またそれを求められてもいないことが余計にエースの部屋を薄ら寒くしている。何かを持ちたくないわけではないのだ。その証拠に、マルコから譲られた星座盤はほとんど空のエースの部屋の書き物机の引き出しに収まっているし、サッチが誕生日にくれたナイフはいつでも身につけている。が、それ以上が増えなかった。エースの部屋にはエースがいる。それで充分だと思ってしまうエースには、そもそも自分のために何かをする習慣がないのだった。とはいえそれは誰かの、世間一般の価値観に照らし合わせた結果であって、エース自身は生きている限りエースのために生きているので、それ以上何を手に入れる必要もない。エースは生きているだけで、白ひげ海賊団でエース自身の部屋を持っている、つまりエースの居場所を持っているだけでずいぶん満足なのだった。何も入れなくていい。エースの居場所には、エースがいればいいのだった。

なるほどなあ、とそこまで考えたところで分かったような気がしたエースは、港にほど近い街灯の下で花を売っているワゴンで鉢植えをふたつ買った。もちろんエースの部屋に置くためのものではない。

「ただいま」と誰に聞かせるわけでもなく白ひげ海賊団のタラップを上ったエースは、甲板に集まる隊員の中に当然のようにマルコとサッチが混ざっていることに気付いてにやり、と頬を緩めた。サッチもにやり、マルコはなんだかわからないがともかく唇を僅かばかり吊り上げて、手招くわけでもなかったが動く気配もないので、エースは甲板をすたすた歩いてマルコとサッチにたどり着いた。マルコとサッチは、まっすぐエースを見ている。二等辺三角形を思い浮かべるエースは、今のところ正三角形にならないマルコとサッチと、エースを歯痒く思っていたが、結局ふたりを目の前にしてしまえばそんなことは瑣末なことなのだった。エースの居場所にエースがいる、それだけでずいぶん気が楽になる。大きく息ができる。自然に笑うことができる。「ただいま」ともう一度言ったエースに、「おかえり」とけろりとした顔で言うのはマルコで、「おう」と軽く頷くのはサッチだった。意外とマルコは律儀に返事をしてくれる。エースのそれは教育と言うよりも、挨拶をしないとガープの愛-と言う名の拳骨-が飛んできたから強制的にせざるを得なくなったと言う調教に近いものだったから、誰が返しても返さなくてもほとんど気にはならないのだが、気にしてみると明らかにサッチはそうしたものを避けているようなので、エースはやっぱりうん、とだけ頷いて、手に提げていた紙袋をごそごそ探って「これやるよ」とマルコとサッチに差し出した。たっぷり一分ほどエースの手元を見てから、「…なんだよいそりゃ」と呟いたのはマルコで、エースは澄ました顔で「おじぎ草と山椒」と返す。どっちがどっちに、というわけでもなかったが、マルコとサッチがなかなか手を出さないので、エースはおじぎ草をマルコに、山椒をサッチに無理やり手渡した。「これをどうしろと」とサッチが小さな鉢植えをためつすがめつ眺めながら尋ねるので、「いや知らねえけど。窓際に置いたらいいんじゃねえの?」とエースは無責任に答える。本当は薔薇の花束にしようと思った、などと言うことはあまり大きな声では言えない。小さな声でも言えないが。途方に暮れたようなマルコとサッチが、それでも「ありがとよい」と「机に置くよ」と返してくれたので、大事にされることが分かっているエースはまたゆるく笑った。甲板にはマルコとサッチとエースと、たくさんの隊員がひしめいて、それでもエースは孤独でもなければ疎外されてもいない。ふたりとひとりでしかないマルコとサッチとエースは、マルコのおじぎ草をぺたんとさせながら、ともかく一番で入口に近いマルコの部屋に向かって歩いていく。「水やりするんだから受け皿がいるか」とサッチが言えば、「確か古皿がどこかにあるよい」となんでもないような顔でマルコが返して、「なんでもあるよなあお前の部屋は」と決して感心はしていない口調でサッチはマルコを睥睨した。「うるせえよい」と対して感情も込めずに返したマルコは、「これ食えるのか?」とおじぎ草を突くエースに「食えねえよい」と「あんまり触ると閉じなくなるよい」のどちらを告げようか考えている。サッチはサッチで、「山椒がきちんと育ったら鰻でもウツボでも捌いて食わせてやろうか」と思っているので、結局エースは、ただ単に愛して、愛されているのだった。

もちろんエースは、そんなことも知らなかった。

 ( 意外と分かってるけどやっぱり分かってないエース  / エースと、マルコとサッチ / ONEPIECE )