愛 の よ う に 冷 た く て



「おいマルコ、すげーの来たからあがって来いよ!」

と、激しい足音を立てながらマルコの部屋の扉を-それでも律儀に二度ノックして返事が返ってから-乱暴に開いて顔を覗かせたエースは、床に腰をおろしてフリントフロックを解体していたマルコにそれだけ告げて、マルコを待たずに走り去ってしまう。風圧で飛んだ歯車をひとつつまんだマルコは、エースの顔が上気していても穏やかだったものだから、またなにか本島から送られてきたか、味方の船が来たか、海王類でも出たか、と思案しながらばらばらの部品が散らばらないようにそっと布をかけて、よい、と声をかけて腰を上げた。マルコは基本的にエースの言葉に逆らわない。それはエースだけでなく他の誰が相手でもそうだったが、マルコが秤にかけるのは「誰か」と「誰か」の言葉だけで、マルコ自身の感情を底に挟むことはほとんどない。なぜならそれが一番楽だからだ。誰かの望むように生きていれば誰も傷つかないし、マルコは楽だし、しかもエースは喜ぶ。1石3鳥だよい、何の疑問も持たずに扉を閉めたマルコは、ともかく甲板に歩を向ける。あがって来い、と言ったエースの言葉と、たしか不用品を燃やすための火種に駆り出されていた筈のエースの動向を思い返した結果だ。どちらかといえばマルコに合っている仕事だったが、マルコよりエースの方が雑事を頼まれ安く、また引き受けやすい。年齢と経験と人当たりの良さの違いをごちゃごちゃと並べたてながら、別に断らねえのによい、と思うマルコはしかし何かを燃やしたいわけでもなかったので、表情も変えずにばたん、と甲板に面した上げ蓋を押し上げた。甲板にはタールを塗った木を燃やす何とも言えない匂いが立ちこめていたが、それよりもずいぶん大勢の人間がいることに僅かばかり首を傾げたマルコが、集団の中心にいるらしいエースと親父の向こう側に目を凝らせば、唐突におおきな水柱が上がる。なんだよい、と一瞬身を強張らせたマルコは、しかし瞬きと同時にざばりと水を割ってモビー・ディックの前にあらわれたその、あまりの巨躯にたいして大きくもない目を見張ることになった。

「…クジラ…かい?」

と、マルコが思わず疑問形になったのは、かなりそうとう大きな船であるモビー・ディックを内包してなお有り余るそのシルエットを、一目で見渡すことができなかったからである。顔を出したおおきな白い”クジラ”に、親父が何か声をかけているものだから悪いものではないことはすぐに分かったが、それにしてもでかい。こほん、と咳払いをひとつ落として、また無表情に戻ったマルコは、すたすた歩いて人ごみを割って、親父の隣で”クジラ”に飛び移ろうとしているエースの腕を掴んだ。ん、と言う顔で振り返ったエースが、「ああ、マルコ遅かったな」と満面の笑みで告げるものだから、反論はせずに「悪かったよい」と返して、「それにしても、なんだよいこりゃ」と誰に言うでもなくマルコが呟けば、「こいつは俺の友人だ」と思いがけ無いところから返事が返って、「幅の広い人生だな、親父」とマルコは無表情で、でも内心かなり動揺しながら親父を見上げる。「俺が船に乗り始めたころからの付き合いでな、3年くらい並走してくれてたこともあるんだが…最近は小競り合いが多すぎて顔を見せることもなかった」と懐かしそうに言う親父の隣で、もう20年船に乗っているマルコは親父の「最近」について思考を巡らせた。確かにマルコの20代から30代まではあっという間で、40代までだってもうすぐなのだから親父の20年もそんなものなのかもしれないが、それにしてもスケールがでかい。「名前とかあるのか?」と尋ねるエースは、あくまでクジラの背中に乗りたいようだが、さすがに海水に濡れた背中にエースが飛び上がるわけにもいかず、うずうずしながら手すりに身体を預けている。「モビー・ディック、と俺たちの船では呼んでたな」と船べりに顔を寄せるクジラに近づきながら親父は答えて、え、と反応したマルコと同じ所で、「えっ、じゃあこいつがモビーのモデルなのか?!」とエースは大きな声を上げた。おう、と頷く親父の顔がずいぶん誇らし気で、そうなのか、とマルコは、でもずっと感じていたふわふわとした違和感のようなものがすっと消えてなくなったような気がしている。たとえばモビーを眺める親父の視線、他の隊員、…息子たちと同じようにモビーへと呼びかける口調、破損することを恐れはしなくても船を乗り換えることはせずに必ず骨組みだけは残して修復を命じる理由。仲間ではなく友人だと言った親父の、すべてがモビーに詰まっているのだとしたら頷ける。そんな船をかたや半焼、かたや親父の部屋だけでも全焼させたマルコとエースは少しばかり気まずそうに視線を送ったが、気を取り直したように、「てことはお前、モビーの親父なんだな」と白クジラに話しかけて、意味がわかったのかわからないのかクジラはわずかに口を開いてざばりと水を飲みこんだ。わずか、と言ってもエースひとり、マルコでふたりくらいは簡単に飲み込めそうな口は、でも予想よりとても高い声でキュイ、と声を上げる。「そうだって」と言ったエースに賛同するわけにはいかないが、マルコにもそう聞こえた。

「アイランドクジラの変種らしいが、詳しいことはもうわからん」と、この白い色と大きさについて尋ねたマルコに答えた親父は、おおきな手を伸ばしてクジラのほんの一部に触れる。キュイ、と、ほとんど感覚もないだろうに声を上げたクジラをよしよしとあやして、「これだけでかいとなると、もう数百年は生きてるんじゃねえかと俺が若いころに乗った船では言われてたな」懐かしそうな目をする親父の隣で、「数百年てすげえな」と目を瞠ったエースの表情が微妙に寂しそうなので、「親父はまだ若ェだろい」とマルコが言えば、親父は少しばかり驚いたような顔をした後で「世辞なんざどこで覚えたんだ」と大きく笑った。それから、「まあ、まだお前らのガキを見るくらいまでは生きるつもりだがな」と優しく親父が言うものだから、ああ分かってるんだな、とマルコは思って心なしか緩んだエースの横顔を眺める。「意外と、…柔らかいんだな」と、とうとう手すりに飛び乗ってクジラの皮膚を撫でたエースに、「上に乗ってもモビーは怒らねえぞ」と親父が後押しするので、「ほんとか?!」とエースはそれはもう嬉しそうに叫んで、ぽい、とショートブーツを脱ぎ捨てて「お邪魔します」とクジラに一礼した。心持ち頭を下げてエースを迎えた白クジラの上で、「うおーつるつる!ふかふか!広い!!」とエースはすたすた歩いている。走らないのはエースの気遣いだろうか、と思いつつ親父の椅子に手をかけてマルコがぼんやりエースの背中を見送っていると、「おいマルコ」と親父が声をかけて、「お前、あいつが落ちた時すぐ拾えるように上飛んでろ」と、過保護にもほどがあることを言うのだが、今ちょうど同じことをしようとしていたマルコに異論があるはずもなく、「はいよ」と短く答えてそのままばさりと羽ばたいた。エースを拾うことだけが目的だとしたらあまり羽ばたく必要もないのだが、今のところエースはクジラの背の中ほどを歩いているので、ひとまずクジラの全景を掴むためにマルコはゆるく回転しながら空を駆けあがって行く。かなり高くまで舞いあがったところで上昇を止め、ホバリングしながら見下ろせば、ほとんど島のような白クジラと、ただの船でしかないモビーと、とても小さい親父と、点でしかないエースが目に映った。どこまで高く飛べるかも、どこまで遠く飛べるかも知っているマルコは、海上数百メートルの空がとても暑いことを知っていて、それでも不死鳥である以上干からびることもない。エースを乗せて飛ぶだけならマルコにもできるというのに、白クジラの上でエースがやけに楽しそうなことに嫉妬しないかと言えばそんなこともないが、不死鳥である前に人であるマルコとクジラで、親父の友人である白クジラとは立場が違うので、そんなことを言うわけにもいかなかった。眠そうな目をさらに細めながら緩やかに下降したマルコに、「お前も乗れよ!!」とエースが声を張り上げるので、マルコは黙って鉤爪の付いた鳥の足を差し出す。あー、と言う顔をしたエースは、「これは痛いな」と真面目な顔で頷いて、「じゃあとで触るだけ、触っとこうぜ。お前が知らないって言うなら、次会えるのも20年後くらいだろ」と言った。20年も生きていないエースが、あんまり簡単に20年先を口に出すので、マルコはすこしだけおかしくなって鼻を鳴らす。死にたがりだったくせに。

やがてエース以外の隊員も、親父に促されるまま白クジラの背に上がり込み始めて、最終的に甲板には親父とマルコだけが残されている。羽根毛をそよそよと風になびかせながら、数十人の隊員の、それでもエースだけに目を据えたマルコをちらりと一瞥した親父は、「エースじゃなくても拾ってやれよ」とごく静かに言うものだから、マルコは当然ながら重々しく頷いた。もちろんそのつもりだった。それから、「お前とエースも、兄弟じゃなくて友人になれりゃよかったかもしれねえが、」と親父がぽつりと呟くので、「俺とあいつはたぶんお友達にはなれねえよい」とそれだけはっきり否定して、マルコは薄く笑う。「そうか」と返した親父は、穏やかに白クジラと隊員を見つめている。マルコは眠そうな目でエースを眺めている。

ただそれだけで暮れた日だった。

 ( モビーにモデルがいたらいい / 「白鯨」のラストが好きだ  / マルコとエース / ONEPIECE )