生 き た 肉 体 の 群 れ



生ぬるい潮風が吹き抜ける港町で懐かしい人物の後ろ姿を見かけたカクは、両手いっぱい抱えた荷物と、自分の立場も忘れて、「久しぶりじゃのう」と無遠慮に手を伸ばしてその肩を叩いてしまった。一瞬動きを止めたそう広くもない背中の持ち主は、ゆるく振り返ってカクを認めた後で、「珍しいところで珍しい顔に会うもんだよい」とさして驚いたようでもなく答えてくれる。昔馴染み、つまるところマルコは、半分止められたシャツの隙間から相変わらず白ひげ海賊団の意匠をのぞかせて、今日も眠そうな目でカクを見返した。笑うこともなく、けれども決して人を拒絶もしない青い目が昔とまるで変わらないことに驚くほど安堵したカクは、「そうじゃな」と頷いて、こちらはにこりと人好きのする笑みを零した。ごく自然に、それしかできない作り物の笑顔を。

今はもうない白ひげ海賊団の1番隊隊長だったマルコと、今はもういないガレーラの職工長だったカクは、5年前にW7で初めて顔を突き合わせてから4年、白ひげ海賊団がW7を訪れるたびにブルーノの酒場で親睦を深めていた。それはCP9として見ればただの諜報活動で、ガレーラの職工長としてはただの広報活動で、でもカクとしてはただの、気の合う人間と酒を飲むだけの話である。マルコはカクよりずいぶん年上だったが、カクの若さを侮ることも見誤ることもなかったし、カクにしたってマルコの年齢にとらわれない飄々とした感性をずいぶん好いていたから、盛り上がる外野をよそに店の隅でただ淡々と酒を酌み交わして話をする。つまるところ、カクとマルコは友人だったのだ。少なくともカクはそう思っていたし、CP9ごと政府を追われた今となってはマルコの素性にも莫大な賞金首にも興味はない。ただ、カクがとても好きだったあの街での、もう二度と会うこともないだろうと思っていた長い夢のかけらに出会えたことが嬉しかった。足を止めて振り返ってくれたマルコが、たいして長くもない睫毛に縁取られた眠そうな目をぱちりとまばたいて、「ずいぶんな大荷物だが、急ぐところかい」と尋ねるので、「ただの買い出しだから、急いではおらんよ」と穏やかにカクが返せば、「じゃあそのあたりで、茶の一杯でも奢るよい」と、低いが良く通る声で言ったマルコはそのまますたすたと目に着いたらしい店に向かっていく。唐突な言葉にゆるりと目をしばたたいたカクは、そういえばブルーノの店でもよく一杯二杯と奢ってくれたもんじゃな、と思い出しながら小走りでマルコの後を追った。扉を半分開いて、カクを待つマルコに「すまんな」と礼を言いながら、するりとやわらかなコーヒーの匂いがする店内に滑り込めば、ちりん、とドアベルを鳴らしながらマルコは扉を閉めて、やってきた店員に「ふたり」と指を示している。導かれたのは窓際の奥のテーブル席で、「カウンターの方が良かったかい」と、ブルーノの店での定位置を仄めかせながらマルコがカクに尋ねたが、「ここの方がゆっくり話せるじゃろ」と、ゆるやかにカクは首を振った。よい、と頷いて奥の椅子を引いたマルコは、ごく自然にカクの手から荷物を取って、向かいの椅子に並べてくれる。「すまんな、」とまた言ったカクに、「構わねえよい」と頭を振ったマルコは、またごく自然にマルコの隣の椅子を引くものだから、カクとマルコは並んで腰を下ろすことになった。ずっと顔を合わせているよりこのほうが話しやすいんじゃ、と、酒の席でおぼろげに告げたのはカクで、それを覚えていたのはマルコである。やっぱり友人じゃった、とカクが心なしか頬を緩ませている間に、マルコはメニューを開いて「アイスカフェオレで」と注文しているので、カクもじっとメニューを見つめて、「カフェオレフロートを」と言えば、マルコはちらりとカクを眺めて、「甘いもんも好きだったかよい」と言うので、「それなりに好きじゃし、値段もあんまり変わらんかったしな」と、カフェオレ480ベリーとカフェオレフロート500ベリーをそれぞれ指すと、「実は俺もそう思ったよい」と、マルコはゆるく唇を持ち上げた。笑っている。「なんじゃ、じゃったらあんたも頼めばよかったろうに」とカクがテーブルに肘をついてマルコを仰げば、「そうだな」とマルコは頷いて、「今度はそうするよい」と言った。

あわい光が溢れる店内にはごく静かなボリゥムでクラシックが流れて、たとえ会話が途切れたところでカクとマルコの間に気まずさは欠片もない。それはとても懐かしくて、心地よい感覚だった。あの街では、5年間ずっとそうした空気が流れていた。街のどこへ行ってもカクは温かく迎え入れられて、アイスバーグさんもパウリーもルルもタイルストンも、皆カクを大事にしてくれていた。穏やかな粗暴さで、荒々しい愛で、包まれていたことを知っている。それは偽物だったカクと、それでも同じ目的を持って生きると決めたルッチやカリファやブルーノの足を止める理由になりはしなくても、遠く離れた島で彼らの幸せを祈る意味にはなっていた。だからやがて、ただの世間話のように「お前さん、工場はどうしたよい」と尋ねる声にも、「諸事情があってな、クビになったわい」と笑って答えることがカクにはできる。自分たちで殺し掛けたアイスバーグが、フランキーが、罪人のニコ・ロビンが、海軍が、それでも生きていたことを喜ばしく思えるカクに、もうしがらみは何もない。そうして、「あんたこそ、船はどうなったんじゃ」と、良く知っていることを尋ねるカクの声は強張りもせず、「墓標代わりに沈めてきたよい」と返すマルコの声も終始穏やかなままだった。あまりにも表情が変わらないものだから、「…良い船だったのに、残念じゃったのう」と、さすがにこれだけは言っておきたかったカクが小さく悔やむと、「そう言ってくれる奴がいるだけで、モビーも本望だろうよい」と、海賊らしいあいしかたで、船に目一杯心を砕いていたマルコはカクに目線を落とす。あの島で培ったすべてのものはCP9であるカクにとって虚構でしかなかったけれど、その全てはただのカクに滲みいるように還元されて、船が好きだということも、また船を愛する者がすきだということも、カクの中に矛盾は何一つない。「そうかの」と尋ねるともなく呟いたカクに、「そうだよい」とマルコは鷹揚に頷いて、運ばれてきたカフェオレに口を付けた。一口飲んでからガムシロップを半分浮かべるマルコの手元を見るともなく眺めながら、同じタイミングでやってきたフロートを突いて形を崩していく。アイスが食べたかったというより、ものすごく甘くして飲みたかっただけのカクは、普段飲むカフェオレがほとんどコーヒー牛乳であることを自覚していて、ルッチの前では決して飲まない。それでも、ブラックが好きだ、とのたまうルッチのカップにはいつも砂糖が二つ添えられていることを知っているカクは少しばかり優越感に浸ることもできるのだった。まあミルクが入らなければ、コーヒーはブラックで良いのだけれど。「それで今は何をしてるんだよい」と水を向けたマルコに、「仲間と、…あんたも知ってる何人かと、あんたが知らない何人かで航海しながら、いろんな島に停泊しとる」とカクは答えて、その買い出し、と座席の紙袋を指す。食料品と日用品が雑多につめこまれたそれは、カクと皆の生きる証のようなものだ。生きていくための糧なのだから当たり前と言えば当たり前で、でも5年前までカクにはそれが当たり前だという感覚すら借りものだった。人を欺いて殺すために培った腕で、自分の命を育むことがどうして、できるだろうか。それでもそれがカクの正義であり、CP9の存在意義だった。絶対的正義の闇であり続けることはカクにとってそれなりに大きな意味を持っていて、でも放り出された今となってはそれほど大事なものではなかったのかもしれないとも思う。誰かに与えられた意味の中で、新しい理由を付けて生き続けること自体度台無理なことだったのかもしれない。今となってはそれももうカクにとって遠い話で、ただ当てもなく航海することの楽しさだけはカクにも解るようになった。海賊のように。そしてこれは本当に迷ったのだけれど、カクはくるりと長い柄のスプーンを回してから、「あんたは何をしとるんじゃ」と、船と船長と同輩を一度に亡くしたマルコに問いかければ、「今は船を待ってる」とごく簡単にマルコは答えた。ぱちり、と目をしばたたいたカクに、「この島の造船所で、新しい船ができるのをまっているところだよい」と噛んで含めるようにマルコは続けて、それでは、「まだ海賊を続けるのか」とカクが尋ねれば、「まだ隠居には早ェだろい?」と首を傾げてマルコが笑うものだから、カクは、ほんとうにうれしかったのだけれど何も言えずにず、とどろどろにとけたクリームごとカフェオレを半分飲み込んだ。遠くにある友人が、たとえ変わってしまっても変わらずに在ってくれる。それだけでカクは十分だった。「早く完成すると良いな」と心からカクが述べれば、「ありがとよい」とマルコは軽く請け負って、それからにや、となんだか悪そうな顔で笑ってから、

「新しい船ができて、またW7に立ち寄ることがあったら、お前がクビになった理由を聞いていいかよい」

とマルコが尋ねるので、真実はごく限られた人間しか知らないとはいえあまり気分のいいものではないカクが僅かに表情を揺らすと、「楽しい話じゃねえのはわかったから止めておくよい」とあっさりマルコは引いて、「誰かに聞かれて恥ずかしい話でもない筈なんじゃがな」と、長い鼻を掻きながらカクも首を傾げる。正義のためにアイスバーグを裏切ったことに、ある種の異論はあるだろうが、もともとそのつもりで5年掛けたカクとルッチとカリファとブルーノはむしろ堂々としていたって良い筈だった。切り捨てられた今となっても、歯車に乗って生きるしかできない人間がいる以上世界政府は必要善で、CP9は必要悪だったというカクの意識に変わりはない。ただ、それを聞いてマルコのカクに対する印象がどうなるか、と言うことはカクにとってそれなりに重大なことで、たとえばただの職人だと思っていたはずのカクが政府の人間だったと聞いて突然激昂するようなマルコではないと信じていても、そうでない一割に欠片も意識を割かずにいられるほどカクは厚顔でもないのだった。カクはマルコとこれ以上どうなりたいわけでもないし、二度と会えなかったところで何の支障もないのだろうか、広い海のどこかに航海の無事を祈る相手がいるということは、あらゆるつながりを断ち切ってきたカクにとってとても重要なことで、だからカクは、「もしもW7に行く機会があったら、アイスバーグさんには謝っておいてほしいのう」とだけ告げる。「謝るようなことをしたのかい」と、氷をひとつ噛み砕いたマルコが尋ねるので、「した、と思うんじゃがよくわからん」と正直にカクは答えた。あの懐の広い人が、あの大火事で亡くならなかったという事実はカクたちの計画を確かに狂わせて、でも生きていたという真実に胸を撫で下ろしたただの格がいたことも間違いではない。殺そうとして、死ななかったことを謝るというのも妙な話ではあるし、かといって礼を言うわけにもいかなかった。生きていてくれて。殺そうとしたというのに。

重苦しい顔でもう一口白くなったカフェフロートを啜ったカクの頭を、ぽんぽん、と景気付けのように叩いたマルコは、「あの島でごたごたがあったことは俺も聞いてるが、…まあお前が、気に掛けているならいつか帰るといいよい」と至極あっさりと、とても難しいことを言った。「それはできん相談じゃ」と難しい顔を作ったカクに、「何がだよい」とマルコは軽く首を傾げて、なんでも、と言おうとしたカクの口を「お前も市長も生きてるんだろい」と続けたマルコの言葉がいとも簡単に塞ぐ。あ、と口を開いた形で止まったカクに、「まあそれは俺の勝手な考えだよい、」お前は好きに生きたらいい。とマルコは言いながら小銭を数えて、テーブルの片隅に乗せるとがたり、と椅子を引いて立ち上った。「もう行くのか」と心もとない声を上げたカクに、「そろそろ連れが戻ってくる頃だからな、失礼するよい」とマルコが答えるので、「ごちそうさま」とカクが返した。「まだしばらく島にいるからな、お前さんの都合が合う時に、どうだい」とマルコは二本指でグラスを傾ける仕草をするので、「悪くない話じゃな」とカクも笑いながら頷いて、いつか、という当てのない約束をする。悪くなかった。「じゃあな」と軽く頷いたマルコにひらひらと手を振って、またベルを鳴らしながら店を出たマルコの後ろ姿を追ったカクは、窓から見えた光景に僅かに目を開く。マルコが向かった道の端には、ブルーノの店でいつも宴会の中心にいた、マリンフォードで死んだはずの二番隊隊長が立っていた。見間違いか、他人の空似か、とぱちぱちまばたいたカクの目は、でも視力6.0で、そして元の商売柄賞金首の顔はそらで覚えている。なんだ、とカクは声に出さす呟いて、「あんたの方も、生きとるんじゃないか」と今度は声に出して言った。墓標だ、と言ったマルコの顔が穏やかだった理由にも、これで見当がついた。やがて、何か言葉を交わしながら歩くマルコとエースの姿はカクの視界から消えて、それからようやくカクもぐうっとカフェオレフロートを飲みほして席を立つ。がさ、と重い荷物を抱えて、帰る先がカクにはあった。マルコにもそれがあって本当に良かった、と思うカクは、マルコがそれほど簡単に、「帰ればいい」と言ったわけではないことにも気づいて、軽く肩を鳴らす。

いつか懐かしいあの街へ帰れるのだろうか。
色鮮やかに浮かぶ水の都を思い返しながら、ひとまず仲間の元に向かうカクの足取りは軽かった。
明日は、造船場に顔を出してみようと思う。

 ( カクとマルコは仲良くなれると思う / CP9は早くW7に帰ったらいい  / カクとマルコ / ONEPIECE )