両 翼 は あ る が 飛 ぶ 必 要 も な い



翌朝、マルコは瞼に光を感じてゆるやかに目を覚ました。カーテンのない天井の高い窓には青い空が流れ込むように広がっている。昨日の豪雨が嘘のように晴れ上がって、まだ朝も早いというのに明るく差し込む太陽が窓際で眠るエースの輪郭を鮮やかに照らしていた。結局マルコの方を向いているエースが、夜の内にどれだけ移動したのだろう、と思いながら、ずっと壁を向いて寝ていたマルコにはそれを知るすべがない。普段、あまり寝ぞうの悪くないエースが、揺れないベッドの上ではひどくアクロバティックな動きを見せることは、エースが船に乗って3度目の上陸でおおきな畳みの部屋に皆で泊まった時に発覚している。ただ「寝ぞうが悪い」というよりむしろ何かを警戒するような動きに、「何かトラウマでもあるのかよい」と、2m四方を大きく開けて眠ることになってうんざりしたマルコが問いかけると、エースは遠くに目を向けながら「…島の弟が…寝ながら殴るんで…」と、あまり言い訳にもならないようなことを言った。エースの弟、と言う時点でなんとなく方向性が掴めたマルコは、「もう誰も殴らねえから静かに寝ろよい」とだけ言い含めて、自分はさっさと壁際の隅に陣取って眠った。抗議は覇気で沈めておいた。あれから1年経って、ずいぶんマシになったとはいえ、エースはまだ良く動く。船の上ではほとんど呼吸しかしていないように見えるエースが、どうして陸でだけそうなるかはエースが言った以上に何か理由があるのだと思いつつ、今のところ思い当ることはまだない。

ともかくだから夜は、別のベッドで眠った。もう一度浴びたシャワーの後も、雨上がりの空を眺めた時も、アルコールが入った夕食の最中も、随分早い時間に引き上げた部屋の中でも、マルコとエースはたいして実のある会話をしていない。マルコは本を読んでいたし、エースは枕に頭をつけるかつけないかの一瞬で眠りこんで、マルコは少しばかり反省する。無理をさせたかもしれない。が、化け物のような身体能力をしているエースにとって、セックスの1度や2度は大した負担でもないだろうということに2秒で思いあたって、それはそれで面白くない話だ、と古びたページをぺらりと捲りながらマルコは考えた。よく乾いた紙片はマルコの手から水分を奪って、たいして油分のないマルコの指をさらにひび割れさせていくが、さして気にもならない。半分ほど読み終えたところで、眠っていると思ったエースがごろりと寝返りを打って、「なあマルコ」と声をかけるので、びく、と大きく身体を揺らしたマルコが動揺しながら「なんだよい」と答えると、「うん」と繋がらないエースは今にも閉じそうな目を懸命に開いてマルコを見ている。「…寝ぼけてるのかい」と尋ねたマルコに、「ねえけど、」と精いっぱい目を開くエースが「今何時だ?」と問い返すので、ごそごそと上着の懐を探って時計を引っ張り出したマルコは「12時過ぎだよい」と教えてやった。「それがどうかしたかい」と、本を読むことは諦めてぱたんとページを閉じたマルコの前で、エースはゆっくり笑って、「仕返ししようと思って」と意味深な言葉を吐く。それから、「もう一個の方は今日さんざん聞くだろうから、俺は別な方を言うな」と前置いて、「ありがとう」とエースは言った。身に覚えのないマルコは、「そりゃ何の真似だよい」とごく冷静に尋ねたが、エースは「そのうちわかるよ」とだけ欠伸交じりに告げてから、またくるりと寝返りを打って、一呼吸大きな溜息を吐いてから静かになる。「おい、…エース」と呼びかけるマルコの前で、エースの背中はぴくりとも動かない。礼を言われるようなことをした覚えはない。エースはずいぶん不安がっていたが、マルコはエースと過ごすことも、エースとふたりきりで島に滞在することもまるで嫌ではない。どころか、モビー・ディックが港にいてくれさえすれば、つまるところはいざという時手が届く場所に親父がいてくれたら、この状況はとてつもなく幸せなことなのだった。ただしそれを口に出して告げてしまえば、他の人間に親父を任せるのは不安だとか、親父の実を親父が守れないと思っているだとか、そうした漠然とした不安全てをさらけ出すことになるので、「モビーがすきだ」というマルコのそれはそれで嘘ではない感情で押し隠すしかなくて、そしてそれはマルコが船を離れたくない理由としてあまりにも薄いものになってしまうことをマルコ自身も自覚している。なんとなく目が冴えてしまったマルコは、閉じた本にエースが引き抜いた羽根を挟んで枕の下に押し込んでから、食堂で飲み直すことにした。1カ月前もたしかこんなだったよい、と思うマルコは、それでもその後のことは忘れたふりをして、軋まない扉をゆっくり押し開いて、U字方の廊下に滑り出る。火の気のない二階の、それでも階下からはごく小さな笑い声が聞こえて、マルコは音も立てずに階段を下った。酒を飲んで寝るのは気絶と同じだな、と思いながら、適量のアルコールはともかくマルコを安眠に誘ってくれる。夢も見なかった。


ぱき、と固まった肩を鳴らしながら、傷は治ってもそれなりに疲れはたまる不死鳥の身体構造に思いをはせる。もう20年近く付き合っている能力だが、いまだに良く分からないことが多い。いつかわかるときもあるのだろうか、と、たいしてわかりたいとも思っていないマルコはエースが目を覚ますまで読みかけの本を開こうとして、探った枕の下に何か歪な形をしたものが触れることに気付く。ん?と、何の気なしに引きだしたマルコの手の上には、掌で握れる程度の紙で覆われた何かが乗っていて、そんなものを置いた覚えのないマルコはゆるりと首を傾けた。昨日はなかった筈のものだ。ただ、エースとマルコが眠る部屋に誰かが、ということは考えにくいので、マルコでないのなら、これはエースが入れたのだろう。でも何のために何を、と、マルコは窓際のエースに胡乱な視線を向けたが、埒が明かないのでそっと紙包みを開く。と、それはマルコが昨日市で見かけた、ステンドグラスの盃だった。マルコはしばらくじっと掌を凝視して、エースに視線を移して、それからもう一度グラスを眺める。わからなかった。エースは、これをマルコにくれるのだろうか。エースが気まぐれに物をよこすのはいつものことで、マルコはその全てを気安く受け取っているが、こんな風に送られたことは一度もない。枕元に贈り物だなんてまるで、異国の聖人の生誕祭のように、とそこまで考えたところで、マルコはエースが目を覚ましてマルコを眺めていることに気付く。「なんで気配消してるんだよい」とじっとりした視線を送ったマルコに、「いや喜んでくれるか心配だったから」とエースは返して、一息で跳ね起きるとそのまますたすた歩いてマルコの目の前までやってきた。それから、「なあそれ、サッチの部屋の窓に良く似てるだろ」と笑うエースの言葉通り、色鮮やかなガラスが無造作に組みあげられた酒盃は、サッチの部屋の扉に填められた丸いステンドグラスと同じ光を孕んでいた。「で、マルコ良くあれ見てるから、好きなのかと思って」とエースは言って、マルコの反応を待っている。

たしかにすきだった。

もう何年も前、サッチが隊長になったばかりの事だから、エースは知らないだろうが、あの窓はもともとマルコが、マルコのために買ったものだ。サッチが4番隊の隊長になったのは、それまで4番隊だったマルコが1番隊隊長に代替わりした時で、それはつまり4番隊隊長の部屋を出るマルコを手伝っていたサッチが、「お、これ良い色だな」と当時は額に収められていた四角いステンドグラスを日に翳して目を眇めるものだから、しまい込むしかできないマルコより有意義に使いそうなサッチに「欲しけりゃやるよい」とくれてやったのである。「ほんとか?もう返さねえぞ」とひとしきり騒いだ後にひどく嬉しそうに笑うサッチが、マルコは好きだった。それはやがて船大工の手にゆだねられて、武骨なだけだった4番隊隊長の部屋の扉をともかく今も割れることもなく彩っている。「お前、隊が変わったらどうする気だよい」と尋ねたマルコに、当然のような顔をして「扉ごと外して持ってくぜ?」と答えるので、そのまま次の4番隊隊長のものになるとしたらそれは少し寂しい、と感じるマルコは胸のすく思いをした。それからもう10年近く、その頃の思いなどもうすっかり忘れたような気でいたマルコは、でもまだエースが気づくほど単純に、あの窓に執着しているらしい。だとすればこのグラスは、エースとサッチとどちらを思うものになるのだろう。エース、と、言いきれないマルコが歯痒くて堪らない。それでも、嬉しかった。とても嬉しかった。

そんなことをエースは欠片も知らないだろうし、これから先告げる気もないと言うのに、エースはとても簡単にマルコの欲しいものをくれる。おもわず握りしめそうになった掌を、繊細なガラスの感触に慌てて押し留めて、マルコは無感動に「ありがとよい」と目を伏せた。マルコは大事な物を大事にすることはできるが、あまりうまく使うことができない。これもきっと、マルコの部屋の一番上の棚で大事に、つまりある意味無駄に埃をかぶって行くのだろう。むしろエースが来たときに、エースが使ったらいいんじゃねえかい、と思うマルコの前で、エースは軽く肩を落として、「やっぱもっと酒とか、そう言うのの方が良かったか?」と尋ねるので、「いやそんなことはねえが、…なんだよい?昨日と言い今日と言い、俺はお前に何かしたかい」と、昨晩の唐突の礼を含めてマルコが問い返せば、エースはわずかに眉を下げて、それは困っている、というよりも困った上に笑いだしたいような妙な表情だったので、「なんだよい」とわけのわからないマルコも首を傾げる。なにっていうか、とマルコの目の前で首筋に手を当てたエースは呟いて、「ほんとにサッチの言うとおりだから、何て言っていいかわからなかった」と、サッチを持ち出した。こころなしか呆れているようにも見えるので、「何でもいいから、せめてその含みのある物言いは止めろよい」とマルコが返すと、エースはがりがりと首を掻いて、「マルコほんとにわかんねえ?全然?プレゼントしても?」と言うので、「分からねえから不審がってるんだろい」と素直にマルコは答える。途端に、エースは耐えきれなくなったように顔に手を当てて、でもどうしたのかと思えば少しばかり肩を揺らして、エースは笑っているのだった。そうして、「まあ、もういいか」と呟いてから、掌を半分外して、「おめでとう」と口元だけを覗かせてエースは言った。

「10月5日、おめでとう」

と重ねられて、ようやく今日の日付と、その意味を思い出したマルコは、その瞬間どうしようもないくらい恥ずかしくなって思わずぼわっと羽根が出た。当たり前のように形を失くした掌から、あっという間もなくグラスが滑り落ちて、マルコは慌てて化生を解こうとしたが、その前にエースの手が床すれすれで小さなグラスを受け止める。「何、してんだよ」と呆れたように笑うエースの顔が赤いので、「うるせえよい」と返したマルコは、「お前だって照れてるんじゃねえかい」と毒づいて、どうにも図星だったらしいエースは「だって普通に、ここまでしても忘れてると思わねえだろ」と返した。そりゃそうだ、と思いつつ、「この年になってお誕生日おめでとう、もねえだろい…」と出てしまった翼と尾を仕舞いながら、マルコは今度は逆の意味で俯く。それからはた、と気がついて、「ちょっと待てエース、この日にこんなタイミングで休暇で陸に上がるって、お前これどこから仕込みだよい」とマルコがつめよれば、「最初からだってよ」とくるりと手の中のグラスを回してエースは答えた。「だってよ、って、」とマルコが言い淀めば、「親父が起案して、サッチが計画して、船全体で俺を巻き込んで、サプライズ!」とマルコにグラスを突き付けながら、やけに吹っ切れたような顔でエースは言って、「ちなみに俺はお前の誕生日が今日だってことも、出汁にされたってことも昨日初めて知りました」と続ける。タラップを降りるときの、サッチの含み笑いを思い出したマルコは、「ああ…、そうかい…」と、深く問い詰めることもできずにエースからグラスを受け取って、もう一度きちんと紙に包んで枕の下にしまい込んだ。とりあえず、とマルコがマルコの隣を指すと、頷いたエースはぼすっとマルコのベッドに腰をおろして、「ひでえと思わねえか、親父もサッチも皆も、俺が知ってたら絶対マルコに伝わるからって直前まで何も教えてくれなかったんだぜ?俺だって、…俺だってさあ、何かしたかったのに」と言うエースの声はどんどん尻窄みになって、「マルコはもう結構何でも持ってるから、市場でも結構悩んでさ、これだ、って思ったんだけど、一晩経ったらどうかなって思うしよ、」とエースの繰り言がいつまでも続きそうなので、「ちなみにいつ置いたんだよい」とエースを遮ってマルコが尋ねれば、「マルコが酒飲んでる間」と簡単にエースは答えた。「あの後また起きたのかい」と、時刻を尋ねたあと、とマルコが言えば、「マルコがいなくなったらわかるからな」と、聞き様によっては誤解しかねないことをエースは返して、ただしそれはエースが人の気配に敏感だというだけの話である。「そうかい」と返したマルコは、しばらく白い壁と、白い窓と、青い空を途方に暮れたように眺めて、それからエースの顔を見ないまま、がしがしとエースの頭を撫でた。ぐらぐらとされるがままになりながら、「なんだよ」とエースが言うので、「正直すごく嬉しいよい」とごく簡単にマルコは言い放つ。「そ…そうか?」と、エースがちらりと視線を送ることに気付きながら、まっすぐ前を向いたまま「嬉しいよい」とマルコは重ねて頷いた。「そっか」と答えたエースの頭が突然ぐらりと下がって、「よい」とマルコがようやくエースを覗きこむと、「いやちょっと、気ィ抜けて」と答えるエースの耳が赤い。そして、「俺さあ、17で島を出て、18でモビーに乗ったんだよ」と、エースはマルコが良く知っていることを言うので、「そうだな」とマルコが返すと、「で、18の時はまだろくに仲間もいなかったから、…初めてだったんだよな、今年が」とエースは呟くように言って、なにが、とマルコが問いかける前に、

「誕生日におめでとうって言われたのは初めてだった」

と、ほとんど掠れるような声でエースは吐き出した。マルコは、エースの出自を知っている。エースが誰の息子で、何をして生きてきたかを知っている。それをエースがどう感じているのかも大まかなところで理解しながら、それでもエースの感情だけはエースのものだった。いろいろ思うことがあるマルコが、それでも「この先何度でも言われるだろうよい」と返せば、「それでもマルコが初めてだったのは変わらねえし、すげえ嬉しかったし、…だから俺もちゃんと言えて良かった」と、ますます小さくなりながらエースは言う。マルコは、エースが自分自身の生にそれほど興味がないことを知っていて、だから今、こうしてエースがエースが生を受けたことを祝われて、嬉しかったのだと聞かされて、それこそ今までもらったどんなプレゼントよりも今は嬉しかったのだけれど、マルコはそれをうまくエースに伝える術を持たない。もどかしいほどに表情も、声色も、何もかも平静なマルコは、素直なエースがひどく羨ましくなって、「じゃあ仕返しってのはそういうことかよい」といっそ不機嫌にもとれるほどの無表情で尋ねれば、「だって悔しいだろ、俺だけこんなに嬉しくて」とやっと顔を上げたエースが理不尽なことを言うので、「そりゃ俺の台詞だよい」と返したマルコは手を伸ばしてまだ赤いエースの頬をぎりぎりと捻りあげながら、「俺の好みを正確に把握してるんじゃねえよい」と続ける。「いたいいたいいたい」と、今は炎に変わったって良い筈のエースが生身のまま少し涙目でタップするので、マルコは渋々エースから手を離して、どさりとベッドに倒れ込んだ。少しばかり酒が残っている。アルコール消化酵素と不死鳥の能力の関係性について、を議題に掲げたいマルコの横に、ぱたりとエースも倒れ込んで、小さく欠伸を漏らすものだから、「変な時間に起きるから眠くなるんだろい」とマルコが言えば、「まあそうなんだけどよ」とエースは素直に頷いて、「でも祝いてえだろ」と薄く笑うので、この野郎、と思いながらマルコはまたがしがしと眠そうなエースの髪を撫でて、「朝飯の時間が終わらねえ内に起きろよい」とだけ告げた。うつらうつらしながら、「おう」とそれでもはっきりした声で答えたエースの横で、マルコもゆるく目を閉じる。40も目の前になって、こんな風に誕生日を祝われることがあるとは思わなかった。親父の誕生日は毎回盛大に祝っているが、まあそれはもう、ずいぶん別の話である。親父もサッチも俺にたいしてはろくなことをしねえよい、と、恨み言を述べた筈のマルコの顔はだいぶゆるんでいて、説得力のかけらもない。どこへでも行けるエースと同じように、能力を加味すればそれ以上簡単にどこへでも行けるはずのマルコがどこへも行かないのは、親父とサッチと、エースがいるからだった。マルコは、ずっとここにいたかった。温かいエースの体温と、まだ完全には上りきらない太陽の光を浴びながら、マルコもうとうとと眠りに引き込まれている。それで結局昨日の、どこからどこまでがプレゼントだったんだ、と漠然と思うマルコの思考は、まとまる前に拡散してしまった。

2時間ほど寝坊して、朝食と言うより昼食に近い食事をしてからエースの希望でまた港の位置に向かったマルコの、目の前に堂々と停泊するモビー・ディックとマルコとエースを迎える親父と、サッチと隊長以下1600人の隊員があらわれてマルコの度肝を抜くのは、マルコが夢の国を降りてからの話である。

マルコとエースが眠るベッドの端には、青い鳥の羽が落ちている。
幸せな青い鳥の羽が落ちている。

 ( あなたが年を重ねることが愛しい / プレゼントはエースってお前  / マルコとエース / ONEPIECE )