F l o w e r   o f   L i f e



4番隊隊長マルコの部屋には、今12歳の少女が眠っている。

常夜燈のような半月が上る夜更けだった。波の静かな海をゆるやかに渡るモビー・ディックの進路に、明々と燃える船が浮かぶまで、隊長になったばかりのマルコはふらふらと手持無沙汰に甲板を彷徨っていた。もともと副隊長だった4番隊の、かなり古参だった隊長が船を降りて3か月、「なんとなく」で生きている性分を矯正しようかどうしようか、 今現在空になっている副隊長を誰で埋めようか、そんなことを考えていたマルコの視界の端に良く見慣れた(マルコの焔は蒼いが、燃え広がってしまえば赤くなる)色が映って、鳥目と言うわけでもないが夜目があまり利かないマルコは薄く眉を顰めて「ちょっと見てくるよい」とそのあたりにいた夜番を捕まえて行き先を告げる。マルコが指差した深淵に目を凝らした隊員は、大きく頷いて、報告のためかぱたぱたと走り去って行った。その軌跡を見るともなしに見送りつつ、ばさり、と両腕を炎に変えたマルコは、少し考えてやはり手近にあったロープを一巻き咥える。何か役に立つかもしれない、と言うのは鳥に変わったマルコの本能のようなもので、それはあまり外れることがないので、マルコは人の部分でもよく鳥の行動原理を思い返していた。ともあれ、あまり思考能力はない鳥の事なので、本当に感覚的なものでしかないのだが。ゆるやかに回転しながら上昇したマルコは、弾みをつけて滑空するように燃え上がる何か-10中8,9船だが-に近づいていく。真上までたどり着いて、旋回するマルコの眼下には、マルコの予想通り炎に包まれた地獄絵図が広がっていた。旗印を見ればそれなりに大きな一団だったらしい海賊船の甲板には、戦いの痕が色濃く刻まれて、肉と脂の焼ける匂いが充満している。 生存者はいねえのか、と、たいした興味もなく見回したマルコの目に、今まさにぼきりと音を立てて倒れるメインマストと、そのてっぺんに必死にしがみつく小さな身体が映ったのは本当にただの偶然だった。何の義理もなかったが、ともかく目に入ってしまった以上そのまま燃やされてしまうのも忍びなく、旋回して絶妙なバランスで止まっているマストを眺めたマルコは、小さな、と言うのが身体だけでなくその全てであることを知って、眠そうな目を軽く見開く。海賊船には不釣り合いなほど小さな、それは女の子だった。若い、と言うよりただ幼い。船になったばかりのサッチぐらいか、と思ってしまったマルコは、ますます身捨てるわけにもいかなくて何度かホバリングして少女を掴もうとしたが、複雑に絡んだロープが邪魔をしてうまく少女に身を寄せることができない。ち、と舌打ちしたい気分になったマルコに、ごうごうと燃え盛る火の内からとてもよく通る声が聞こえる。

「助けてくれるの」

と、まっすぐマルコを捉える少女の瞳はひどく透き通っていて、マルコが首を振ればそのままマストと一緒に溺れてしまっても構わないような危うさを感じたマルコは、こくこくと何度か首を上下させた。瞬間、まるでとてもひどいことを言われたように表情を暗くした少女が、「そのロープを降ろしてくれたら、捕まるわ」と冷静に告げるので、ようやく咥えていたロープの存在を思い出したマルコはぶん、と嘴を震わせて片端を投げ落とす。ぱた、とうまく少女の傍に垂れた一端を、でも両腕でマストにしがみつく少女がどうやってつかむのだろう、とあまり廻らない鳥の脳で考えるマルコの心配をよそに、少女はするすると何本もの腕を咲かせて器用にロープと身体を繋いだ。ぐ、とたいして重くもない体重がかかったことを確認して、舞いあがったマルコの嘴にも腕は届いていて、「熱くないのね」とやはりか細い、それでも震えもせずに少女は言った。ひとまず助かってよかった、と思った鳥のマルコが、ああ能力者かよい、と思い当ったのは、燃える船に意識を戻すこともなく白ひげ海賊団の甲板に辿り着いてからだった。

そっと少女を降ろした隣で、マルコが鳥の姿を人の姿に帰ると、ほんの一瞬だけ少女は身を強張らせたが、すぐにぐらりとゆれて甲板に膝を着く。「大丈夫かよい」と抱きとめた少女の身体がとても熱いので、炎には耐性のあるマルコは少女が背中に大きく火傷を負っていることに気づいて顔をしかめた。ばらばらと駆け寄ってきていた夜番の隊員に、「船医を起こしてこい」と命ずれば、普段隊長命令に逆らわない隊員たちがなぜか揃って顔を見合わせるので、「どうしたい」とイラついたマルコが眼光を鋭くすれば、ひ、と竦み上がったひとりが「隊長、知らないんですか」と尋ねる。「何を」とマルコが短く問い返すと、「それ、ニコ・ロビンじゃないですか」とまるで物を指すように、少女を指差して吐き捨てるように言った。その途端、少女はびくり、と滑稽なほど大きく身体を震わせて、その名前に聞き覚えのあるマルコは僅か8歳で7000万の懸賞金をかけられた少女の手配書を思い出す。海賊などと言う商売柄、他人の懸賞金にも敏感な白ひげ海賊団の、とある廊下には名だたる海賊の手配書が所狭しと貼られていていて、船に乗ったばかりのマルコはよく貼り替える作業をしていたから、その仕事が誰かに移った後もふらふらと廊下を行き来して、マルコが20を迎えたばかりの冬に追加された少女の名前も覚えているのだった。ただ、それが腕の中の少女とうまく結び付かない。付いたところでたいした感慨もなく、「いいから、さっさと呼んでこねえかい」と今度こそ覇気を滲ませて告げればようやくぱたぱたと数人が走り去って、それでも残った数名はマルコと、少女を籠目るようにぐるりと少女を睨みつけている。屈強な男どもに囲まれて怯えているだろうか、と少女を見降ろしたマルコは、少女の瞳がまた黒く黒く見開かれて自分の手の甲をじっと眺めていることを知って内心舌を巻いた。「お前さん、ニコ・ロビンかい」と静かな声でマルコが尋ねれば、「ええ、そうよ」ととても丁寧に少女は答えて、「海軍に引き渡すなら、船が燃えない内にして頂戴ね」と続けるものだから、あの船の針路と、その結末の理由がなんとなく予想できて、「海賊が賞金首を引き渡しはしねえよい」あっさり請け負ったマルコは、やってきた当直の医者にニコ・ロビンを引き渡して終わろうとした---のだが、

「こいつを拾ってきたのはあんただから、あんたが面倒みなさい」

と、初老の医者は迷惑そうに欠伸を漏らして、「見た目ほど大したことはないし、痕も残らないだろうよ」という火傷と、細かい傷の治療が終わったニコ・ロビンをマルコに返して、ばたんとマルコの目の前で臨時の医務室になった小部屋の扉を閉じる。「いや、…俺の部屋に寝かせるわけにはいかねえだろうよい…」と呟くマルコの言葉は、しかし大部屋に放り込むわけにも、すでに眠りに落ちているナースたちの手を煩わせるわけにもいかないので宙に浮いてしまった。幸い個室であるし、マルコは夜勤である。「私は、甲板でも置いてくれるだけで結構よ」とどうも言葉を選んでいるらしいニコ・ロビンの言葉には肩をすくめて、「子供が遠慮なんかするんじゃねえよい」と軽く言ってのけて、まだ不安そうに、何か言いたげにマルコを見つめる隊員たちをかき分けて、それから思い出したように「なんかあったかい飲み物持ってこいよい」と注文を付けた。無言の圧力は無言の覇気ではねつけて、すたすたとマルコの部屋に向かう道中、おろしてくれ、というニコ・ロビンの意図を汲まずにいると、「ここはどこ」とニコ・ロビンが尋ねるので、「白ひげ海賊団の船だよい」とごく簡単にマルコは答えて、「また海賊船で残念だったな」とあくまで軽く、本心からマルコが言えば、「どこだって同じだわ」と呟いたニコ・ロビンの声があんまり苦々しいので、それはそれで初めて人間らしい声だな、と感じたマルコは「そうかい」と気のない声を返す。表情を伺おうとは思わなかった。

やがてたどり着いたマルコの部屋で、少し考えたマルコはニコ・ロビンを降ろす前にぐるりとベッドを覆うシーツを剥がして、真新しいシーツを取り出す。この部屋では何も無いが、この年頃の少女にどう接していいかわからないマルコは慎重を期すことにした。ばさり、と広げるだけ広げたシーツの上に、傷に触らないように横向きでニコ・ロビンを寝かせると、またあのとても深い黒い目で「あなたは誰」とニコ・ロビンが問いかけるので、「マルコだよい」とマルコが名前だけを告げると、ニコ・ロビンは瞬きもせずにじっと何かを堪えるように口を噤んで、それから「そう、あなたが"不死鳥のマルコ"ね」と淀みなく返すので、「…そりゃ、海軍の馬鹿どもが勝手につけた呼び名だな」と、不本意ながら、それでも手配書に記載されてしまっている文字を思い返してマルコは答える。「あなたの情報はいくつか持っているけれど、まさか本当に鳥だとは思わなかったわ」と淡々と告げるニコ・ロビンに、「それがお前の付加価値かい」と薄く笑ってマルコが言うと、「ええ、そうよ」と悪びれもせずにニコ・ロビンは笑い返した。強張りもしない、幼い顔に良く似合う歪な笑みだった。末恐ろしいガキだな、とたいして驚きもなくマルコが腕を組んで立っていると、がんがん、と扉を蹴りつけるような音が聞こえて、「空いてるよい」と誰かわかるマルコが扉の向こうに声をかければ、「俺が塞がってるんだよ」と良く通るサッチの声が聞こえて、パシらされたかい、と思いつつマルコは扉を開く。両手に湯気の立つカップを3つと、水の入ったコップをひとつ持ったサッチは、「マルコの部屋に女がいるなんて珍しいな」とガキに掛けるには性質の悪い冗談を言うので、そうした倫理観は持ち合わせているマルコは物も言わずにサッチの膝を蹴り抜いて、がくんと傾きかけるサッチの手からカップとコップを器用に奪い取った。「口で言おうぜマルコ隊長…」と何が悪いかは分かっているらしいサッチが俯いたまま呟くセリフは無視して、「水とコーヒーと、どっちにする」とマルコがニコ・ロビンに尋ねると、「あなたたちと同じものを」とニコ・ロビンは言う。何を警戒しているか察するまでもなく理解したマルコが、「俺が毒に耐性があるかどうかの情報も持ってるかい」とニコ・ロビンに尋ねれば、「そうね、ないけれど」とニコ・ロビンは答えて、そろそろと身体を起こして、マルコが差し出したマグカップとガラスのコップを受け取った。それでもしばらく口をつけようとしないので、マルコが手元のマグカップを傾けようとした瞬間に、「ん?毒見して欲しいのか」と空気を読まずはっきりと言ったサッチがニコ・ロビンの手にあるマグカップとグラスの中身を交互に口に含み、ごくりと飲み下して2分、「妙な味も匂いもしねえよ」とニコ・ロビンの細い肩を叩いて笑うサッチの顔を、わずかに開いた口元で見上げたニコ・ロビンは「…いただくわ」と言ってこくり、とグラスの水を飲む。最初はゆっくりと、やがてこくこくと全て飲み干したニコ・ロビンは、「煙に巻かれると喉が渇くのね」と言い訳のように口にして、「じゃあもう一杯持ってきてやるよ」と、ニコ・ロビンが答える前にニコ・ロビンの小さな手からグラスを取り返したサッチがばたんと扉をあけて出て行く後ろ姿を眺めながら、「コーヒーで、十分なのだけれど」と呟く声はわずかに震えていた。「怪我人は甘やかされる権利があるんだよい」と飄々と告げたマルコに、「罪人でも」とぽつりと言ったニコ・ロビンの声はもう何の感情も孕んでいない。「この船は海賊船だよい」と、わりと明確に船に乗る全員が犯罪者だと言ったマルコの言葉は、騒々しく帰ってくるサッチの「おかわりお待たせ」という能天気な台詞で上書きされた。ニコ・ロビンは、当然のようにグラスに口を付けてから返すサッチの顔を一言も発さずに眺めていた。サッチは、水を満たした水差しまで用意している。

二杯の水と、半分のコーヒーを飲んだニコ・ロビンは「ごちそうさま」と丁寧に言って、サッチにコップとカップを手渡した。「お粗末さま」と答えるサッチに、「あなたはコックさん?」とニコ・ロビンは問いかけて、「や、ただの戦闘員だぜ?名前はサッチだ」と告げて差し出したサッチの右手を躊躇いなく握ったニコ・ロビンは、「ニコ・ロビンよ」と諦めたような声音でサッチを見上げる。何を思ったのか、何も思わなかったのかは分からないが、サッチは軽く頷いて、「傷が軽くてよかったな」とだけ言って細いニコ・ロビンの手をぶんぶんと揺すった。「傷に障るだろい」とマルコがたしなめれば、「あっ、…ごめんな?」と慌ててサッチは手を止めて、ニコ・ロビンはゆるく首を横に振る。ニコ・ロビンの細い首を縁取る絹のように艶やかな黒髪が音もなく舞って、ふうん、とマルコは意味もなく口元に手をやった。笑っているような気がした。

「それじゃあ、良い夢見ろよ」

と言って手を振るサッチと一緒に自分の部屋を出たマルコが、「歩くのはつらいと思うが、鍵をかけとけよい」と扉をコツコツ叩けば、ニコ・ロビンは「大丈夫よ」と顔をしかめることもなくベッドを降りて、素足の(そう、炎に巻かれながら、少女は裸足でマストにしがみついていた)ままそう広くもないマルコの部屋を横切って、サッチとマルコの前に立つ。「痛むようだったら、棚にある薬を飲めよい」と、船医から渡された化膿止めと痛み止めを無造作に放り投げた4段の本棚を指せば、「眠れなかったら、棚の本を読んでもいいかしら」と頷きながらニコ・ロビンが問いかけるので、「別にかまわねえよい」と貴重な本も持っていないマルコが請け合うと、ニコ・ロビンは僅かに表情を明るくして、「ありがとう」と初めて礼を言った。意図的に言わないのだと勝手に考えていたマルコは、もしかして命を助けられたことより本を貸される方が嬉しかったのか、と言うことに思い当って薄く息を吐く。ただし口では、「おやすみ」とだけ告げておく。「おやすみなさい」と返したニコ・ロビンは、ぱたん、と扉を閉めて、がちゃりと素直に鍵を回した。しばらく扉の向こう側とこちら側で気配を伺いあっていることに気付いたマルコは、「本は幾らでも貸してやるから、寝る努力はしろよい」と言って、マルコの顔を眺めるサッチを伴ってマルコの部屋を後にする。ちらりと振り返った扉の隙間から明かりが消える瞬間が見えて、よい、と頷けば、「お前子供好きだっけ」とにやにや笑いながらサッチが尋ねるので、「まあ、わりと嫌いじゃねえよい」と適当にマルコが答えると、「それ、あの年齢の子供相手だと微妙な発言だよな」とやっぱり笑いながらサッチは言った。「だから鍵掛けさせたろい」と否定はせずにマルコも返して、「ただ能力者だからな、自分の身は守れるかもしれねえが」と呟くと、「でも女の子だろ」とサッチが真面目な顔でマルコを振り返って、「よい」とマルコは頷く。女を嫌う船乗りの俗説を振り払うように、白ひげ海賊団には女の隊員も、ナースたちも乗っているが、彼女たちは全て親父の庇護下にあった。2間続きの広い部屋で、男どもよりずいぶん優遇される姿を見る隊員たちが、不意に乗り込んだ少女におかしな気を起さないとも限らないわけで、だからマルコの部屋に、と言う船医の発想はあながちただの厄介払いとも言えない。もう少し育っていたら対処も違うが、微妙な年頃なのだ。本当に。さて、と首を回したマルコに、

「で、どうするわけですか」

とタイミング良くサッチが声をかけて、「とりあえず朝になってから親父に報告に行くよい」と言ったマルコは小さく欠伸を噛み殺す。長い夜である。

夜明け過ぎのことだ。いつでも早起きの親父の部屋の扉を叩いたマルコは、おうどうした、と返る親父の応えに「朝から邪魔するよい」となおざりに非礼を詫びて、いつも通りベッドに半分背中を預ける親父に手っ取り早く燃える海賊船を見かけたことと、海賊船から少女をひとり連れ帰ったことを報告する。「お前がそういうことをするのは珍しいな」と、咎めるでもなく目を眇める親父に、「本能だよい」と肩をすくめてマルコは答えた。「そりゃあいい」と、にい、と唇を緩ませる親父は、「で」と続けるので、「助けた後でわかったんだが、ニコ・ロビンだったよい」と簡単にマルコが告げれば、「また珍しいもんを拾ったな」と親父は言う。それから、「何が問題だ」と何か問題があるから報告に来たとわかっている親父が問いかける言葉に、「下の奴らが騒いでるよい」とこれはまともにマルコは言って、「できれば船べりから突き落とそうって目をした連中が大勢いる」と繋げた。「噂だけ聞きゃそれも間違っちゃいねえだろうがな」と、あくまで息子を否定することはない親父は、許容した上で「それでも、この船に乗るなら賞金首だろうが俺の娘だ」とはっきり宣言するので、「ああ、親父がそうしてくれるなら俺も動きやすいよい」とマルコは頷く。「それでお前はその娘を海賊にしてえのか」と面白そうに親父は問いかけて、「本人の意思を尊重するよい」と返したマルコに「あとで連れて来い」と満足そうに言った。よい、と答えて軽く顎を引いたマルコは、「それじゃ、飯食わせに行ってくるよい」と面倒くさそうに述べて親父の前を辞する。

またすたすたと歩いて、親父の部屋からわりと近いマルコの部屋までやってきたマルコは、ノックの前に小さく「盗み聞きなんざしなくても、何も隠さねえよい」と頭を掻きながら言った。しばらく静かだった部屋の中から、「さすが不死鳥のマルコさん、と言えばいいかしら」と悪びれもしないニコ・ロビンの声が聞こえて、マルコの背中に張り付いていた気配が軽くなる。かちゃ、と開いた鍵と扉と、覗いた小さな頭を見降ろして、「増やせるのは腕だけじゃねえのかい」と尋ねる、と言うより確認のようにマルコが言うと、「身体中どこでも咲かせられるわ」と答えたニコ・ロビンは言葉を裏付けるようにたくさんの腕と、腕ごとに数十個の耳と目を貼りつけて見せた。「便利そうだな」とだけ感想を述べたマルコは、「聞いたと思うがとりあえず飯食って、それから親父のところへ行くよい」とニコ・ロビンを促す。先に立って歩きだすマルコの背後から、「この船に乗ると娘、っていうのはどういう意味かしら」とニコ・ロビンが尋ねるので、「誰でも親父の子供になる、ってことだよい」と、マルコは聞き様によってはあまり良くない事実を伝えてやった。「…そうなの」と言ったニコ・ロビンの声が幾分遠いので、思い当るマルコは僅かに歩みを遅らせて、背の低いニコ・ロビンに並ぶ。俯くニコ・ロビンに、「口さがない連中はいるだろうが、少なくともこの船は簡単に燃えはしねえよい」と優しくもない口調でマルコが言うと、「ええ、そうね」とあくまでもごく軽くニコ・ロビンは肯定して、それきりふたりとも口を開かなかった。食堂では、目ざとくニコ・ロビンを見つけたサッチがあらゆる悪意を堰き止めてニコ・ロビンに話し掛け続けていたので、その必要もない。食後に、これから親父のところで行く、と言ったマルコの言葉を聞いて、「じゃあモビーに乗んのか」と嬉しそうにサッチはニコ・ロビンに問いかけたが、ニコ・ロビンはあいまいに笑って、「もう乗っているわ」とだけ返した。

そうして、日中は大きく開け放されている親父の部屋の前までたどり着いた時、「船に乗らなければ私は船べりから突き落とされるのかしら」と、問いかけるわけではなく事実を確認するようにニコ・ロビンがマルコを見上げるので、「いや、次の島で降ろすだけだよい」とごくあっさりとニコ・ロビンの言葉を否定したマルコは、「だから好きに決めろい」と親父を仰ぐようにニコ・ロビンの肩を押す。一歩踏み出したニコ・ロビンの掌は、さすがに握りしめられていた。それでも、

「こんにちは」

と言ったニコ・ロビンの声は震えても掠れてもいない。「ああ、昨夜は災難だったらしいな」と、燃える船のことを口にした親父に頭を振って、「伝説のような不死鳥さんに会えたんですもの、悪くなかったわ」とニコ・ロビンが応えれば、グララララララ、と楽しそうに親父は笑って「自慢の息子だからな」と言った。少しばかり気恥ずかしいマルコが、「それはいいよい」と手を振れば、「事実を告げて何が悪い」と堂々と親父はマルコを眺めて、嬉しくないわけではないマルコはまたがりがりと首の後ろを掻く。また少し笑った親父は、それでもニコ・ロビンに向き直って、「さて本題だが」と告げる。「ええ」と頷いたニコ・ロビンに、「お前は俺の娘になる気があるか?」と親父が問いかけると、ニコ・ロビンはにっこりとほほ笑んで、「とても魅力的なお誘いなのだけれどなれないの、ごめんなさいね」と言った。だいたい予想はしていたし、親父も「なる気があるか」と問いかけているので大丈夫だとは思うが、あまりにもはっきりと断るものだから少しばかりひやりとしたマルコの前で、親父は「そうか」と頷いて、「残念だ」と、肘を付いていた身体をむくりと起こして、おおきな手を伸ばしてニコ・ロビンの小さな頭をがし、と一撫でする。

「甘やかせる年齢の娘もいいと思ったんだがな」

と告げる親父の声がとても優しかったので、ニコ・ロビンはもう一度「ごめんなさいね、」とごく丁寧に言った。後ろ手に組まれたニコ・ロビンの細い指は、真っ白になるまできつくきつく握りしめられている。


わりと大きな冬島の港にモビー・ディックを付けたのは、それから2週間後のことだった。船に乗る間に、結局すっかりニコ・ロビンに懐柔された隊員どもは、涙ながらに別れを告げて、餞別だ、と金貨や細かい菓子や早速船を降りて買ってきたという防寒具を与えていて、「単純すぎるだろい」とマルコは溜息を吐く。いよいよ船を降りるという段になって、甲板に座を構えていた親父が「送ってやれ、マルコ」と振るので、最初を作ったマルコはたいした反論もなく頷いて、細々としたニコ・ロビンの荷物を纏めてやった。「ありがとう」と、最初よりずっと簡単に礼を口にしたニコ・ロビンは、「元気でな、寂しくなるな」と眉を下げたサッチに「たくさんごちそうさま、コックさん」と、役割と名前を告げてもサッチをコック扱いし続けている。餌付けが趣味のようなサッチは気を悪くすることも否定することもなく、「また気が向いたら遊びに来いよ」と無茶を言って、ニコ・ロビンを苦笑させた。「そろそろ行くよい」といつまでも続きそうなやり取りを適当に打ち切ったマルコに、「お前は本当に不感症だなあ」とサッチが言うので、「せめて無感動にしろい」とさりげなくニコ・ロビンを遠ざけながらマルコは返す。タラップを降りるマルコとニコ・ロビンを、数百人の隊員が手を振って送った。

送る、と言っても、ニコ・ロビンにはとくに目的や行く宛があるわけでもない。さくさくと薄くつもった雪を踏みしめながら、「本当に良いのかい」とマルコが尋ねると、「いいのよ」とニコ・ロビンは冷静に答えて、「…いいの」と噛みしめるようにもう一度言った。ちらり、と送ったマルコの視線の先で、ニコ・ロビンの顔はどこまでも穏やかである。それでも、『ごめんなさいね』と言った時と同じだけの強さで細い指が握られているものだから、マルコは黙ってその小さな手を取って、無造作に爪が食い込む掌を開いて握りこんだ。びく、と震えたニコ・ロビンに、「お前がそれでいいなら、俺も何も言わねえよい」と目を伏せて告げれば、ぎゅう、とニコ・ロビンの手がマルこの手を握り返す。そして、「ねえ、言ってもいいかしら」と少しばかり早口にニコ・ロビンが尋ねるので、「何でも言えよい」とマルコは答えた。は、と吐いた息が真っ白に凍って、ニコ・ロビンはぱちり、とひとつ瞬く。もう一度、今度はふう、と温度の低い息を吐いて、

「私には母がいるの」

とニコ・ロビンは言った。「そうかい」と返したマルコに「そうなの、とても素敵な母なの」とニコ・ロビンは頷いて、そして「だからもうお父さんはいらないの」と押し出すように告げる。オハラの末路を知るマルコと親父の前で、"娘にならない"ではなく"娘になれない"と、あのときニコ・ロビンは言った。「そうかい」と静かにニコ・ロビンを見降ろしたマルコの目には、泣きだしそうに歪んだニコ・ロビンの顔が映って、でもマルコが瞬くと同時にいつも通りの穏やかな顔に変わってしまう。「でも、誘ってもらえてとても嬉しかった」と囁くように呟いたニコ・ロビンは、やがてマルコの指を振りほどいて足を止めると、「ここでいいわ」と言って、「どこか、お前を乗せる船か引き取る宿を探すまで付き合うよい」と返したマルコを見上げてゆるく首を振った。「ひとりでできるもの」と言うニコ・ロビンの口調から激しい拒絶を汲み取ったマルコは、「まあ無理強いはしねえよい」と引き下がったマルコに、どこかほっとした顔で「私といるところを人に見られない方がいいわ」とニコ・ロビンが言うので、マルコは少しばかり呆れたような目でニコ・ロビンを見降ろして、「それは俺の台詞だよい」と告げる。「お前の懸賞金の倍以上かかってるんだがな、これでも」と、知ってるだろい、と言外ににじませるようにマルコが言えば、「そうだったわね」と努めて穏やかにロビンは答えた。よい、と軽く顎を引いたマルコは、少し考えてからいつかのサッチのようにニコ・ロビンの前に右手を差し出す。ごく自然に右手を差し出し掛けて、慌てて左手でマルコの指先を握ったニコ・ロビンの不自然さには気付かないふりをして、「じゃあな」とマルコが告げると、ニコ・ロビンははじめて言葉に詰まって、「ねえ、」と言いかけて止まるので、「何だよい」とマルコは返した。マルコの指に触れたまま、ニコ・ロビンは僅かに頬を染めて、「両親はいらないのだけれど、私には兄弟がいないの」と言うので、「俺は1600人いるよい」とマルコが誇らしげに告げると、ニコ・ロビンはふ、と息を漏らして、「ええ、だから、娘にはなれないけれど妹にはなりたいと思うの」と一息にニコ・ロビンは言う。予測しなかった言葉に、マルコが大きく目を見開くと、「そんな顔もできるのね」とうっすら笑いながらニコ・ロビンは口元を押さえて、その仕草が幼い顔にとても似合わないというのに、ごく自然だったのでマルコはああそうかい、と大きく頷いた。これが、素なのだろう。無邪気な笑みと言うものがあまりにも不自然なのは、ニコ・ロビンがすでに子供ではないからだった。一瞬で無表情に戻ったマルコが、「じゃあ、1601人目の妹だな」と何の含みもなく返せば、「私には一人目の兄だわ」とニコ・ロビンが呟くので、マルコはゆっくり首を振って、「少なくともサッチは呼ばなくても勝手に兄のつもりでいるだろうよい」とうんざりした口調で告げる。まあ、と目を見張ったニコ・ロビンは、それでも嬉しそうに「そうなの」と頷いて、何の余韻もなくマルコの手を離して、

「さようなら、…不死鳥のお兄さん」

と花のように微笑んだ。
マルコに背を向けて振り返らずに歩くニコ・ロビンの後ろ姿をほんの数秒見送って、ばさり、とマルコは両腕を翼に、足を鉤爪に、長い尾を引きずるように変化して鳥に化生する。鳥の本能で、無理やりにでもニコ・ロビンを連れて帰るのか、それとも行かせてやるべきか、高く舞い上がって羽ばたいたマルコの姿を眩しげに見上げるロビンは、自分もたくさんの腕を咲かせてマルコに手を振った。ばさ、とそこから動くことのできないマルコの背からもニコ・ロビンの手が伸びて、本当にそっとマルコの翼を撫でて、一瞬で消えてしまう。ロビン、と呟くこともできない鳥の姿をしたマルコの前で、走り去るニコ・ロビンの姿は、真っ白な雪の中へ簡単に紛れてしまった。

いずれ散る、咲く花のように。

 ( ロビンは白ひげ海賊団にならない / マルコは24歳くらい / マルコとロビン / ONEPIECE )