※ 敵船で発行したコピー本から採録
サイトには載せないつもりでしたが これを読まないと辻褄が合わない話がいくつかあるので
タイトルは「RD」から。

i f . . .




とある真夏日、甲板で隊員に混じって帆を繕っていたマルコの頭に、こつんと固いものが当たった。なんだ、と思って少し先の地面を眺めれば、そこには封筒が落ちていて、見上げると郵便配達のカモメが羽ばたいている。
「いてえよい」

とマルコが軽くカモメを咎めると、クエ、と翼を上げてカモメが困ったような顔をするので、別に怒ってはいなかったマルコは「いいよい」と手を振って、常備しているパンの切れ端を投げてやった。嘴の先で上手にパンを受け取ったカモメは、ぐるりとマルコの頭上を旋回して、太陽の向こうに消えていく。
カモメを見送ったマルコは、封筒の角が当たったらしい頭を撫でながら、ロープの先に落ちた茶封筒を拾い上げる。カモメの狙いは正確すぎるほど正確だ。どうやって見分けているのかは分からないが、マルコあての手紙は必ずマルコに届けられる。マルコ相手なら言葉も通じるだろうが、他の人間相手はどうするのだろう、と首をひねったマルコは、
『グランドラインモビー・ディック号白ひげ海賊団一番隊隊長マルコ様』
と書かれた表書きをちらりと眺めて、消印がかなり遠い小さな春島のものであることを見てとって、それからくるりと封筒をひっくり返して、差出人の名に軽く眼を見開いた。普段の倍ほど、とはいえ普段があまりにも細いものだからほとんど変わらない形のマルコの目を見て、マルコが驚いていると判断できる人間が、今モビー・ディックには乗っていない。もともと二人しかいなかったのだからなくなるのも簡単で、だからそれはもうマルコにとって当り前のことだった。
差出人の欄には、『ASCE』とだけ書かれている。

ティーチを追うエースが船を後にしてから、既に数カ月が経過していた。マルコの、モビー・ディックでの生活は今日も穏やかで単調だ。誰がいなくなったところで何も変わらないし、ただそれが隊長格、しかも二人も、となればその穴埋めは大変だ、というだけの話である。サッチが死んでも、エースがいなくても、マルコが生きていけなくなるわけではない。事実マルコは今日も、時刻通りに目を覚ましてエースのいない部屋の向かいで服を着替え、サッチのいないサッチの部屋の前の廊下を横切って、エースのいない食堂で朝食を取って、誰にも邪魔をされずに甲板でのんびり備品の整理と修理をしている。サッチとエースのいないマルコの生活は穏やかで単調だ。ただしものすごく淋しい。向かいの部屋から騒々しくやってくるエースや、気がつくと隣にいるサッチや、食堂でフォークを握ったまま突っ伏すエースや、突然雪玉を投げつけてくるサッチや、見張り台の上で背中合わせに座るエースや、宴会だけで包丁を握るサッチがいなければマルコの世界はもう成り立たないのである。エースとサッチがいなくても、マルコが生きていくことはできる。でも、エースやサッチのいない世界でマルコがどうやって笑ったり泣いたりすればいいのかはよく分からないのだった。

物心つく前に商船に乗ったマルコは、18までほとんどひとりで生きているような気がしていた。グランドラインの島々を渡り歩いて、きままに船を変えて、金がある時もあればない時もあり、宿に泊まる時も泊まれない時も、飯の度に酒を飲む時も飯が食えない時も、月ばかり明るい暗い甲板の上でも、朽ちかけたマストの上でも、狭い船倉の中でも、人を殺す時も、銃で撃たれる時も、マルコはマルコであるだけの何物でもなかった。それは一種の願掛け、のようなものであったかもしれない。マルコがマルコでなくなるまでの、猶予のような。
けれども幸か不幸か、白ひげ海賊団に拾われたマルコには、マルコの上に「白ひげ海賊団の」という肩書が加わるばかりで、マルコ以外の何かになることはなかった。数年後に悪魔の実を食べて「不死鳥の」が付き、さらに何年か後に「隊長の」、またさらに時間が経って「一番隊の」が加わって、「白ひげ海賊団一番隊隊長不死鳥の」がマルコを修飾してはいるが、それでもマルコは概ねマルコのままである。ただしマルコのままでも、白ひげ海賊団に籍を置く間に、マルコ以外の大切なものはいくらでも生まれた。当然親父が、次いで乗船するモビー・ディックが、呼吸するような気軽さでサッチが滑り込み、世話する間に隊員が、他の隊長格が、兄のような、弟のような、妹のような新入りが、そして瞬く間にエースが、マルコの心の柔らかい部分にとげのように突き刺さって離れない。大切なものは痛みを伴って、だからそこにいる間も無くなった後も、マルコの心には穴が開いているのだと思う。いてもいなくても。
とはいえ、マルコがひとりで生きていけなくなったというわけではない。出会って別れて生きて死んで、それは全てマルコひとりでしかできないもので、でも白ひげ海賊団にいる間に、ひとりでは生きて行きたくないと思うようになったのだった。だから今淋しくて仕方がないマルコも、いつかはきっとその淋しさを埋める誰かを見つけてその誰かと生きていくようになるのだろう。
それでも今淋しいという思いが消えるわけではない。


マルコは、握りしめていた右手を開いて、軽く皺の寄ってしまった封筒を見つめる。エースが、マルコに。その場で端を切り落とそうとして、少し考えてマルコはくるりと踵を返した。「隊長?」と、一緒に帆を繕っていた隊員が声をかけるので、ちょいちょいと軽く左手を振って「また後で来るよい」とマルコは答える。人気の多い前甲板を抜けて、人通りの多い食堂の前を横切って、日が翳る倉庫前の階段に腰を降ろしたマルコは、そこでようやく封筒の端を薄く削ぎ落した。ナイフの一本や二本は、丸腰のマルコでも持ち歩いている。封筒の中には、その辺の荷物から剥ぎ取ったようなごわごわした紙と、絵葉書が一枚と、それから
「…ヒマワリの種?」
が、四,五粒入っていた。適当に折られた紙を開けば、封筒の表書きと同じ、ほとんど起伏のない文字が綴られていて、それはいつ見てもエースのものとは思えないくらい整っているのだった。


親愛なる 拝啓 前略 マルコへ
元気ですか。俺は今日も元気です。今俺は、夏の春島でこれを書いています。桜の季節は終わっていましたが、他の花がきれいなのでいいかなと思います。宿から広いヒマワリ畑が見えます。分けてもらったので、種を送ります。ここは飯がうまいです。でも今日の午後にはもう島を出るので、これが届く頃には俺も海の上にいます。
マルコとサッチと 親父と皆ともここに来たいです。
また書きます。皆によろしく。
AS CE』

呆れるほど短い手紙だった。マルコの知りたいことは何一つ書かれていない、それはエースそのもののような文章だ。冒頭と、文中の斜線を引いた部分にも目を凝らして、マルコは黙って便箋を元通り折りたたんで封筒にしまう。転がり出たヒマワリの種は良く乾いていて、少し力を込めるだけで簡単に中身を出してしまった。それを無造作に口に運んで、少しばかり油分を含んだ種をかみ砕いて、それからマルコは両手で顔を覆う。

思い出してしまった。


* * *



熱くて湿った風の吹く午後だった。マルコとエースとサッチは、青々と草が茂る畦道をぶらぶら歩いている。ほとんど手ぶらの三人は、しかしそれぞれ大きな空の袋を提げていて、それは帰りのためのものだった。小さな春島に停泊したモビー・ディックで開かれる今夜の宴会のために、島の裏側にある蔵元まで酒を買いに行くところなのである。
朝起きて、船が停泊して、目を覚ましたマルコの前に、にやけた面をさらすサッチとエースがいたものだから、無言で一発ずつ殴りとばしてから「何の用だよい」とマルコは尋ねた。「うん、殴る前に聞こうな」と頭頂部をさすっているサッチとは対照的に。「お使い行こうぜ!」とエースは笑顔で言い放つ。おつかい。…初めての。思わずそんな言葉が頭に浮かぶくらい無邪気な顔をしていたので、ろくに意味も把握せずに頷いてしまったマルコは、後から「酒を買いに行く」という話を聞いてあからさまに顔をしかめてしまった。この島の酒がうまいことは知っているし、親父が随分気に言っていることも分かっているが、何も隊長格が三人で、さらに陸路で買いに行くこともないだろう。そもそも、わざわざ蔵元まで出向かなくとも、港に面した街でだって酒は買えるのだった。
「嫌だよい」
とはっきり言ったマルコに、「さっき『うん』て言っただろ」と言質を取るのがサッチなので、ますますイラッとしたマルコはもう一度サッチを殴ろうとして、「だからすぐ手ェ出すのやめろって」と簡単に止められてしまうので、さらにムカッとしたマルコは容赦なくサッチの膝を蹴り飛ばす。「………足もやめてください」とうずくまるサッチがか細い声で訴えるので、「嫌だよい」と素気無くマルコは答えて、俺は行かねえよい、と言いかけたところでエースの顔を見て止まってしまった。きらきらしているのである。何度も言うがエースの顔の造作は大したことはないし、というか正直なところ、はっきり言って不細工だ。と言えるほど自分の顔が大したものではないことを知っているマルコは口に出さないが、しかしそう思っている。エース自身も特にそのあたりに矜持はないようで、女にもてる・もてないの話では笑い話にしているくらいだ。ただしエースの良いところはそれ以外のすべてに詰まっているので、エースがもてないわけではないのだった。ともかく、だからエースがきらきらして見える、というのはマルコの目に何重ものフィルターが掛かっているからで、今のところそのフィルターの威力はマルコがどんなに目を擦ろうが寝て起きようが顔を洗おうが女と寝ようが解消されることはないので、マルコも仕方なく容認している。そう見えるものは見えるのだから仕方がない。実際がどんなに、…大したことがなくても、今のマルコが「かわいい」と感じるのならそれが真実なのである。
つまるところはその可愛くないけれどもマルコにとっては「かわいい」エースの顔を見て溜息をついたマルコは、エースに一切反論することなく三人で畦道を歩いているのだった。簡単に手のひらを返したマルコに、サッチはまた何か言いかけたが、マルコが手と足を緊張させるだけでさっとエースの横に並んで「さあ行こうぜ」とにこやかに空の袋を担ぎあげている。これがずっと続きゃあいいんだが、と思いながら、青草を踏んで歩くマルコの口数は少ない。何しろ、多少の風があるとしても真夏の炎天下だった。道の両側には青々とした水田が広がって涼しげではあったが、だからといって暑さを感じないわけではない。上半身裸の上に帽子をかぶったエースはともかく、いつもと同じ詰襟に重そうな頭をしたサッチまでが元気なのはどういう了見だよい、と、年齢を理由にしたくないマルコは不機嫌に、少し前を行くふたりを眺めている。エースはなぜかその辺で拾った棒で地面を掻きながら歩いていて、「何だよそれ」と尋ねたサッチに「いい雰囲気の棒だろ」と、答えにならない答えを返していた。サッチを振り仰いだことでちらりと見えた、微塵も暑さを感じさせないエースの額に、それでも汗がにじんでいることを見てとって、マルコは僅かに安堵する。エースは驚くほど健康的で、いつだって騒がしくて、誰とでも賑やかに過ごして、歌って、笑って、眠っているというのに、たまにどうしようもなく生きている気配が薄いことがあるのだ。それはエースが語らないエースの過去が垣間見えた時だったり、命を惜しまない戦い方だったり、ためらいなく海に飛び込める覚悟であったり、マルコの隣で眠っている時だったり、そうした何でもなくない時と何でもない時のどちらでも伺えることなので、マルコは時々くだらないことを考える。口に出してしまうと実現しそうな気がするので誰にも言ってはいないが、サッチが似たようなことを呟いていたので、マルコだけが思っているわけではないようだ。
「エースはいつでも船を降りられるな」
と、いつかサッチは言った。
マルコも、そう思っている。

さて、マルコが茹った頭でろくでもないことを考えているうちに、唐突に畦道は終わって、少しばかり開けた道に差し掛かった。このまま右に折れてまっすぐ行けば蔵元はもうすぐで、やれやれ、と思うマルコはエースとサッチの後を追おうとして、けれども、なぜかエースは歓声を上げて傾斜した道の向こう側へ降りて行った。残されたサッチも、土手を覗きこんで「こりゃすげえな」と呟いているので、マルコもサッチの隣に並んで、ひょい、と落ち込んだ道の端から顔を出す。

底には黄色の洪水が流れていた。

ぱちり、と瞬いたマルコは、流れているように見えるそれが、風に揺れた一面のヒマワリ畑だということに気づいて、ようやく「ああ、」と声を漏らす。駆けだしていったエースの軌跡が細く跡を残していて、かなり遠く、畝の中ほどにエースのテンガロンが覗いていた。決して低くないエースの身長を追い越してなお余りある花は、そのままエースを隠してしまいそうである。何か言いかけて、何も言えなかったマルコの隣で、「あんまり遠くに行くなよ!」とサッチが叫んで、「おー、でもすげえな!」と伸ばしたエースの手がぶんぶん振られていて、見えないとわかっているのにマルコも手を振り返してしまった。
降ろすに降ろせない手をそれでも握ったマルコは、しばらくサッチと二人でヒマワリを掻き分けるエースを見下ろしていたが、やがてサッチは「あいつ楽しそうだな」と言って背負っていた袋を放り出して一気に底まで飛び降りていく。ひょこひょこ動くテンガロンの後を追いかけて、追いついたサッチはエースの頭に手を置いて何事か話しかけた。道端に突っ立ったままのマルコは、ヒマワリの葉と軸が意外と痛いことを知っているので出来れば降りたくないのだが、囁かれたエースがくるりと振りかえって、「マルコも来いよ!」
と手招くので、がりがりと頭を掻くことになった。おそらく何も考えていないだろうエースと、ろくなことを考えていないだろうサッチを思って、どちらに腹を立てていいのかわからなくて大きく息を吐く。エースに呼ばれたとしたら、マルコには「行かない」という選択肢がないのだった。急いでいくか、ゆっくり行くか。サッチの隣に並ぶか、エースの隣に並ぶか。エースの頭に手を置くか、エースのテンガロンをはねのけてしまうか。その程度の分岐しか選べないマルコは、黙って草だらけの土手をがさがさ揺らして、エースとサッチの前までたどり着く。
「俺こんなにヒマワリ見んの初めてだ」
と、ヒマワリの長い首をゆるく折り曲げながらエースが笑うので、「そりゃ良かったな」と返しながら、マルコは何の気なしに枯れかけのヒマワリから種を取って、無造作に殻を割って口に入れた。途端に、「何してんだマルコ!」と、エースがマルコの腕を掴むので、飲み込みかけたヒマワリの種が気管に入ってマルコは少し咽る。えふっ、とエースから顔をそむけて吐きだしたマルコは、必然的にサッチの真正面に立つことになって、「大丈夫か?」と言ったサッチがマルコの顔を覗き込んでいる。「大丈夫だよい」とどうにか呼吸を整えて、「何してんだも何も、ただ食っただけだろい」とエースに向き直った。ちょっと涙目だ。苦しかった。「え」と漏らしたエースは、反射的にサッチを仰いで、サッチが平然とした顔をしているのを見てとってから「種だろ?」と呟いた。「種だよい」
「ヒマワリの種だな」
と、マルコとサッチが別々に頷くので、エースはさらに「生じゃん」と続けて、「生だなあ」と同じく肯定する二人に「え〜〜〜〜?」と抗議している。えー、も何も。
「ヒマワリの種は生でも食えるよい」と言ったマルコは、もう一粒種を割って口に運んだ。絞って油がとれる種子は、少しばかり日向の温度と草の匂いがして、うまいまずいというよりは「ヒマワリの味」としか言いようがない。炒った方がうまいのは確かだが、乾いてさえいれば生で食っても問題はないのだった。「昔、道端の花壇に植わってるのを良く食ったよい」とマルコがふと思い出せば、「そういや俺もなんでか裏通りに生えてたやつ食ったな」と言ったサッチも手を伸ばす。ぱき、と割れた殻を見て、ヒマワリを見て、マルコとサッチの顔を交互に見て、「へえ」とエースがまた漏らすので、「お前カボチャの種は食ってただろい」とマルコは言って、「松の実もアーモンドもカシューナッツもヘーゼルナッツも食ってるよな」とサッチも畳みかけた。「だって食った事ねえし」と言い訳のように口にしたエースは、けれども食い意地が張っているので、「じゃあ止めとくか」と言ったサッチに「俺も食う」と躊躇いの欠片も見せずに言い放って、ごっそり種を引き抜いた。「あ」、と言う顔をするマルコのすぐ横で、サッチも「あー」、と言う顔をしたので、多分同じことを考えたんだろうと思う。
「ん、わりとうまい」
と満足そうに言ったエースが、ごっそり引き抜いた種を瞬く間に食い終えてまた手を伸ばすので、マルコとサッチはエースの手をがっしり掴んで止めた。「何だ?」とエースが首を傾げるので、「それくらいにしとくもんだよい」と、マルコはエースに向かって首を横に振る。「ん?」と顔一面に疑問を浮かべるエースに、「こういうもんは、ちょっと食って後は残しとくんだよ」とサッチも言った。
「でもこんなにたくさんあるぜ」
と、エースが見渡す四方には何百何千とヒマワリが植えられていて、エースの言葉は至極当然に見える。けれどもマルコとサッチは軽く顔を合わせて、一つ頷いて、「それでもだよい」とエースの手を握る。エースの手は固くて油気が少ないが、肌は意外と滑らかで温かい。「コレだって別に、何の理由もなく植えられてるわけじゃねえだろうからな」とサッチも言って、「花をそのまま売るのはこんなに育ったら無理だろうから、種を取って油作るとか、二次加工してんだろうよ」と続けながら手を伸ばして、別の花からもう一粒種を抜いた。片手の指先で割った殻を器用に跳ね飛ばして、エースの口に押し込んでいる。
「こんなもん、いくら食ったってお前の腹は膨れねえだろ」
と笑いながら。少し考えてから、「わかった」と頷くエースの腕から手を離して、マルコは土手を差した。「そろそろ行くよい」と言えば、エースもサッチも案外素直に頷いている。「俺、袋どこやったっけ」とサッチが首をひねっているので、「道端に落ちてるよい」と短くマルコは返して、暖かい土を踏んで背の高いヒマワリを掻き分けて歩く。歩きながら、エースがちらちら枯れかけたヒマワリを見上げるので、「そんなに物欲しそうな目で見るなよい」とマルコが声をかければ、「ていうか、俺が食うんじゃなくて、船に持って帰りたかったなって」とエースが言うので、マルコとサッチはまた顔を見合わせて、それから両側から手を伸ばしてエースの頭をがしがし撫でた。
ヒマワリとヒマワリはかなり近くに植えられていて、その間をすり抜けるように進んでいるマルコとエースとサッチが並んで歩くにはとても窮屈で、だからほとんど密着するような形で、それでも手は離さない。「こんだけ植えてありゃ、一本くらいは土産に持って帰っても平気だろ」と、先ほどまでの発言を溝に捨てるようなことをサッチは言って、「好きな奴抜いてけ」とマルコも促した。「え、いいのか」と戸惑ったような声を出すエースの頭から手を離して背中を押したマルコは、「一番背の高い奴選べよい」と笑う。船の、親父への土産だと言うならそれくらいしなければ釣り合わないだろう。笑ったマルコに向かって、「おう!」とエースも大きく笑顔を零して、それがあんまり咲き誇るヒマワリと良く似ているものだから、マルコはますます吹き出してしまった。マルコとサッチから離れてヒマワリを選んでいるエースの背中に、「あいつの考えることは良くわかんねえ」とサッチがしみじみ呟いて、マルコも同感ではあったが、サッチの声にもマルコの表情にも悪い感情は何一つ浮かんでいないのだった。ヒマワリ畑の中をゆるく風が吹き抜けて、背の高いヒマワリを一斉に揺らしている。酒を入れるためのでかい袋に、頭一つ分はみ出すサイズのヒマワリを引っこ抜いて帰ってきたエースが、「親父喜んでくれるかな」と真面目な顔で尋ねるので、マルコもエースも太鼓判を押してやった。エースはあまり気づいていないが、親父も船の仲間も、もちろんサッチも、皆エースのことを愛しているので、エースが皆のために持ち帰ったものならきっとそれが何であっても好意的に取られることは分かり切っている。たしかでけえ酒の空き瓶が倉庫に転がってたな、と、既に持ち帰った後のことを考えているマルコのことは言うまでもない。

弾みをつけて、傾斜の急な土手を一気に登りきった三人は(マルコは足先を少しだけ不死鳥に変えた。爪があると登りやすいので)、ヒマワリ畑沿いの道をまたのんびりと歩きだす。エースの背負った袋の中でヒマワリがゆらゆら揺れるので、マルコはどうしてもその動きを目で追ってしまう。不愉快なわけではないが、少し、気になる。どうしたものか、とさして悩むこともなく出した答えは、マルコがエースより前を歩く、と言う消極的・かつ効果的なもので、マルコはすたすた歩いて三人の先頭に躍り出た。ほぼ一本道とはいえ、良く考えれば道を知っているのがマルコだけだったので、最初からそうしておけばよかった、と言う考えがちらりとマルコの脳裏をよぎったが、あまり深く物事を考えないのがマルコのポリシーなので、だらだらと歩きながら背後で交わされるサッチとエースの話を聞くともなしに聞いていると、「な、マルコもそう思うよな!」と突然エースが背中に飛びかかるので、マルコは思わず一本背負いを決めそうになった。危ない危ない。どうにか寸前で留めて、エースの腕を掴むだけで済んだマルコが「何の話だよい」と返せば、「コレうまく水に入れたら、種取れるんじゃねえかって、サッチが」と、エースは背中からおろしたヒマワリをマルコに差し出す。「そしたらまた食える、かい」と、エースの食い意地を笑ったマルコに、「違ェよ」と言ったのはサッチで、「それもあるけど、じゃなくて種を植えたら皆で食えるだろ、って」とエースが続けた。種を取って、植える。それは確かに効率的だろうが。
「…どこに」
と、念のために尋ねたマルコに、「後甲板あたりはあんまり使ってねーから貸してくれてもいいよな」とサッチは言って、「あ、見張り台から見ると船室の屋根の上も開いてるな」とエースが返して、「あー日当たりもいいよなあ」と、どうやら屋根の上で話はまとまったらしい。屋根の上でヒマワリが揺れるモビー・ディックを想像して、マルコはふるふると身体を揺らす。ただでさえ、のんびりとした表情をしたあの白鯨に、黄色はとても良く映えるだろう。
ただし、
「それはどんな海賊船だよい」
と、突っ込みを入れることは忘れなかった。親父は嫌がらないかもしれないが、「白ひげ海賊団」という海賊旗が掲げる物の重さをそれなりに理解しているマルコは、あまり和やかな海賊船にしてしまっても困ると思うのだった。それでも、エースとサッチがそれを望むのならばそれでもいいか、と思うマルコが存在することも確かで、だからマルコは頭の片隅で港にヒマワリ栽培の本が売っているかどうかを考えている。矛盾はしていない。
つまるところマルコの優先順位は親父がいて、エースがいて、サッチがいて、モビー・ディックがいて、隊員がいた上でマルコへと続くのである。親父が嫌がらない、エースとサッチが喜ぶ、モビー・ディックに映える、隊員の口に入る、となればマルコの役にも立たない思考などはどこに捨ててしまっても構わないのだった。
だからマルコは、「ダメか」と軽く笑ったエースに「まあ白ひげ海賊団はもともと普通の海賊団じゃねえからな」と肯定とも否定ともつかない言葉を掛けて、またすたすたと一本道を歩きだす。サッチの足音がマルコを追って、僅かに間を開けてエースもそれに倣った。「いいって言ったのか?」とエースがサッチに尋ねる声が聞こえて、「たぶんな」と返すサッチの声が割と深く笑みをたたえていることに気づくマルコは、それだけでそれなりに満足だった。
一本道の付き辺りにある蔵元は、さっき抜けてきた畦道すべての米を使って「サケ」を作っているという。味は知っているが、それでも味見させてもらったマルコとサッチとエースは、つまみと称されて出てきたのが枡に入った一握りのヒマワリの種だったので、軽く笑いをかみ殺した。一升瓶をごろごろと袋に詰め込んで、親父用の特級酒はマルコが腕に抱えて、軽く傾きかけた日の下を船に向かってまたのんびりと進む。荷物が増えたので、エースのヒマワリはエースの腕に避難させられていた。エースの手つきがまるで腫れものに触るようなので、「そこまでしなくてもそう簡単に枯れはしねえよい」と宥めるようにマルコは言った。「そっか?」と返したエースは少しだけ力を抜いて、「花なんて摘まねえから勝手が良くわかんねえ」と、毛の生えた葉に顔を擦られながら軽く笑った。そんなものはマルコも同じだったし、サッチとて変わらないと思うが、マルコは黙って頷くだけにする。エースだけがおかしいのではないということは、誰かが教えるのではなくてエース自身で気づかなければ意味がないのだと思う。吹き抜ける風の温度も少しだけ下がっていて、マルコは僅かに詰めていた息を吐いた。船に戻るまで、後もう少しだった。


* * *


結論から言って、モビー・ディックがヒマワリで埋まることはなかった。帰ってすぐ水につけられたヒマワリからは確かに種が取れたのだが、それからすぐに冬島の気候域に入ってしまったので、種はサッチが引き取って、次の夏まで待つことになったのだ。きゅ、とざらざら種を流し込んだ布袋の口を縛って、「日が当らなくて湿気が少なくて通気のいいところだろ…ここか」と言ったサッチが保管場所に選んだのは、床下の刀剣置き場である。保存方法としては正しいかもしれないが、ごろごろ並ぶ刃物と、ヒマワリの種とがどうしても噛み合わなくて、マルコは何度も首を捻ったものだ。その辺り、こだわりがないのはサッチとエースで、「ここなら安心だよな」と笑うエースに、「任せとけよ」と胸を叩いてサッチが応えたことを覚えている。エースもサッチもマルコも、それを信じて疑わなかった。


それでも三人での次の夏は訪れなかったし、床下収納にはサッチの血がしみ込んでしまって、騒ぎの間に小さな布袋などはどこかへ消えてしまった。むしろ、今の今までマルコは思い出すこともなかったから、探すこともしていない。ここにはサッチがいない。エースがいない。けれどもマルコの中にはサッチとした約束やエースと交わした確信めいた約束がぎっしりと詰まっていて、一つを思い出せばその、他の記憶まで全て蘇ってしまうのだった。
マルコは、封筒を握りしめたままの左手でがしがしと頭を掻く。涙は流れない。サッチが死んだ日に、大粒の涙でサッチの手を濡らしていたエースを思い出して、しかしマルコにはサッチがいない、と言う喪失感を埋めることで手いっぱいで悲しむ余裕がないのだった。ただ、淋しい。サッチが今ここにいないことが淋しいばかりで、もう二度と会えないということがどうしてもうまく理解できない。ともすれば、エースが船にいない理由すら忘れてしまって、サッチがいてくれたら少しは紛れるだろうにと考えたりしている。本末転倒だった。サッチがいたらエースはどこへも行かなかったし、サッチがいないから、エースもここにいないのだ。繰り返し繰り返し、噛んで含めるように言い聞かせてようやくそれを思い出して、でも理解にはまだまだ程遠い。
マルコはゆっくり顔を上げて、握りしめていた左手をゆるゆると開く。マルコの表情は変わらない。悲しくなくても、淋しくても、マルコにはうまくそれを表現できない。だいぶひしゃげてしまった封筒には、まだ一枚ポストカードが残っていて、マルコは震える手でそれをひっくり返した。

視界に飛び込むのはどこまでも深い青い空と、いつか見たヒマワリ畑で、マルコはしばらく目を反らすことができない。マルコは何度も確認したのだ。サッチがいて、エースがいて、マルコがいるその二年足らずの間に、二人の優先順位を何度も考えた。親父はサッチとエースにとっても一番だったから除外して、モビー・ディックを追い越した二人は、だからマルコの一番上にいたのだった。サッチと過ごした10数年と、エースがいた二年足らずと、比べてどちらが楽しかったかと言えばこの二年で、でもそれはサッチがエースより下にいるわけではなくて、マルコがエースとサッチの三人でいる時間を一番大切にしていた、という話なのである。
忘れるつもりなどまるでなかったというのに、いつでも繰り返せると思っていた時間はマルコが思うよりずっと早くマルコの中から消えていく。忘れたくない。失くしたくない。でも、認めたくもない。堂々巡りを繰り返すマルコにとって、エースの手紙はあまりにも、鮮やか過ぎてどうしていいかわからなかった。
エースと二人だったら、サッチがいない理由を把握できたかもしれない。でもどちらもいない今となっては、マルコがサッチの喪失だけを受け入れることはできなくて、だからたぶんマルコは、サッチもそのうちひょっこり顔を出すような、気がしている。下手をすればエースと二人で帰ってくるような、いっそティーチも連れて三人で帰ってくるような、そんな馬鹿みたいな夢を描いている。
血を流しきった真っ青なサッチの顔も、冷たい指も、マルコが閉じた真っ暗な目の色も、ありありと思いだせるというのに。
マルコは、皺になってしまった封筒を良く伸ばして、ポストカードと便箋を元に戻して、少し考えてからヒマワリの種もざらざらと開けてしまう。一人で植える予定はないが、エースがわざわざ「分けてもらった」というのなら、エースも覚えているか、思い出したのだろう。ただ、食べてしまうのは忍びなかった。封筒を尻ポケットにしまって、低い階段から立ちあがったマルコはぐう、と大きく伸びをする。マルコがここに座っていた時間は30分にも満たないだろう。
マルコの時間は今日も穏やかに、そしてじりじりと過ぎていく。いくらあっても足りなかった日々が嘘のように、変わらないと思っていた日々がどれだけめまぐるしく移り変わっていたかを思い知らされるかのように、一日がとても長い。

早く帰ってこい、と、マルコは呟いた。エースに、サッチに、そして三人でいたころのマルコ自身に。けれどもそれが誰にも届かないことを、呟いたマルコが一番良く理解していた。

淋しいだけのマルコも、それはとても悲しかった。


(マルコの行間を埋める話 / マルコとエースと、サッチ/ ONEPIECE )