き り の な か で  / あ ら し の よ る に 4


マルコの日常はいつだって単調で、同じだけの彩光に照らされている。30年ほど前に生まれた島を離れた時も、20年ほど前に親父に拾われてからも、10数年前に悪魔の実を食ってからも、サッチを愛していた頃も、10年ほど前に隊長になった時も、マルコはマルコでしかなく、それはこれからも変わることなく続いていくのだろうと思っている。思っていた。数カ月前、エースが船に乗り込むまでは。基本的にマルコは、あまり人を嫌いになることがない。すきか、そうでないか。もっと言ってしまえば、とても好きか、何とも思わないかのどちらかである。表には出さないものの、マルコは白ひげ海賊団全員がものすごくすきだったし、その中でも親父とサッチには依存しないのがおかしいと思うほど入れ込んでいて、わりと気持ち悪いな俺は、と、無表情に思っていたりする。その基準は他の海賊団にも海軍にも持ち込まれて、殺したい、と思うほどの相手の事はきっと好きなのだろうとマルコは考えていた。まあひとりそういう意味ではない人間もいるが、と某赤髪に麦わらの海賊を思い浮かべながら、ともかく今はエースの話である。マルコは、エースを気に入っている。それはもう、最初に親父がエースを迎え入れた時から知っていたことで、隊分けの時に1番隊隊長の権限でエースを1番隊に入れたことからも良くわかっていた。けれども、エースがすきか、と聞かれたら、マルコにはうまく応えられない。もちろん嫌いなわけではなく、興味がないわけでもない。だったらすきなのだろう、と何度も反芻して、しかしそれは違うような気がしてならない。エースはと言えば、客観的に見てマルコが好きなのだとマルコは思う。実のところマルコはマルコ自身の自己評価がとても低いので、マルコを好きだと言う人間の事があまり良く理解できないのだが、例に漏れずエースの事も、マルコは今も良く理解できずにいる。周囲から見れば仲が良い、ように見えるらしい。サッチにも、親父にも、ジョズにもビスタにもイゾウにも言われるのだからきっとそうなのだろう。ただし客観的に、というほど主観的に物事を見ていないマルコにもわからないのだから、エースにはきっと届いていない。

サッチに渡された焼き菓子を手にしばらくサッチの部屋の前で佇んでいたマルコは、エースが今見張り台の上で見えもしない島影を睨んでいることを知っている。隊長だからだ。マルコがエースの隊長で、エースがマルコの隊員である限り、ずっとマルコはエースの軌跡を追うことができる、と思った瞬間に、それが束縛だということに気づいたマルコは、似合いもしない感情にすこしばかり溜息を吐く。こんなものは、もう10年も前に終わらせたものだったというのに。ただマルコはサッチの厚意を無碍にすることだけは死んでもできないので、仕方がない、という体を装って、それでもいそいそと甲板に向かう。マルコはエースと話をしたかった。誤解を、解くと言うわけでもないが。

がたん、と上げ蓋を起こせば、その周り、つまりメインマストの周囲にいた隊員が僅かに声を上げて飛び退るものだから、「いいよい」と鷹揚にマルコは手を振って、冷たい床板に手をかけて甲板上に身体を引き上げる。見上げた月はマルコの真上で、ちょうど空の頂点に引っかかって、すこしでも手を触れたらぐらりと落ちて来そうな危うい均衡を保っていた。そのままマストを上って見張り台にたどり着いたマルコに、「交代か?」とひょいと縁から顔を出したエースが声をかけて、「まだだよい」と答えたマルコの目に映るのは口を開いたままのエースである。「あ、…ああ、まだ夜明け前ですね」と返したエースが、すくなくともマルコと口を聞きたくないわけではないということが分かってひとまず安心したマルコは、「あがるよい」と一応断ってからエースを乗り越えるように見張り台に滑り込んだ。そろそろと身体を戻して、なぜか正座で座りなおしたエースの膝にぽい、と焼き菓子の包みを放り投げて、「サッチからだよい」と言えば「ありがとうございま、…ありがとう」とぎこちなく返して、それでもいそいそと包みを開くものだから、あいつには勝てねえよい、と何度目かわからない感想を脳内で漏らすマルコは「それはあとでサッチに言え」と告げて、焼き菓子を一枚つまんだエースの顔を眺めている。そして、「で、お前さんは最近俺に何の恨みがあるんだよい」と唐突に尋ねれば、げふっ、とエースの喉の奥で妙な音がして、げふげふがはっぐふっ、とどうも粉っぽい音でむせているものだから、さすがに見かねてマルコはエースの背を摩った。「ど、…どうも」とどうにか落ち着いたらしく顔を上げたエースの口元には焼き菓子の粉が盛大についていて、マルコはふと伸ばし掛けた手の行き場を失くして結局自分の口元を叩いて、「付いてるよい」と指摘する。ごしごしと唇を擦るエースに、「お前、そんなに動揺するほど何考えてるんだよい」と、マルコがいくら考えても分からないことを尋ねると、「大したことは考えてないです」と、動揺した時にでる敬語でエースは言うものだから笑い草だ。そろそろ投げ出したい。それでもエースが傍にやってこないのはあまり気分が良くない、と矛盾したことを考えるマルコは、適当に足を投げ出して、夜風に流れるエースのもつれた髪を見るともなく眺めながら、「俺がお前の隊長就任を喜んでねえって言うのがそんなにショックかい」と尋ねれば、エースはすっと表情を強張らせて、「…喜んでねえって言うか、…反対なんですよね」と答えるので、サッチに聞いていたとはいえ心外なマルコが「別に反対はしてねえよい、親父の判断だ」と返せば、「でもサッチが、…サッチ隊長が」と言い直すエースは、サッチにずいぶん懐いているようでそれもあまり面白くない。そもそもいらない、と言ったマルコには敬語を使い続けて、言及しないサッチには使えるという時点でもう気安い関係だ。どうにかマルコの前では気にしているようだが、ふたりきりではどうなっているかわかったものではない。というわけで大人げも年甲斐もなく、「エースは、俺とサッチとどっちを信じるよい」と面倒くさい女のような台詞を吐いてしまったマルコは、困惑した表情でマルコを見つめ返すエースの姿に気を削がれて、がりがりと頭を掻いた。信じるも何も、何も言わないマルコの何を信じればいいというのだ、とありありと顔に書いてある。エースの。人に好かれないマルコを、珍しくすきになったエースを手放すことはどうにも惜しくて、マルコはエースが抱える包みに手を伸ばして焼き菓子をひとつ摘み、がし、と噛み砕いた。そして、「お前に、隊長にならねえかと言わなかったのは悪かったと思ってる」とぽつりと漏らしたマルコに、「え、」とエースは戸惑うような色を滲ませて、「そもそもお前が隊長になるって話はもっとずっと前から出ていたんだよい」と告げればエースの当惑はさらに顔中に広がっていく。「前って」いつから、と尋ねたいらしいエースに、答えたくないマルコはそれでも顔を背けて「お前が親父を親父と呼んだ日からだよい」と、一番最初からだと返した。そもそもそれなりの人数だったスペード海賊団が全員で乗り込んだ瞬間から、エースの上に立つ資質と能力は誰もが認めていて、だから今までマルコの下にいたことすらほとんど形式的なものだったということをマルコが理解できないわけではない。ただしたくないだけだった。

だから、「それでも隊長は俺が隊長になるのは嬉しくないんですよね?」とエースに尋ねられたマルコは仏頂面で頷いて、「じゃあ俺、ならなくていいです」とあっさり手放したことに少なからず動揺して、「いやだから、もう親父も決めてるしよい、俺もお前が隊長になるのは反対してねえよい」とわけのわからないことを言って、「それなら隊長は何がそんなに気に入らないんですか」とエースに聞かれてぐう、とマルコは口を噤む。それがわかったら苦労はない。なんというか、手塩にかけた娘を嫁に出す気持ちと言うのはこんなものなのかもしれない、と思いはしてもそんなことを口に出せはしない。そもそも手塩にかけていない。エースがひとりで、強かっただけだ。ただ単にマルコの庇護下から抜け出してほしくない、というだけでエースを引き留めるには、マルコの、エースに対する感情があまりにも不明瞭である。ただひとこと、なんでもいいから口に出せたらエースは納得するかもしれない。ただそれが、マルコにはできない。エースにたいして不誠実にふるまうことはできない。エースがマルコを好きな分だけ、マルコがエースに好かれていることを自覚しているだけ、その溝は深まるばかりなのだろう。途方に暮れたようなマルコの前で、エースはぽつんと、「おれはやっぱり、人の上に立つような人間じゃねえのかな」と呟くので、それだけは違うとわかっているマルコは大きく頭を振って、「お前は十分隊長の器だよい」とエースの言葉を否定した。ただそれでどうなるかと言えば、エースの困惑はさらに大きくなり、マルコの矛盾はますます膨らむばかりで、結局やけくそのようにふたりで焼き菓子を口に運ぶ。それなりに美味いことが癪に障って、「まったくあいつはろくでもねえことしかしねえよい」とがりがり焼き菓子を噛み砕きながら、今は眠りに落ちている悪友の顔を思い浮かべながらマルコが悪態を吐けば、「…隊長甘いもの結構食べるんですね」と斜め下からエースが攻撃を仕掛けてきて、そういえばエースの前ではチョコレートもアイスクリームもクッキーも口にしたことのないマルコは、マルコの部屋に作り付けた棚の最上段の左端の本の裏側にキャンディの瓶を常備していることを言おうか言うまいがしばらく悩んだが、口に出したのは「お前が食えるもんは、俺もだいたい食えるよい」と言うことだけだった。おお、と声を上げたエースの顔がわりと嬉しそうだったので、マルコは今度こそ失敗しなかったらしい。エースが隊員でいる限り、マルコはずっとエースを拘束していける。たとえどんな用事があろうと、隊長命令だ、とちらつかせればエースはいつだって飛ぶようにやってきて、そう思うからこそマルコはエースに何も言わないままどこへでも行くエースを眺めていられる。これはやはり父親の心境ではないだろうか、と、マルコが親父にあった年とエースとマルコの年齢差を計算してあー、と寄る年波をひしひしと感じていると、エースは不意に笑みを途切れさせて、「隊長」と言うので、「何だよい」とごくりと口の中の焼き菓子を飲み下してマルコも居住まいを正せば、「俺を隊長に、って話を聞いて俺はすごくうれしかったけど、でもまだ、親父に言ってねえことがあるんだ」と沈痛な面持ちでエースは言った。しばらく、ぎゅうと握りしめられたエースの指の関節が白くなっていく様を眺めていたマルコは、「親父より先に、俺が聞くわけにはいかねえよい」とあっさりエースを切り捨てて、「ただし何を言おうが、親父がお前を認めねえことはねえと思うがな」と続けて立ち上がる。ばらばらと膝から零れる焼き菓子の粉をぱんぱんと掃い落して、「で、お前はどうしたいんだよい」ともはや色を失くしたエースの指から視線を剥がしたマルコに、「誰にも言わねえことだけど、誰かに知っていて欲しくて、その誰かが、…親父だったら嬉しい」とか細い声で言うエースの、それでもその目がまっすぐマルコを射抜くので、「親父も喜ぶだろうよい」とマルコは気安く請け負って、エースの指が僅かに緩む様をまた見ていた。ただ見ていた。


そう長居をしたつもりもなかったのに、いつの間にか月はマルコの上空を滑り落ちて、見張り台の横手から今にも海に沈みそうである。もうすぐ夜明けだった。空が白み始めて日が昇ったら、今日こそエースを引っ張って朝食を取りに行こう、と考えるマルコは、エースの逡巡が何かを正確に把握して、けれども親父がそれを知っていることなどおくびにも出さない。その姿を飄々と捉えるか、それともただ眠そうだと捉えるかによってマルコの評価はかなり変わってくるのだが、幸いにもエースは「飄々」の方でマルコを眺めている筈なので、エースの中のマルコはエースによって守られている。まあそういうわけで、泣いても笑っても、といってもマルコは泣きも笑いもしないだろうが、どうしてもエースは近いうちに白ひげ海賊団の2番隊を背負って立つわけで、ああ寂しいよい、と何の気なしに考えたマルコは、ようやく自分の感情に蹴りがついた様な気がして、「お前が俺の隊からいなくなったら寂しくなるよい」とたいして何も考えずにぽろりと口走ってしまった。マルコが嫌だと言えばそれだけで隊長の座を投げ出せるようなエースに、何も考えずに。「寂しいって、マルコ隊長が?」と呆然としたような口調でエースが呟いた瞬間に自分が何を言ったか気付いたマルコは、「一番隊が、ってことだよい」と無理にこじつけたが、エースの顔色はたいして変わりもせずに、そうですか、と言った声は喜色を孕んでいる。失敗したか、と感じるマルコは、それでもエースが喜んでいるならいいかもしれないと思考を翻して、「お前は俺が寂しければ嬉しいのかい」と人を食ったような笑みでエースを揶揄すると、エースは泡を食ったような態度で「そういう意味じゃないです」と手を振って、その拍子に焼き菓子の包み紙をひっくり返しそうになるので、おっと、と言う風体でマルコが手を伸ばすと、同じく包みを受け止めたエースの掌に触れて、じわりと温かいことに、マルコはなぜか安堵した。エースは何も気づかなかった。

朝食の席で、並んでフォークを咥えたサッチの顔があんまりにやけているものだから、ばしっと添えられていたミニトマトを弾いてサッチの額にぶつけてエースが目を丸くしたことと、だいたい予想していたらしいサッチが跳ねて落ちる前に受け止めたプチトマトをやすやすと受け止めた上でぽいっと自分の口に放り込んだのでマルコがまた苦虫をかみつぶしたようなことをしたことは、もうすでにモビー・ディックの日常でしかなかった。

( ようやく会話した / 意識してタメ口を聞こうとするエース / マルコとエース / ONEPIECE )