※574話以降捏造話 ものすごい捏造 エースが生きていると思っている方は注意 


現 十 夜 / 第 十 夜


月は柔らかく空をめぐり、やがて頂点を少し逸れたあたりで少しばかり雲に覆われてモビー・ディックに影を落とした。すっかり寝入ったマルコの隣で身じろぎもせずに息を整えていたエースは、そっとマルコの手を離してマルコのシーツに覆われたエースのベッドに身を起こす。やけに静かな船内では、マルコの寝息と打ち寄せる波の音しか聞こえなくて、エースはこのままマルコの隣で眠ってしまいたい衝動に駆られた。何も考えずに眠ってしまえばいつもと同じ朝がやってきて、いつかは島にもたどり着くのだろうとエースにも予想はできる。そうしてエースの疑問は朝日に紛れて薄れて、そうして生きていけるのだ。マルコとサッチと、エースとで。サッチの顔を思い浮かべた瞬間、どうしようもなくマルコに触れたくなったエースは、一瞬伸ばし掛けた手をぎゅっと握りこんで、思い立ってマルコが寝る前に脱ぎ捨てたシャツをばさりと羽織る。これでいい。マルコの体温はもう薄れてしまっていたが、そんなものはエースが覚えているもので十分だ。目を閉じていたって思い出せるマルコの、少し笑んだ顔がすきだったエースは、でもいつもの無表情も無表情の様でわかりやすいマルコもすきだったから、全てを覚えておこうと思う。出来る限り。やがて翳っていた月がそろそろと姿を現し始めたことを皮きりに、エースは一度だけマルコを振り返ってゆるく笑い、躊躇わずにベッドから腰を上げた。…ところで、羽織っていたシャツをひかれて、エースは立ったばかりのベッドに座りこむ。「…マルコ?」と、どきどきしながら静かに問いかけたエースの後ろで、マルコは相変わらず半分目を閉じたような眠そうな顔でエースを見上げていて、エースはそっとマルコの手を撫でた。「マルコ」ともう一度名前を呼べば、「どこにいくんだよい」と寝ぼけたようなマルコの声が聞こえて、エースは「どこにも行かねえよ」と返す。途端に、エースを見上げるマルコの視線が胡乱なものに変わるので、「本当だって」とエースは重ねて、シャツの裾を掴むマルコの手をそっと外して握りこんだ。「エース、」と呼ぶマルコの声があんまり柔らかいので、エースはまた少しだけ泣きそうになったし、この柔らかい声から抜け出そうとしている自分が滑稽でしかたなかったが、それでもエースはマルコを愛していたので「嘘じゃねえよ」と言って左手でマルコの瞼を塞ぐ。マルコはエースの掌の下で何度か瞬いたが、エースがマルコの手を離して右手でマルコの裸の背を何度か撫で下ろすうちに、ふう、と大きく息を吐いて目を閉じた。マルコの呼吸が落ち着くまで待ってから、エースはまたそっとマルコから手を離して、じっと安らかな寝顔を見降ろす。すっかり明るくなった月が照らしだすマルコはいつまでも穏やかで、ずっとこのままでいてくれたらいい、とエースは願った。最後に一度だけ身を屈めて口付けたのはエースの、矜持のようなものだった。柔らかい唇を忘れたくなかった。

ぱたん、とエースの部屋の扉を閉じたエースが、数秒エースの部屋の目の前にあるマルコの部屋の扉を眺めて、それから廊下の向こうに視線を送れば、真夜中だというのにサッチの部屋の前にサッチが立っているのが見える。エースが目を覚まして、初めて目に映ったのがサッチで、それからひと月余り、エースが船を出る前と同じだけ同じ時間を過ごして、とてつもなく楽しかったと同時に、底が抜けるくらいの恐怖を感じていたことを思い返っした。それがいったい何なのか、エースはこれから確かめに行くところである。船内は気が狂いそうなほどの静寂に包まれて、エース自身の鼓動すら聞こえそうなほどだ。一歩踏み出したエースの足音がやけに大きく響いて、それでもエースはすたすた歩いて、大した距離でもないサッチの目の前までたどり着く。目を伏せて腕を組むサッチの目の前で、「よう」とエースが手を上げれば、サッチはようやく視線をエースに向けて、「よう、じゃねえだろ」と薄く唇をゆがめて言った。笑い顔ともつかない表情を眺めて、エースがまたゆるく笑えば、サッチはがしがし頭を掻いて「もうやめとけって俺は言っただろうが」とやるせないように呟くので、「仕方ねえだろ」とエースはことさらなんでもないように返して、「いいから中に入れろよ」とサッチが塞ぐように背にしているサッチの部屋の扉を指す。「…だってお前、マルコはどうする気だ」と、抵抗するようにサッチがなおも言い募るので、「マルコじゃなくて、今は俺とお前の話だ」とエースはきっぱり言って、サッチの顔を睨みつけるように捉えた。サッチはそれでもしばらく動こうとはしなかったが、やがてゆっくりと身体を上げて、「お前はそれでいいんだな」と尋ねるので、「もう決めた。…つうか、決まってたことだ」とエースは答えて、サッチが薄く開いた扉の隙間から、まだ血の痕が残るサッチの部屋に滑り込む。…1年経っても、血の痕が残っている。そこここに残る刀傷を懐かしそうに撫でたエースを眺めて、「いつ思い出した」とサッチが言うので、「最初からだ」とエースは短く返して、月明かりの下でずいぶん顔色の悪いサッチをくるりと振り返った。

「だってなんでお前がここにいるんだよ」

と、それこそ言いがかりのようにエースは言って、けれどもエースは冷たくなったサッチの手を取って泣いた日を覚えている。どうして忘れていられたのかわからない、知りたくなどなかったからかもしれないが、それでも、サッチがここにいるという時点で、この世界はもうエースの知る世界ではない。「悪ィか?」といっそ開き直るようにサッチが言って、悪い筈がないエースはぶんぶんと首を横に振った。生きていてくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。けれどもそれはあり得ないのだ。「俺は、俺が何のために戦ったのか思い出した」と、絞り出すように言ったエースは、よろよろ歩いて比較的血の少ない、からっぽのサッチのベッドに腰を下ろす。うまく足が立たない。だって怖い。「お前がいる世界なら、俺に戦う理由なんてなかったのに」と続けたエースに、「俺がいなくなったって、お前が戦う必要なんてなかったんだよ」とあんまりといえばあんまりで、当然と言えば当然のことをサッチが告げるので、「だって悲しかったんだ」と膝を抱えてエースは答える。エースの腕があんまり強張っているので、苦笑したサッチが手を伸ばしてエースの肩を摩って「悪かった」とサッチは言った。悪くない。サッチが悪いわけではない。けれども、ティーチだけの所為にもしたくないエースは、本当はどうして殺されたのだ、とサッチに詰め寄ってしまいたかった。卑怯な手を使われたって、勝って欲しかった。生きて欲しかった。勝つことも生きることもできなかったエースに言えた台詞ではなかったけれど、それでも、サッチが生きていてくれたら。そこまで考えたところで、エースはまたぶんぶんと頭を振って、どうにかサッチの顔を正面から見つめ返す。「この世界は何だ?サッチが作ったのか?」と尋ねたエースに、「まあ、半分くらいはな」とサッチは答えて、「でも本当にどうして気づいたんだ」とエースに問い返すので、エースは薄くガーゼが張られた胸に手を置いて、「だって俺、内臓焼けたのにそこが全然痛くないんだぜ」とぽつりと告げて、サッチが止める間もなくガーゼの縁に手を置いて一気に引き剥がした。「…あーあ、」と言ったサッチの視線を追うようにエースの胸に目をやったエースは、皮膚どころか内臓どころか、そこに何も無いことを認めて大きく息を吐く。エースの傷がエースのものでないように思えたのは、間違いではなかったらしい。「ほらな」と笑ったエースの首を引き寄せるサッチの胸にエースが額を預けると、「その傷はお前も俺も見てねえから、うまく再現できなかった」とサッチは言う。「もう少ししたら、何も無かったようにその穴も消して、ぜんぶきれいにしようと思ってたんだけどな。遅かった」とサッチが笑う声が聞こえて、また悲しくなったエースが「なんでこんなことしたんだよ」と尋ねれば、「寂しかったから」とサッチは答えた。ぎゅう、と胸を引き絞られるような気になったエースが、サッチの胸から顔を上げてふにゃ、と笑えば、サッチはエースの頬を摘んで「そんな顔で笑うなよ」と言って、いいながら「悲しくなるだろ」と笑うサッチの顔だってずいぶん悲しそうである。またエースを引き寄せるサッチの腕はエースが知るかつてのサッチとまるで同じもので、「思い出したくなけりゃ思い出さなくて良かったのに」とやさしく告げる声だって、エースにはなじみ深い。でもこれはもう、エースとサッチだけの世界なのだ。それでも、「ここはなんなんだよ」とまた尋ねたエースに、「ここも、一種の現実だ」と平然とサッチは答えて、否定しようとしたエースの唇を指して「現実だよ」とサッチは繰り返す。「お前さえ望めばいつまでだって続く」と告げるサッチの目があんまり深いので、エースはどうしても口を開くことができない。だって、それじゃあエースが望まなければサッチと、そしてエースはこのまま消えてしまうのだ。エースの部屋で寝息を立てるマルコとも、シャボンディ諸島で仲間と再会したルフィとも、毎日甲板で酒盛りをする愛すべき仲間とも、親父とも、二度と会えない。もう二度と会えない。答えに詰まったエースを見降ろして、「どうして思い出したりしたんだ」と苦しそうにサッチは言って、「お前さえ思い出さなけりゃ、もう何も失わなくて済んだのに」と続けたサッチの言葉に、ようやくエースは息を吹き返す。「何も、ってことはねえだろ」と震える声を絞り出すようにしたエースに、「マルコがいて親父がいて弟がいてお前がいて、俺がいて、それ以上望むものがあるのか?」とサッチが尋ねるので、「ねえよ」と間髪入れずにエースは答えた。それから、じゃあ、と言いかけたサッチを制して、「でも俺はお前を殺されて悲しかった俺のためにティーチを殺しに行った俺の事を忘れたくねえよ」と、少しばかり唇をゆがめて、それでもきっぱりとエースは言う。理由と結果はどうあれ、エースはティーチよりもサッチを選んで、仲間を殺した仲間を殺すために追いかけたのだ。仲間殺しを大罪だと言い切る親父の目の前で、仲間を殺しに行くのだと宣言したエースを、それでも助けに来た白ひげ海賊団を思う。マリンフォードでの邂逅がすでに遠いものに思えて、けれどもエースにとってはあれが最期だったのだ。ぎゅう、と腕を握りこんだエースを見降ろして、サッチはぽつりと「お前、俺の事好きなんだな」と今さらのように言うので、「すきだよ」とエースも吐きだすように言った。すきじゃなかったら、こんなことにはならなかった。どんなに仲間が大事だって、相手がサッチでなければエースも頭を冷やして、せめてひとりで飛び出していくことはなかっただろう。マルコを残してまで。すべて、サッチだったからだ。

もういっそ泣いてしまいたいエースの目からは欠片も涙は零れず、エースは乾いた眼球をことさら大きく見開いてサッチを眺めて、「だからもういい」と言った。エースの背に回るサッチの腕を手探りで付きとめて、やはり微妙な温度で濡れる掌に触れてどうにか笑いを絞り出す。「サッチがいたら、それでもう俺は平気だ。だからもういい」とエースが重ねれば、サッチはエースの言葉には答えずに、「なあ」と濡れた掌でエースの手を握り返しながらサッチはエースに声をかける。「なんだよ」と返したエースに、「お前、俺の最期に俺の手をずっと握ってただろ」とサッチが穏やかに尋ねるというより事実を告げるので、「それは知ってんのか」と、死んでたくせに、と言う言葉を噛み殺してエースが言えば、「それが忘れられなかったから俺の手は濡れてるんだよ」とサッチは笑った。生ぬるい温度だった。エースがさっき飛ばした精液とおなじくらい温い温度の水は、エースの涙だとサッチは言う。「冷たかっただろ」と尋ねたサッチに、「サッチの手ならどんな状態だって握る」とエースが答えて、それから
「…そっか」としみじみ呟いたエースは、「ああ、だからもう一度繋いでみたかった」と静かに告げたサッチの手をもう一度握り直して、「そんなの、これからだってずっとしてやるよ」と、俺たちもう死んでるんだしよ、とことさら明るくエースが肯定すれば、サッチはふ、と笑って、それから突然エースの手を振り払って、「何言ってんだ」と呆れたように返した。

「お前と俺はこれでお別れだよ」

と言ったサッチがあんまり柔らかく笑うので、反応の遅れたエースは数秒たってから「…え?」と尋ねたが、サッチは笑ったままエースの手を引いて、サッチのの部屋からエースを押し出す。「じゃあな、エース…マルコとうまくやれよ?」とサッチが告げるので、何の話かわからないエースが「マルコも死んだのか?」と言えば、サッチはエースの頭をぺしんとひっぱたいて「一応アレは不死鳥だからな」と分かりづらい否定をして、それでも飲み込めないエースの前でサッチはゆるくため息をつく。それから、「お前も死んでるなら、こんな手の込んだことをしなくたってお前一人でマルコのところに化けて出られるし、俺はお前と普通に会えるし」とサッチは告げて、「苦労したんだぜ?お前が死にかけたところにリンクして、そこからどうにかマルコとお前の弟を結びつけて、こんな世界まで作ってよ」と続けて、「まあでもそれは全部俺のためなんだけどな」と結んだサッチは、ぽかんとした顔のエースに「だから、お前は生きてるんだって」と簡単に言った。それはもうあっさりと、言った。エースはぱくぱくと何度か口を震わせて、「だって、…俺内臓焼けて、」と言いかけると、「いやそんなんでお前が死ぬわけねえだろ」とエースの事を化け物のようにサッチが言うので、「いや死ぬだろ」と間髪入れずにエースは返したが、「うるせえな、お前を生かした方法はここでも現実でも同じなんだからそれ以上がたがた言うんじゃねえ」とサッチはばっさりエースを切り捨てる。「なんでそんなこと、サッチが知ってるんだ」とエースが尋ねれば、「マルコの夢を繋いだって言っただろ」とサッチは答えて、うまく状況が掴めないエースに、「だから、ここで起きたことはマルコも知ってるってことだ」夢としてだけどな、と噛んで含めるようにサッチが告げるので、エースはしばらく脳内でイメージを膨らませて、やがて「え、じゃあマルコが俺を愛してるってのは本当なのか」と言った。俺の夢じゃねえのか、と続けたエースを得体のしれないものを見るような眼で眺めて、「まあそれは本当だが、お前本当に知らなかったのか」とサッチは返すので、「サッチは知ってたのかよ」とエースが問い返せば、「いや、俺はお前からもマルコにも話聞いてたしな?」っつうかあんなに分かりやすいのになんで皆気付かねえんだよおかしいだろ、と疲れたようにサッチが言うので、「本当に、本当なのか」と呟いたエースは、急激に恥ずかしくなって片手で顔を覆う。だってそんなこと。でもそうだとしたら、エースはこのまま死んだところでほとんど何の苦もない、と考えたところで、エースははっと我に帰って、胡乱な眼でエースを見降ろすサッチを見返した。「よかったな」と何の含みもない声で言ったサッチの手をがし、と掴んだエースは、「サッチは、」と言いかけたところでサッチの目があんまり優しいので何も言えなくなる。これで終わりなのだと、それだけで分かった。と同時に、エースがとてつもない勘違いをしていたことを後悔する。エースは、この世界をエースがエースの妄執で作ったのだと思っていた。死んだエースが、死に切れずにしがみつくことをサッチが助けてくれたのだと思っていて、だからエースは思い切って世界を手放そうと思ったのだ。何の未練もないと言い切った自分を、ルフィを、マルコを、親父を、なによりサッチをエースから解放するために。けれども死んでいるのがサッチだけなのだとしたら、この世界はエースではなくサッチが作ったことになる。サッチが、エースのために逃げ道を作っていてくれたのだとしたら、エースはエースの居場所をエース自身で叩き壊したのだ。サッチの好意ごと。「そんな、」と零れた声がまるで溺れているようだったので、エースがぱし、と握ったサッチの掌ごとエースの顔に手を当てれば、いつかと同じように溢れた涙がエースの手をぬるく濡らして、「冷てえよ」と苦笑したサッチの顔がうまく見えない。「聞いてねえよ」とそれでもサッチの目を見据えたままエースが言えば、「言ってねえもん」と悪びれもせずにサッチは答えて、エースに掴まれたままの指でエースの涙を拭う。あんまりあっさりした答えに、泣いていることも忘れた腹が立ったエースは、「お前が、…これがサッチの作りたい世界なら、俺の意思なんて捻じ曲げて最後まで夢見させろよ」と理不尽なことを言って、「お前の部屋の中だって綺麗にして、俺の内臓だってイメージして、…何より、俺がティーチを殺しに行ったところからリセットしたら俺は気付かなかったかもしれないのに!!」と叩きつければ、「それじゃ意味ねえだろ」と肩をすくめてサッチは言った。何が、と言いかけたエースは、不意に近づいてくるサッチの顔にうまく対処できず、半開きの唇にサッチの唇が触れて離れた後も泣いたままサッチの顔を睨みつけているので、「もうちょい反応しろよ」とエースの唇を拭いながらサッチは笑う。何に、と返したいエースが、けれどもサッチの行動がいわゆるキスなのだということにようやく気付いて、「…はあ?」と呆れたような声を上げると、「いや別に、俺はお前がそういう意味で好きなわけじゃねえけど」と要らない前置きをして、それから「でもな」と言ってエースの目を塞いだサッチは、

「俺は俺のために泣いたお前ともう一度会いたかったんだよ」

とエースの耳元で囁いた。サッチの声は、やさしくてかなしい色をしている。「…なんだよ」と呟いたエースはまた泣けてきて、サッチの手を染めるようにぼろぼろ涙を落した。エースと同じだった。こんなに楽しい夢はなかったのに、それでも辛い筈の現実に帰りたいと願ったエースと、ただ楽しいだけだった白ひげ海賊団の日常を繰り返すのではなく、いつか薄れて忘れてしまうだろうエースの涙を大事にしてくれたサッチは同じものだった。どうしようもならないことをどうにかしたくて足掻いて、藻掻いている。あんまり悲しくて、「お前なんで死んだんだよ」と言いたくなかったことをぽろりと言ってしまったエースに、「それは俺がティーチと親友だったからだ」とサッチがティーチと同じことを言うので、また泣けてきたエースはずっと鼻を啜ってサッチの掌にぐいぐいと目頭を押し付けた。「俺はお前がすげえ好きだったのに、お前はティーチの方が俺たちより大事だったのかよ」とエースが恨み言を漏らせば、「そういう意味じゃねえよ」とあやすようにサッチは言って、「俺だってお前の事は好きだって」とぐしゃぐしゃエースの頭をかき混ぜるので、「マルコみてえなことすんなよ」とエースはサッチの左手を払いのける。「ああ、そうだな」と言ったサッチの声が不意に遠ざかる気がして、エースがエースの瞼に乗せられたサッチの右手を握ると、「でも最後くらいいいだろ」とサッチは事もなげに告げて、今度は両手でがしがしとエースの頭を撫でた。さっきまでエースより低くても確かに暖かかったはずのサッチの掌がとても冷たくなっていることに気づいたエースは、「サッチ」と声を上げたが、なんだかとても眠くなってそれ以上何も言えなくなる。「お前はいつもそうだな」と苦笑したサッチは、エースの肩を抱くようにエースを支えて、「マルコの隣まで連れてってやるから、もう寝ろよ」と言うので、寝てしまったらおしまいだとわかっているエースはぶんぶんと首を横に振ったが、「お前が決めたことだろ」と諭すようなサッチの声が静かに拒絶の色を孕んでいるので、エースは諦めた。マルコとエースの関係は拮抗していたが、エースはいつだってそのどちらにも勝てなくて、結局どちらかに助けてもらうことしかできなかった。いつか同じ場所に立ちたいと思いながら最後までできなかったエースは、最期の最期までサッチに迷惑をかけている。「…サッチのいねえ船に帰るのか」とぽつりと言ったエースに、サッチは直接答えずにエースの目を塞いで、「俺がいなくてもマルコがいる」とだけ言った。「目が覚めたら忘れずに言えよ」と続けたサッチに、「何を?」とエースが間の抜けたことを言えば、「"愛してる"」とそこだけやけに真剣な声でサッチが答えるので、エースは一瞬息を止めて、「…ああ、」と溜息のように答える。「約束な」と笑うサッチの声はもういつも通りのもので、とても冷たい掌が離れてもエースの視界はもう真っ暗で、静かだった船内にはいつも通りの喧騒が溢れて、きっとエースの部屋ではまだマルコがゆるやかな寝息を立てていて、…でも目を覚ましたエースの世界にはもう、サッチがいないのだ。エースの頬を伝った涙をもう一度だけサッチは拭って、「こんなことを言うのは間違ってるんだろうけどな、俺はお前が泣いてくれて嬉しかったよ」とぽつりと言うものだから、エースは掠れた声で「お前が喜んでくれたなら俺も嬉しいよ」と頷いた。サッチのためにできることは、もうそれしかなかった。それだけしかなかった。急速に遠ざかる意識の向こう側で、無理やり開いたエースの視界に映ったサッチの顔が笑顔だったから、エースもどうにかへらり、と笑うことができた。それでもきっと、歪だった。






力の抜けたエースを抱いたサッチは、しばらく黙って刺青のないエースの背中を見下ろしていたが、やがて冷たい廊下をてくてく歩いてエースの部屋にたどり着いて、扉を開いてマルコの緩やかな寝息が響く室内に入り、ちょうどエースが眠る分だけ場所を開けたマルコの隣に抱えていたエースをそっと降ろす。と、途端に意識のないマルコの手がエースの肩を攫って行くものだから、少しばかり声を殺してサッチは笑った。自覚のないふたりを愛していたサッチは、それでもエースとマルコに幸せになって欲しかったのでこんな茶番を用意して、それでも結局はエースを傷つけてしまった。「エースが自分で目を覚ますまで、夢見せてやろうと思っただけなんだけどな」とエースの部屋を出ながら呟いたサッチの前にはもう何の医療器具も必要ない親父が待っていて、「まあ、それは伝わっただろう」とサッチに手を差し出しながらおおきく笑うものだから、サッチは「だといいけど」と親父の手を取って、「でも目が覚めて親父がいなかったらあいつは泣くだろうなあ」とちらりとエースの部屋を振り返ると、「寿命は寿命だ、仕方ねえ」と言った親父は大きな掌をサッチの頭に乗せる。「俺はエースじゃねえからもう撫でてもらわなくていいんだぜ?」と苦笑したサッチに、「俺にとっちゃあ、お前なんざいつまでたっても13のままだ」と親父はにやりと笑ってサッチが船に乗ったころの事を示唆するものだから、「いつの話をしてんだよ」と赤面しながらサッチは親父の顔から目を反らして、「まあでも、モビーも一緒に行くんだからそれでもいいか」と深い傷を負った船体を撫でると、どこかでひそやかな笑い声が聞こえて、向こうに行ったらモビーとも会話できるのか?とちらりとサッチは思った。やがて、「サッチ」と親父が声をかけるので、「おう、こっちだ」と先に死んだサッチは廊下の先を指差して、親父に手を取られたまま長い長い道のりを進み始める。濡れたままのサッチの右手は、もう二度と乾かないはずだ。エースが生きている限り。サッチがあいしたマルコとエースを乗せた夢は、ゆるやかに夜明けを迎えようとしている。これから続く朝のことはもうエースとマルコしか知らない。最期に、薄く笑ってエースの部屋を振り返ったサッチは、「せいぜいお幸せに」と言い捨ててひらひら手を振った。



長い夢を見ていた。愛しい夢だった。

( エピローグに続く  / (マルコと)エースとサッチ / ONEPIECE )