貴 方 が 貴 方 で あ る 為 に



夕暮れ時の甲板でのことだ。昼干した洗濯物を総出で取り込んでより分ける隊員の脇で、駆り出されたエースは大物にアイロン-というか熱したエースの腕のことだが-をかけている。1〜4番隊隊長と親父のシーツ、親父の部屋と医務室のカーテン、親父のシャツ。洗濯ついでに磨かれた甲板の上で、燃え上がらないエースの熱は空気に拡散してゆるやかに消えていく。あっちい、と呟いたエースの隣で、「変わるか?」と言ったのは、エースが皺を伸ばしたシーツを畳むサッチだった。隊長のくせに気取ることのないサッチは、よく隊員に混ざって家事をこなしている。それはお前も一緒だろ、とサッチは笑うのだが、もう20年近く船に乗るサッチと、1年ちょっとを過ごしただけのエースでは立場が違う。エースが隊長になったのはエースが強いからだが、サッチやマルコや、その他16番隊までの隊長には、強さ以外の要素がいくらも備わっていて、だからエースは戦闘以外で隊長だと言うことをあまり意識していない。2番隊の副隊長はサッチの下にいたティーチで、それこそ数十年あまりモビーディックに乗っていたから、ありがたいことにエースよりずっと上手に隊を仕切ってくれる。呆れたような、突き放すような声でエースを窘めることもなく自由にさせてくれるティーチに、エースは頭が上がらない。その分サッチやマルコには気を引き締めるように言われているが、とちらりと考えるエースの腕は、それでも滑らかに動いて、また一枚シャツを仕上げている。「もう終わるから大丈夫だろ」と言ったエースが最後まで残していたのは、通常の3倍以上にもなる親父のシーツだった。生地自体も熱いそれは、だからかなりの火力で一気に伸ばしてしまう必要があって、エースはすう、と深く息を吸い込む。エースの熱は、エースの感情と切り離して考えることはできないので、炎上させることなく高熱を発するにはかなりの集中力が必要だった。とはいえ、親父の喜ぶ顔を想像するだけで5度ほど体温の上がるエースにとってはさして難しいことでもなく、腕だけでなく全身を使ったエースのアイロン掛けはサッチと、それからいつの間にかやってきていたマルコの拍手で締めくくられた。「あいかわらず芸術的だよい」と、真面目な顔で冗談なのかそうではないのかわからない言葉を吐くマルコは、エースが上から降りるのを待って、親父のシーツをサッチとふたりできれいに畳んでいる。妙なところで不器用なマルコは、しかし洗濯物を畳むことにかけてはかなりのスキルを発揮する。洗濯物だけではなく、紙を畳むときもその端がほとんどずれることはないので、「畳む」という行為が単純に好きなのだろう、と、ぴんと角の立ったシーツを眺めながらエースは考えた。マルコは、好きなこととそうでないことに対する姿勢があからさまに異なっている。そうでないことはそれなりに、人並みからその少し上、くらいで推移する癖に、好きなことに関しては並々ならぬ集中力と成果を上げるのだ。エンドウマメのサヤは剥けないくせに、懐中時計の修理ができるマルコの指先は、エースにとって不可解としか言いようがない。何事もそれなりに、できてしまうエースやサッチのことを「器用貧乏」と笑ったマルコの評価は甘んじて受けるとしても。

戦闘以外では雑用ばかりこなしている1番隊と2番隊と4番隊の隊長は、実のところ船内であまり重用されていない。エースなどは、いるだけでいいはずの隊長に雑用をされても困る、とはっきり言われたことがあるが、3人ともそれはあまり気にしないようにしている。何しろ何もしない航海は退屈でしかたがないのだ。マルコは本を読むし、エースは寝ているし、サッチは料理もするが、それらは全て趣味の範囲内である。悲しいことに働かなければ生きていけない人間とやらであるので、新米の株を奪うように洗濯物を畳んだり、甲板磨きに加わったり、備蓄整理に混ざったりしているのだった。また、それでこそ就寝前の酒もうまくなる、と思っている。それなりに役に立たないこともない3人は、しかしやはり雑用の中では浮いていて、たまに親父にいさめられることもあったが、そんな時は3人でろくでもないことを企んだりするので、それはそれで隊員は頭を抱えるのだった。ともかく、ベッドリネンは今日もきれいに仕上がって、エースは満足そうに頷いた。乾いたシーツの上で眠ることは、エースにとってとても幸せなことだったので。そうこうしている間にシーツは隊員に運ばれて行き、エースは大きく伸びをする。これで1日分の仕事は終わった。ふああ、と欠伸を漏らしたエースと、汚れてもいない膝を掃っているマルコに「飯食いに行こうぜ」とサッチが声をかけて、サッチとエースとマルコは連れだって食堂へ歩いていく。今日の夕飯何かな、と浮足立つエースに、「何だって旨く食うんだろい」と投げやりにマルコは告げて、白ひげ海賊団の厨房に立つ人間の腕を高く買っているエースは「そうだけど」と笑った。どうでもいいことに、どうでもいいように返してもらえるのは幸せなことだ。エースはこの船に乗って、幸せに生きている。

3人での夕食は騒々しく、そしてあっという間に終わってしまって、陽の落ちた甲板でエースは食休みをしていた。ちなみにマルコは部屋に帰り、サッチは風呂に行っている。「食ってすぐ風呂なんてよく入れるな」とむしろ感心して見せたエースに、「本当は飯食う前に入ろうと思ってたんだけどな」とどうとも読み取れる言葉を返して、サッチはひらひら手を振った。「じゃあそうすりゃよかっただろい」と空気を読まない発言をしたマルコは、「じゃあ俺は部屋に戻るよい」とエースの肩を叩いてサッチとは逆方向に歩いていく。残されたエースは少し考えて、甲板に面する中扉を潜って今に至る。散々陽の光を浴びた甲板は陽が落ちてもほかほかと暖かくて、エースは初めに腰を、それから背中を、さらにはごろりと寝返って頬を押し付けて、随分無理な体勢で空を仰いだ。視界には満天の星空が映る。ドーン島で見る星とは少しばかり位置が違うそれらを、でもエースはとてもよく知っていた。毎日がサバイバルだったあの島での生活の中で、エースが知識を得る機会と言うのはほとんど皆無に等しくて、それでも遊びに(エースにとってはそれどころではなかったが)来るたびに何かの本を抱えてきたガープだったり、エースとは育ちの違うサボだったり、何より本物の海賊から生きた話を聞いていたルフィにすら、エースが学ぶことは多かった。粗末な小屋に寝転びながら、世界中の海と星を数えた夜に、「いつか三人でこれを見に行こう」と約束したことは記憶に新しくて、でも「三人で」同じ船に乗る予定もなかったエースとサボとルフィは、想像の中ですらそれぞれの船と仲間を用意していたことを覚えている。あの頃だって今だって、エースが幸せに思うことの質は変わっていなくて、大切な誰かと一緒にいることと、それからいなくなるまでの間を幸せに生きることが一番幸せなのだと信じていた。エースは海の上にいる。ルフィはまだ島にいるだろう。サボだって、海にいる。大きく吹いた風がばさりと帆を膨らませて、僅かに加速した船の上でエースはゆるりと身体を起こした。もうずいぶん消化された夕食を思い返して、弾みをつけて立ち上がったエースは、すたすたと歩いてマルコの部屋を目指す。エースの部屋には何もないので、帰ったら寝るしかないが、マルコの部屋ならきっと、何か面白いものがあるだろう。エースが読みかけた本に、マルコが無造作にブックマークを挟んだことを知っているエースは、エースがいつ訪れてもマルコがエースを邪険にしないだろうということも理解していた。

とんとん、と控えめに(当社比で)ノックした扉の向こうからは、「入ってこい」と名乗りもせずにエースを察したらしいマルコの声が聞こえて、エースは重い扉を軽々と開いてマルコの部屋に滑り込む。マルコはいつものように壁際の棚に椅子を寄せて、膝に乗せた本に目を落としていた。たいして気にしないエースは、マルコのベッドの枕元に置いた本を取り上げて、ぼすっとマルコのベッドにダイブする。洗いたてのシーツに摺り寄ったら、「涎は垂らすなよい」とマルコから厳しい一言が入って、零さねえよ、とは言えないエースは黙ってベッドの上に起き上がって壁に寄りかかる。ぱら、と頁をめくって、あらわれたブックマークが千切った新聞だったので、エースはまた黙ってそれをつまみあげて、ぽいとベッドの上に放った。汚すなよい、と言われるかと思ったが、マルコは本に目を落としたまま、エースを見ていない。別にそれはどうでもいいのだが、最初は気付かなかったエースは、マルコが小さなグラスを口に運んでいるのを見て、本を開いたままベッドの上に置いてベッドを降りてマルコに近づいた。「何飲んでんだ?一口くれよ」と言ったエースをようやく見上げたマルコは、手にしたグラスに目を落として、「あんまりうまくはねえよい」と唇の端で笑いながらエースにグラスを手渡してくれる。グラスに口をつけたエースは、グラスの縁から立ち上った薬湯のような香りにわずかに目を開いて、ごくり、とやはり粉薬を溶かしたような風味の少しばかり甘い酒を飲み下した。「変な顔してるよい」とエースを指したマルコに、「ん、…変わった風味だな」と返して、でも嫌いじゃねえよ、と頷いたエースは、手を出したマルコにグラスを預けながら、棚板の酒瓶に巻かれたラベルを覗きこんだ。"UNICUM"と書かれている。しばらく考えてから、「…ユニーク?」と呟いたエースに、「ウニクム、だよい」とマルコは言って、「ああ、まんまでいいのか」とエースは納得してくるりと酒瓶を廻した。ラベルの裏側には、やはりエースの知らない言葉が並んでいる。「珍しい酒だなあ」と、モビー・ディックに乗ってからそれなりにたくさんの銘柄を目にしてきたエースが嘆息すれば、「俺の故郷の酒だっつって、本島から送ってきたんだよい」とマルコはさらりと言った。マルコの故郷など知らないエースが、「マルコの、…どこの酒だ?」と尋ねれば、「ノースだよい」と簡潔な答えがマルコから返ってくる。へえ、と二つ以上の疑問が氷解して、酒瓶を揺らしながら頷いたエースをちらりと眺めて、「お前は何も尋かねえな」とマルコは言った。今さっき尋ねたばかりのエースには意味がわからなくて、「聞いてるだろ」と、きょとんとした目でエースは返す。酒の名前も、どこの酒かも。けれどもマルコは毛ほども動じないまま、「嘘付け」とエースを切って捨てた。何を言われているのかさっぱり分からなくて、「嘘じゃねえ、尋いてるよ」ともう一度言ったエースに、「尋かねえだろうが、俺たちのことを」と、マルコは言った。エースは何か言おうとして口を開きかけて、でも先にマルコが「それは間違ってねえだろい」と言ってしまったので、結局そのまま口を噤んで、持っていた酒瓶を棚に置く。事実だった。

エースは、自分のことを上手く話すことができない。聞かれたことには答えるし、10から一緒にいたルフィのことや、スペード海賊団の仲間や、仲間とした冒険のことについてはいくらでも語りあかせるが、単純にエースの、生い立ちや半生や生まれ故郷や、そうしたエース個人に纏わる事柄は、語ろうとすればするほど途方に暮れるくらい口が回らなくなってしまう。そもそも、17になるまで生まれ故郷を知らなかったエースに、エースのことを語る資格があるだろうか。望むと望まざるとに関わらず、祖父とエースが呼称するガープは、遠慮も気遣いもない代わりにエースを子供だと真実から遠ざけることもなかったから、故郷の島の名も、父や母の名も、世界でたったふたりに望まれて生まれてきたこともエースは知っていたが、本当の意味でエースが故郷を知ったのはやはり17で島に降りてからのことである。海賊を名乗る前にともかく世界を知りたかったエースは、グランドラインより先にサウスブルーを目指したのだ。イーストブルーの端からレッドラインを横切ってサウスに降りたエースは、だからリバースマウンテンにも、二度目のレッドラインにもたいして心を揺らされることはなかった。もうその上を、エースは歩いたことがある。イーストを進む間はともかく、大陸を横切る間も、サウスに降りてからバテリラに達鳥着くまでにも様々なことがあって、エースはその中でスペード海賊団のコックと船大工を手に入れたのである。思い出したエースは、おかしくなって少し笑う。だって、その時エースはまだただのボートに乗っていたのだ。キッチンもマストもない舟で、拙い船長兼航海士兼戦闘要員と働き場所のないコックと船大工は毎日昼寝ばかりしていた。今となっては懐かしいばかりである。

まあだからつまりエースは、自分が人に話せないことを他人に聞くことがフェアではないと思っている。マルコはエースが育った島を知っているし、ルフィの事もスペード海賊団時代の事も知っているが、エースの血のつながらないジジイのことや、ルフィのもう一人の兄であるサボのことや、エースの出自や生まれ故郷は知らない。エースは話したことがないから、知らないはずだと思う。たとえ何らかの理由で知っていたとしたって、エースが語らないのならそれはマルコにとってただの知識でしかないだろう。エースの言葉で語ったのではない事実は、エースにとって何の意味もない。エースが伝聞をたいして気にかけないのは、そうした理由からである。身一つで生きてきたエースは、生きて行く理由や命を掛ける理由だって身一つで確かめなければ気が済まないのだった。だから、身一つでぶつかった白ひげの親父にこんなに焦がれている。マルコはエースが返した酒瓶からまた少し酒を注いで、一口含んでから、「別に責めてるわけじゃあねえよい」と言った。そんなことは分かっているエースは、軽く頷いて、マルコの手ごとグラスをさらって、ほとんどいっぱいだった酒をぐうっと呷って空にする。それから、「ノースはいいところか?」とエースが尋ねれば、「悪くはねえよい」と薄く笑って、マルコはエースが掴んだままの右手を引いてまたグラスに酒を追加した。「マルコが生まれたところだもんな」とエースも笑って、「俺が生まれたサウスも、結構いいところだったよ」と付け加える。「そうかよい」と澄ました顔で返したマルコが、エースの手ごとグラスを傾けながら本に視線を戻すので、エースもマルコの手をそっと離して、ベッドに戻って開いたままの本を抱え直した。開き癖のついた本は、エースが読んでいた場所から4,5ページほど先に進んでしまっていて、エースはぱらぱらと頁を捲る。今日はこの本を読みながらこのベッドで眠ろう、と、部屋の主であるマルコには何も言わずに決めたエースは、もぞもぞとブーツを脱いで本格的にベッドに身体を預けた。マルコは特に顔を上げず、エースには時折棚板にグラスが触れる音と、紙の摺れる音だけが聞こえる。

エースが読むマルコの棚から勝手に引き出した本の中身は、ノースの古い伝承だった。

(マルコサンジは似てるなあ≠マルコもノース出身だったらいいなあ / エースとマルコ / ONEPIECE )