く も の き れ ま に  / あ ら し の よ る に 3


サッチの朝はいつも穏やかに始まる。激しい嵐の朝でも、ゆるやかな夕凪の海でも、見知らぬ女の隣でも、見知った男の隣であっても、サッチはサッチだった。自分のペースを崩さないのではなく、相手をサッチのペースに引きずり込むことが得意なサッチには理解者も多く、だからサッチが信頼するエースにも、当然マルコにも、自然と悪い噂が立たないようになっている。無茶ばかりするエースと、それを止めないマルコの評価を下げないためにそれなりに努力している自覚のあるサッチは、けれどもそれを好きでやっているので苦だと思ったことは一度もない。エースはもちろん気付いていないし、マルコに至っては気付いた上で無視されているが、サッチにとってはその方が都合がよかった。サッチは、エースやマルコを皆に好いて欲しいのである。それは子供が自分の玩具を人に見せびらかすような、幾分片寄った感情であることをサッチは理解していて、マルコはきっとそれもわかった上でサッチの好きなようにさせているのだ。自分では隠しているつもりのようだが、マルコは年下にそれはそれは甘い。サッチがもう30を超えた、ということを理解できないような顔で、マルコはサッチが何をしてもほとんど許容してしまう。そこまで考えて、何をしても、の最たる行為を思い出してサッチは薄く顔を歪めた。過去はまあ、過去である。ともかく、マルコは年下に甘い。それはそれで良いのだか、時折行き過ぎることもあり、つまるところがマルコはエースに過保護すぎると言う話だった。

エースを隊長にする、というサッチがマルコに伝えた親父の言葉を、他の隊長が誰もマルコに告げようとしなかったのはそういうわけである。どう伝えたところで不機嫌になるだろうマルコを止められるのは同じく甘やかされているサッチしかいない、というわけで貧乏くじを引くサッチは、だからことさら軽い素振りを装って「あいつ隊長になるらしいぜ」とだけマルコに言って、マルコがそれを理解する前にとっとと退散した。しばらく固まっていたマルコが、「誰が」「何になるのか」を、そこらへんの隊員に聞いて回っている姿を物陰から眺めて、サッチはふう、と息を吐く。何も考えていないような顔をしてそれでも一番隊隊長らしくしっかりしていると思われているマルコが、見た目通りあまり何も考えていないことを知っているサッチは、マルコが鈍いことを気づかれないように道化に回ることがある。頭の回転は速いので、きっかけさえあれば一気に核心を突くマルコの、起点になるのはいつもサッチだった。今までは。これからは、変わるかもしれないと思っている。

挙動不審だったマルコが親父との会話でどうにか落ち着いた頃に、今度はエースの様子がおかしくなった。一度も眠らずに食事を終えたり、一度も溺れることなく入浴を終えたり、一度も目を覚ますことなく夜を終えたり、正直な話おかしい方がまともなところに突っ込みを入れたいサッチだったが、しかしそれがエースと言う人間である。ジンベエと互角に渡り合った時点で分かっていたが、エースは強い。強いだけでなく、意外と冷静なその性格も、面倒見のいい気質も、奪うだけでなく護ることに重点を置くその精神も、一船の主だっただけの事はある。だからサッチは、エースがモビー・ディックに乗り込むかなり前から不在だった2番隊隊長の座を、エースに渡すことに何の疑問も抱いていない。むしろ初陣からマルコと一緒に最後に帰ってきたエースを、一介の隊員にしておく方が危ないと、サッチは思う。賭けるものがその身一つ、それではエースは簡単に、どこへでもいってしまう。強くて脆いエースには、エースを繋ぎとめるものが必要だった。それが白ひげ海賊団の2番隊だというのだから、親父も全く、よくわかっている。わからないのはエースとマルコばかりだ。エースは自己評価が低すぎるし、マルコはマルコで、エースを認めている癖にそれはそれで別の話だと言う顔をしている。たぶん寂しいんだろう、と言うことはサッチにもわかっていた。エースが船に乗ってから半年間、エースはマルコにひどく懐いている。マルコが好きだ、と公言してはばからないエースに、マルコが絆されないはずもない。けれども、エースがエースを理解しない限り、マルコにはエースを護ることもできないし、その必要もなかった。ならばいっそ、サッチとマルコのように同じ立場に立ってしまった方が、エースもマルコも楽になるだろう。というわけで、サッチは今日もエースの後を押している。隊長になる、ということ自体はエースも喜んでいたが、マルコが反対している、という部分には顔色を変えていた。フォローしてやらなかったのは、マルコに見せ場を持たせたいからである。悩んだ上で、エースはマルコに話を聞きに行ったらいいのだ。面と向かって尋ねられたら嫌とは言えないだろうマルコの顔を想像して、おかしくなってサッチは軽い笑いを零す。今日もいい天気だった。

だから、それから数日経った夜更けに、マルコがサッチを問い詰めに来た時、寝起きのサッチにはまるで意味がわからなかった。とっくに解決していると思っていたからだ。「お前、エースに何か言っただろい」と、サッチの襟元を掴んで苦々しく言ったマルコの額には深く皺が刻まれていて、「言ったと言えば言ったが」と勢いに押されたサッチが小さく返せば、「やっぱりお前かよい」とマルコはサッチを離して目元に掌を当てている。核心があったわけではないのか。なんだかマルコが凹んでいるようだったから、「どうしたんだよ」とサッチが尋ねれば、「3日前から口聞いてねえよい」とマルコは言った。3日。前の上陸以来、4番隊は昼番で、1番隊は夜番に当たっていたから、合わせようと思わなければ姿を見ることもないマルコとエースに何があったかもわからないサッチが、「そりゃまた、」とサッチは何を言えばいいか分からない。「お前何を言った」と、マルコがサッチを睨むので、「お前がエースの隊長就任に反対してるって話だ」とサッチが答えれば、マルコは軽く眼を開いて、「別に反対はしてねえよい」と言った。嘘吐け、とサッチは思う。普段は何があっても黙って受け入れるだけのマルコが、わざわざ親父に是非を問うただけでもう、マルコにとって受け入れがたいことだと言う事実は目に見えていた。少なくとも、サッチにはわかっている。サッチは皺の寄った襟元を直して、小さく欠伸を漏らしながら、「反対してねえなら、なんでお前が言ってやらなかったんだ」と逆に尋ねた。エースの隊長はサッチではなくマルコで、本来ならば人事についてマルコが告げるべきである。鈍くても良い隊長であるマルコなら、普段はそうしていたはずだ。エースにはそれができない、と言う時点で気付け、と思うサッチには、もうマルコにはその自覚がないのだと言うことが理解出来ている。「…まだ本決まりじゃねえだろい」と言い訳めいた言葉を口にするマルコも、どうやらその矛盾に気づいたようで、乗り上げたサッチのベッドの端で居住まいを正した。無表情ながら、見るからに萎れているマルコがかわいそうになって、サッチは眠かったが相手をしてやることにする。サッチのせいではなくても、サッチが引き金を引いたことではあるし。「なんで口聞いてねえんだ?避けられてるのか?」とサッチが水を向ければ、「避けられてるわけじゃねえが、傍に寄ってこねえんだよい」とマルコは言う。サッチは、マルコとエースの距離感を思い出して、ああ、と頷いた。そもそもエースは一介の隊員で、隊長のマルコやサッチとは居住区域も、生活環境も異なっている。食事の場や入浴時間ですら明確ではなくとも区切られている生活の中で、エースとマルコがよく一緒にいたのは、エースがマルコに会いに来るからだった。仕事の合間に、食事の合間に、寝る前に、雑用を引き受けて、戦闘中に。それらをエースが失くしてしまえば、確かにマルコとエースに会話は生まれないだろう。それってマルコに甲斐性がないってことじゃねえのか、とちらりと思うサッチは、しかしマルコの見方だったので(エースの敵だと言うわけではないが)、「じゃあお前が寄ってけばいいだろ」と至極簡単な解決策を告げる。別に、隊長が隊員に話しかけてはいけないと言う規律があるわけでもない。全ての隊員を平等に、というのは理想だが無理のある話であるし、特別可愛い隊員がいたって悪いこともないだろう。事実前の2番隊隊長は副隊長と結婚退職してるし、と、今は本島にいる元同僚を思い出すサッチの前で、マルコはぽかん、と間抜け面を晒している。「どしたよ」とサッチが声をかけると、「なんて話しかけたら良いんだよい」とマルコは言った。は、とサッチもぽかんとしてしまった。

「普通にすりゃいいだろ」
「いつも向こうから来てたから、今更俺が何を言ったらいいか分からねえよい」
「いやお前、あいつが懐く前は結構自分から構ってただろ」
「昔の事は昔の事だよい」
「…ヘタレだなお前…」
「うるせえよい、元はといえばお前が余計なこと言うからだろうが」
「余計じゃねえよ、俺が言う前からあいつは噂を知ってて、そんで悩んでたんだぞ」

と、流れに任せて本当の事を言ってしまって、サッチはハッと口を押さえる。「悩んでたのかい」と呟いたマルコの顔が僅かに強張っているのを見て、余計なことを言うな、とサッチは一瞬前の自分を窘めた。が、もう遅い。仕方がなく「少しだけな」と答えたサッチに、「なんでお前にわかって、隊長の俺がわかんねえんだよい」とマルコは理不尽なことを言って、慣れているサッチも少しばかり頭が痛かった。お前が鈍いからだろ、とはギリギリの部分で告げないサッチが、「そりゃ俺とエースは信頼関係で結ばれてるからな」と鼻で笑ってやれば、マルコはむすっとした顔で「お前が付きまとってるだけだろい」と返して、半分は正しいのでサッチは眠そうな顔で、「それでも羨ましいだろ」と笑ってやる。べつに、と言ってそっぽを向いたマルコが悔しそうなので、「俺に管巻いて終わりにすると、また俺がエースに言っちまうぞ」とサッチが発破をかけてやったら、「余計な御世話だよい」とマルコは言って、ぎしりとサッチのベッドを軋ませて立ち上がった。その横顔が不機嫌でも凹んでもいないので、どうやら元気は出たらしい、とサッチはゆるく息を吐く。サッチは、サッチに対して甘くても遠慮のないマルコを受け入れているので、真夜中に叩き起こされたところでたいして腹を立てることも気にかけることもないのだった。ついでに、「マルコ」と声をかけたサッチは、振り返ったマルコにサッチの机の下を指して、覗きこんだマルコの目に小包が映ったことを確認してから、「この前の島で、買ったけど食ってねえ菓子」と言う。「これがなんだよい」と言ったマルコに、「エースに持ってってやりゃ話すきっかけになるだろ」とだいぶ掠れた声で答えたサッチは、マルコの返事を待たずにシーツを引き上げた。

明日もきっと、サッチにとっては平和な一日だろう。

( 画策するサッチと踊らされるマルコ / サッチとマルコ / ONEPIECE )