羽 ば た く よ う に 鮮 や か に


蒸し暑い日だった。開け放したエースの部屋の扉と小さな丸窓からは生温かい風が吹き込んで、けれどもそれは霧に変わりそうなほど水気を含んで気持ち悪い事この上ない。ぐったりと身体を投げ出していたベッドの、上に敷いたシーツがじめじめしてきたので、エースは仕方なく上体を起こして壁に寄り掛かった。が、そこからもやはり溶けだしたワックスや樹脂が染み出していて、エースは「ぎゃ」と軽く悲鳴を上げる。座っているだけでも汗がにじみ出るような暑さの中で、エースは深く息を吐いた。それすらも暑い。
エースは夏が好きだし、暑いのも好きだ、と思っていた。海に出るまでは。エースのいた島では、「暑さ」というのは乾いたものだった。肌が切れそうなほど暑くて乾いた空気の中では、日差しさえ避けてしまえばそれなりに快適に過ごせる。夜は夜で、窓の前に木の一本でもあればそよぐ風で揺れる葉音を子守歌代わりに、いくらでも眠れたものだった。けれども海の上は、それだけではない。海域、気候、緯度経度、そんなものでころころ天気が変わる上に、当然のことながら周りがすべて海なので、潮気のある水分がいくらでも立ち上るのだった。暑くなればなるほどそれは顕著に表れて、エースはもういっそ服を着ようか、と思う。上半身裸になっても汗をかくのなら、いっそ乾いた服を着るほうが心地良い。難点はすぐべたべたになるので、洗っても洗っても追いつかないと言うことだろうか。汗に濡れたシーツも洗濯したかったが、今日はエースが洗濯して良い日ではない。モビー・ディックに設えられた濾過装置は有能だったが、300人の生活用水を賄う以上毎日洗濯したりする余裕はないのだった。だからエースは、結局部屋の端から端にロープを吊って、シーツを干すだけで我慢することにしたのだった。薄暗くて湿気の多い部屋でどれだけ効果があるかは分からないが。少なくとも湿ったままベッドにかけておくよりはましだろう、と結論付けて、満足したエースは水を飲みに行くことにした。

ぺたぺたと素足で(ブーツを履く気にはならなかったのだ)廊下を突っ切って、中央に置かれた水入れに手を掛ける、が、水は流れない。ん、と思ったエースが水入れの蓋を開けて覗きこむと、すっかり空になっていた。共有の水入れは、新入りが定期的に補充することになっているが、今日は追いつかなかったらしい。そりゃそうだな、と頷いたエースは、少し考えて自分で水を入れに行くことにした。ここになければ食堂で飲むしかないし、食堂まで行くのなら水入れを持っていったところで大した手間でもないのだった。かなり大きな容器をひょいと抱えたエースは、またぺたぺたと廊下を歩いて、階段を上って、中央廊下の先の上げ蓋を上げて一度甲板に上がって、日差しに目を焼かれて2,3度瞬いた。こんなに暑いのに除湿してくれないなんて理不尽だ、と思うエースは、しかしそれで海が干上がっても困るので、ささくれた甲板を進んで食堂の扉を開けた。食事時を外した食堂はどうやら掃除中だったようで、テーブルの上に椅子が並んでいる。中でモップを掛けていた馴染みのコックに手を上げると、「おう、どうしたエース」とモップを置いて近寄ってくるので、「水飲むのと、あと汲みに来た」とエースは空の水入れを示した。コックは「珍しいな」とひとつ笑って手を差し出すので、「いいよ、自分で」とエースは言ったが、「いいからお前は座っとけよ隊長」とコックは椅子を一つ下ろしてエースの肩を押す。食堂と厨房はコックの領分なので、強く出られないエースはしぶしぶ腰を降ろして、すたすた歩いていくコックの背を眺めた。エースは、この船でとても甘やかされていることを知っている。自分の船を持って、仲間ができた時に「任せる」ことの大切さを知ったことは確かだが、それにしてもエースは、たまに何もしなくてもこの船で生きていけるような気がして、少し怖かった。馴染みのコック、2番隊の隊員、4番隊に所属する元スペード海賊団、サッチ、マルコ、親父。誰も彼もエースの先を行って、だからエースは、時々この船を降りた後のことを考えてしまうのだった。何も持っていなかったのになくしたことだけはあるエースは、けれどもそれに耐える術をあまりよく知らない。何も代わりにはならないし、そのつもりもないが。それでも無くすこともなく手に入れることができるなんて夢みたいだ、と、船に乗ってから1年経った今でも思っているエースは、その時のことを考えずにいることはできない。夢から降りずにいるためには、続ける努力が必要なのだった。だからエースは、すたすたと口いっぱいの水入れと、エースが飲むための水と、ついでにアイスキャンデーも一本くれたコックに、にっこり笑って「ありがとな」と礼を言う。いい奴らばかりのこの船で、エースだっていい奴でいたいのだ。誰もが甘やかしてくれると言うなら、甘やかされるだけの人間になって、そして皆を甘やかしてやりたい。にひ、と笑ったエースに、ふへ、と笑い返したコックは、エースの口にアイスを突っ込んで、右手にコップを持たせて、左手に水入れを下げてくれた。ひらひらと水の入ったコップを揺らして、コックに背を向けたエースの後ろで、コックがエースの座った椅子をさらりと撫でたことを知っていた。

アイスキャンデーを少しずつ器用に舐めながら食堂を出て、上げ蓋を上げられないことに気付いたエースは、少し遠回りして開け放たれた扉を潜って、薄暗い中廊下をぺたぺた歩いて左の階段を下りて、突き当たりで右に折れて元の中廊下に辿りついた。モビー・ディックの中はとても広いが、親父と戦っている間に至るところへ潜りこんだエースに死角はない。今エースがいる、代々二番隊隊長の部屋として使われている部屋は、エースが船に乗り込む随分前に空になっていて(ケッコンタイショク、という話を聞いた)、エースは知らずに一晩潜りこんだこともある。何もない部屋の、それでも敵の真ん中だから扉にベッドを寄せて、夢を見ずにエースは眠った。翌朝、どういうわけかタイミングよく部屋の換気に来たと言うヒヨコ頭-と、当時はマルコの事をそう思っていた-にたたき起こされるまで、エースはとても気持ちがよかったのだった。まあだから、「二番隊隊長になる」と聞かされて、部屋がそこだったときには嬉しかったものだ。マルコ以外には通じない喜びは、でもマルコには伝わっていて、がしがし頭を撫でられたことを覚えている。あれでもそういえばどうしてマルコにはわかったんだ、といまさら首を捻りながら水入れをセットしたエースの耳に、キィ、と扉の軋む音が聞こえて、振り返ったエースの視線の先にはどういうわけかマルコが立っている。

これはまた唐突に、と思いながら「よお」とアイスキャンディーを離して挨拶(?)したエースに、「水」とだけマルコは言って、エースは無造作に右手のコップを渡してやった。ぐう、と一息に半分呷ったマルコは、ぷは、と息を吐いて「なんだこりゃ」とコップを眺めている。「なにが」と尋ねたエースに、

「お前これ、水じゃねえよい」

とマルコがコップを付き返すので、一口飲んでエースも理解した。見た目は水だが、甘くて酸っぱい。「レモン水だ」とエースが頷くと、「知らずに飲んでたのかよい」とマルコは言って、エースのコップには手を付けずに水入れからもう一口水を飲んだ。「そっちは普通なのか?」とエースが尋ねると、「当たり前だろい」とマルコは言って、ふうん、と思うエースは、思うだけでコップの中身をきゅうっと空にした。これはまた後で、食堂に行くときに持っていこう。それから左手のアイスキャンデーをまた咥えると、水を飲み終わったらしいマルコがエースを眺めているので、「食うか?」と半分ほど減ったアイスキャンデーを差し出せば、「欲しけりゃもらってくるからお前が食え」とマルコはエースの手を押し返す。じゃあなんで見てんだ、とは聞かないエースの後ろでまた扉の開く音がして、エースの肩越しに視線を送ったマルコの目が半分座るので、これは、と思ったエースが振り返るより前に「あっちぃなーもー」と言う声とともに、あついサッチがエースの背中に抱きついた。「おう暑いよなあ」と、じっとりしたサッチを背中に貼りつかせたままエースが水を汲んで渡してやれば、「おーまだ冷てェなあ」とサッチは嬉しそうに受け取って、エースの肩に顎を乗せたままゆっくりコップを傾けている。こくこくとサッチの喉が上下する様がありありと伝わって、「くすぐってえよ」とエースは笑った。「悪ィ」とようやく身体を興したサッチは、エースの手に握られたアイスキャンデーを見て「おっ良いもん食ってんな」と目を輝かせるので、「食うか?」と差し出すと嬉しそうに食い付く…と思ったが、なぜかサッチの腕を引いたマルコに止められて、サッチの歯は空しく空を齧る。「何すんだよ」と言うのはサッチの言葉だが、エースも同意見だった。いらねえならやらねえけれど、いるというのにやらねえのはひどい話だ。だから「サッチ、ほら」とエースがサッチの口を追いかけたのは当然で、「やらなくていいよい」とマルコに止められる義理はない。

「なんだよ」

と僅かに尖らせた声でエースはマルコを見上げたが、マルコはエースから視線を剥がして明後日の方を眺めている。サッチの手は掴んだままで、挟まれたサッチはなんだか、困ったような、面白そうな、面倒なような、複雑な顔で「エース」と呼んだ。「うん」と返事をしたエースに、「やっぱ、それいいわ」とサッチは笑って、「エースから水ももらったしな、平気だ」と、だから離せとマルコの腕をタップする。手を離したマルコは、言い訳のように「欲しかったらもらってくるだろうからいいんだよい」と言って、納得はしなかったが、サッチが引いたのでエースもそれ以上は何も言わなかった。「うん」ともう一度頷いたエースの前で、逆にサッチがマルコの腕を引いて小言で何か囁いている。たぶん聞こえないように、という配慮だったのだろうが、性能の良いエースの耳は忠実にそれをさらってしまって、(お前が食えねえからって俺とエースまで巻き込むなよ)という言葉をどう判断すればいいか分からない。マルコはアイスキャンデーが嫌いだっただろうか。エースは考えこもうとしたが、視線の端にいた溶けかけのアイスキャンデーが今にも棒から落ちそうになったので食い付くことに気を取られて、結局それは忘れてしまった。

むぐむぐとアイスキャンデーを食い終わったエースの前で、サッチとマルコはエースを眺めている。ん、と首を傾げれば、「暑いよなあ」とサッチはまた言って、「あんまり暑いから食糧庫に涼みに行くか?」とエースの手を取った。食糧庫はカビや虫が発生したり備蓄物が腐ったりしないように一定の温度に保たれていて、だからとても快適なのだが、しかし当然コック以外は立ち入り禁止区域である。規律は破るためにある!というのは、自由を愛するエースにとってわかりやすい理屈だったが、意味もなく作られているわけではないものを隊長格が破るわけにもいかないだろう。「遠慮しとく」と首を振ったエースに、サッチはあからさまに残念そうな顔をして、「そっかあ」と肩を落とすので、「備蓄庫はだめだろうけど資料室ならいいんじゃねえの」とエースが提案すれば、「ちょうど調べものがあるから俺も行くよい」とマルコが頷いて、「あそこも空調効いてたな」とサッチの顔が明るくなのでエースも嬉しかった。マルコにつられたわけでもないが、エースも記帳が必要な書類があったことを思い出して、「俺、部屋戻ってペンと書類取ってくる」とエースが握られたままの手を上げると、「俺も行く」とサッチが歩き出して、「俺も必要なもんがある」とマルコも歩き出した。もちろんマルコの部屋はエースの向かいだったから、行先はほぼ同じである。資料室はサッチの部屋、つまり逆方向の突き当たりの階段を2階分下りた先で親父の部屋の真下だったから、マルコはともかくサッチにとってはかなり遠回りだ。中廊下は長い。「暑いんだろ?先行ってろよ」とエースが握られた手を揺すると、「いいんだよ」とサッチもエースの手を揺すり返す。なんだか楽しくなってぶんぶん振りまわして歩いていたら、隣のマルコにぼすっと一撃をくらわせてしまって、サッチが固まっている。「あ、ゴメン」とエースが言うと、「静かに歩けよい」とマルコは言って、アイスキャンデーの棒を握ったままのエースの手を取った。「あ」とエースが漏らしたのはアイスキャンデーが少し垂れてべたべたしていたからだが、マルコは特に気にせず歩いていく。

「いいのか?」

とほとんど呟くように言ったエースに、マルコは

「つめたくて良いよい」

と的を得た回答をして、エースもマルコの手を握り返すことになった。相変わらず吹き込む風は生暖かいし、湿気を含んでエースの髪を揺らすことさえなかったが、確実に熱いふたりの手を離すという考えがエースには欠片も浮かばない。部屋の前でマルコの手を離すと、生ぬるい空気がマルコの体温をすぐに掻き消して、反射的に手を握りこんだ瞬間に少しだけ「ああ」、と何かがわかりかけたような気がしたが、それが何なのかは分からなかった。てくてくと開け放されたエースの部屋の扉を潜って、扉の横の机に辿りついたサッチは、エースに尋ねることもなく真ん中の机からペンとインクと必要な書類を探り当てている。「よくわかったなあ」とエースは嘆息して、サッチからそれを受け取ろうとしたが、「いいから、両手開けとけ」とサッチは渡してくれなかった。やがて本と紙を手にしたマルコがマルコの部屋から現れて、当然のようにまたエースの手を握るので、ああこういうことか、と腑に落ちたエースがサッチの顔をちらりと眺めれば、その横顔は穏やかで優しかった。すこし羨ましい、と思うのは、サッチとマルコの付き合いの長さである。エースも早くわかるようになりたいのだ。サッチのことも、マルコのことも、エースのことも。ぎゅう、と決意を込めて両手に力を込めれば、「エース、」「いてえよい」とかけあうように両側から声がかかって、その息の合った様子にやっぱりエースは甘やかされていることを感じるのだった。大事にされるほど価値がないことを理解しているエースには、わずかに照れくさくて、少しだけ居心地が悪い。両側のふたりに熱が伝わってしまいそうっで、エースはそれを暑さのせいにする。資料室までばれなければそれでいい。うまく言葉にできない感情に苛まれながら、顔が赤くなければいい、とエースは思う。

もちろん、とっくに気づかれていることには気づかないふりをした。

( 愛されエースと蒸し暑い昼 / エース(と名もないコック)とマルコとサッチ / ONEPIECE )