漂 う 口 先 の 拙 さ


朝の食堂で、いつも満面の笑みで近寄ってくるエースの姿がいつまでたってもやってこないので、マルコはわずかに首をかしげた。だらだらとすごすマルコと違って、エースの生活はいつだって規則正しい。夜番と昼番できっちり分けられた生活リズムを崩すことなく、起きて食べて寝て、その合間に気ままに昼寝をしたり摘み食いしたりサッチの部屋に入り浸ったり風呂に寒天を張ってみたり、している。だから、エースにとって規則正しい時間に目を覚ましたマルコが、エースと同じ時間に食堂に足を踏み入れれば、エースと食事をとることはほぼ必然だった。それがない、ということはエースがいないのだろうか、と、ぐるりと食堂を見渡して、「…いるじゃねえか」と、マルコはぼそりと呟く。こちらに気づかないのかと思って近づきかけたマルコを、確かに目でとらえたエースは、そそくさと目の前にあったスープ皿を傾けて-スープ?と、マルコの脳の片隅をちらりと違和感がかすめたが-立ち上がった。そのまま、皿を周りの二番隊に預けて、ぱたぱたと食堂から走り去っていく。マルコが入ってきた入り口とは、別の方向へと。

「なんだありゃ」と首を傾げたまま感想を述べたマルコは、そんな日もあるか、と特に気にせず手近なテーブルに腰を下ろした。何げなくエースが座っていた席に目を向けると、スープ皿以外にはほぼ何も皿がなくて、あいつは何を食ってたんだ、とマルコはまた眉間にしわを寄せる。普段だったら何重にも皿が積み重なっているはずのエースの食卓が、あまりにも綺麗なままだった。そのままマルコが視線を周囲の二番隊に移すと、あからさまに身が跳ねて、それこそマルコから逃げるように二番隊は散っていく。「なんだありゃあ」ともう一度呟いて、マルコは朝食のスープに口をつけた。あまり味がしなかった。

次にエースと出会ったのは、薄暗い中廊下だった。何の手伝いなのか、両手いっぱいにロープを抱えたエースは、一見してロープが歩いているようで、書類一枚を手にして歩いていたマルコは思わず笑ってしまう。「半分持つかい」と声をかけたマルコの姿を探して、エースがぐるぐる回るので、マルコはロープを掻き分けてエースと顔を合わせてやった。現れたエースの顔が少しばかりゆがんでいるので、「何かあったかよい?」とマルコが尋ねれば、「なんでもねえ」とエースは言って、「コレも平気だ」とロープの束を掲げて見せる。普段よりずっと口数の少ないエースに、やはり何かあったのか、とマルコは思わなくもないが、平気というなら平気なのだろう。そうでないのなら気付く自信がマルコにはあって、だからマルコは「そうか」と言ってエースの頭をがしがし撫でた。「前は見て歩けよ」とマルコが言えば、こくん、とエースは頷いて、それ以上何のアクションも起さずにガタガタとブーツを鳴らして走り去っていく。エースを見送ったマルコは、書類を持つ手でがりがりと頭を掻いて、エースとは逆方向に歩を進めた。

三度目に見かけたエースは、サッチの部屋の前に立っていた。半分ほど開いた扉の陰で、サッチがエースの顔を引き寄せている。なにしてんだあいつら、と思ったマルコの前で、エースは大きく口を開いて、そして。ちらり、と目を反らしたエースと、(目ェ合ったな)とマルコが思った瞬間、エースはがっつり口を閉じてくるりとマルコに背を向ける。あ?と思ったマルコの声を代弁するように、半分開いた扉からサッチの手が伸びて、がっちりエースを捕まえる。じたばたしているエースと、それからサッチに近づいて、「何してるんだよい」とマルコが声をかければ、サッチが口を開く前に「なんでもねえ!!!」とエースが叫んだ。後ろめたいこともないだろうに、なにがそんなに不満だ、と眉をひそめたマルコが、エースを置いてサッチに向き直ると、サッチはなんだか妙な顔でエースを見ていた。

そういやあ今日になってサッチと会うのはこれがはじめてだな、と思ったマルコは、「何かあったのか」とサッチに問いかけて、「それがさあ」と言いかけたサッチは俯いて身体を揺らしている。瞬間、「いうなよ!!」と振り向きざまに叫んだエースが思い切り顔をしかめるので、「どうしたんだよい」とマルコがサッチに尋ねると、サッチは笑っているのだった。はあ?と思ったマルコがエースを見ると、エースはそれはもう不機嫌な顔でサッチを睨んでいるし、サッチはマルコの方を見向きもせずにエースを見て笑っている。あまり気分の良くないマルコがサッチを問いただせば、「口内炎」とサッチは言った。

「はあ?」とマルコが困惑した声を上げると、「口内炎でうまく喋れないんだとよ!」と、ことさら大きくサッチは笑う。マルコがエースを振りかえると、エースは微妙な顔をしてそっぽを向いていた。まさか本当にそんなことで。「エース」とマルコが声をかけると、エースはゆっくり顔を上げてマルコに向き直る。「本当に口内炎なのか?」と言ったマルコに、エースはこくんと頷いて、そのまま顔を上げなかった。サッチは、目に浮かんだ涙を右手の人差指で拭いながら、「おとといくらいからできてた口内炎が痛くて、つば飲み込むのもつらいんだって、今朝俺んとこ来たんだよな」とエースを指す。「朝、ろくに飯食ってなかったのもそのせいかよい」とマルコが呆れ半分でエースを見下ろすと、「ん、」と歯切れの悪い声でエースは答えた。エースがマルコを呼びに来なかった理由はわからないが、原因はこれで分かった、とマルコは1人で頷く。マルコに知られたくない理由でもあったのだろうか。

「なんでコイツを選んだんだよい」と言うのはマルコの率直な感想だった。笑われるにきまっている。2番隊隊長でロギア系の能力者が、口内炎で苦しんでいるところなんて、サッチにとっては笑い話でしかないだろう。それはもう、腹を抱えるほどに。尋ねたマルコに、「だって、笑うだろ」とエースは言った。"らって、わらうらろ"、に限りなく近い音だったが、エースの精いっぱいの発音だったので、マルコは笑うこともなく浅いため息をついた。誰が、は無意味だろう。サッチに笑われても、マルコには笑われたくなかった、そう言うことだ。とりあえずまだ笑っているサッチの足を踏みつけて笑いを止めさせてから、「俺は笑わねえ」と返す。少なくとも、サッチほど無遠慮に笑いはしない。少し考えればわかるだろうに、それすらできないほど痛かったんだろうか。そもそも、(どうでもいいときはいつでも俺に頼るくせに、なんでこういうときはサッチなんだ)と、言いかけたマルコは、まるで嫉妬しているみたいだな、と思って口を閉じる。サッチがエースの口を覗き込んでいた光景を思い出してみればそれはある意味正解なのだろうが、現時点でマルコがどちらに嫉妬しているか分からない以上、口に出すべきではなかった。マルコはサッチが好きだったし、エースはいとしいのである。「…でも、」と言いかけたエースを制して、マルコはエースの空いた腕を取る。「ここにいても、何も変わんねえだろい」とマルコが言えば、「ん?」とエースはマルコを見て首を捻った。じゃあどこに行くんだ、と言いたげなエースに、「俺の部屋だよい」とマルコは返す。歩き出したマルコに、おとなしく付いて歩くエースの反対側の腕はまだサッチが握ったままで、つまり隊長三人でぞろぞろ列になりながら中央廊下を端まで歩く羽目になった。

マルコがちらりとサッチに視線を送って、「なんでお前まで来るんだよい」と尋ねれば、「保護者は必要だろ?」と片目を閉じながらサッチは返す。挟まれたエースはひとりで不思議そうな顔をしていたが、サッチはマルコがこれから何をするのか分かっているらしい。まあどうでもいいか、と思いながら自室に辿りついたマルコは、扉を開いてエースを中に引き込んで、肩を押してベッドに座らせる。腕を引いていたサッチも弾みでエースの横に腰を降ろすことになって、二人分の体重を受け止めたマルコの固いベッドは、ぎしりと軋むような音を立てた。マルコはさして気にも留めずに壁一面に作りつけられた、マルコの部屋唯一の収納スペースに近づいて、上から二段目の左端から2ブロック目の、細かいものがごちゃごちゃと積み重なる箱に手を突っ込む。何もかも綺麗にはおさめられないマルコは、どうでもいいものをどんどん放り込む場所を3か所くらい作っていて、この箱はその中でも身につけるような、もっと言えば、ピンセットやら湿布やら飲み薬やら包帯やら何やらを集めていた。ごそごそごそ、と4回ほど箱をかき回してようやく目当ての物を探り当てたマルコは、エースの前に膝をついて「口開けろよい」と促す。無口なエースは、マルコの顔とサッチの顔を交互に眺めて、どちらも真面目な表情をしているのを見て取っておずおずと、それでもおおきく口を開いた。みっしり詰まった白い歯と、ぬるりと蠢く赤い舌と。「どの辺だよい」と、これはサッチに尋ねたマルコに、「付け根の…裏側だな、ほら」と差したサッチの指の先で、エースの舌がひくひく動いている。マルコが目を眇めれば、確かにエースの舌の裏側は5mmほど白く丸く表皮がはがれていて、白い内側が覗いていた。「奥歯に当たって痛いんだろうよ」と言ったサッチの言葉に、こくこくとエースは頷いて、「動くなよい」とマルコは静かにたしなめる。ぴたり、と止まったエースは、マルコを見上げて、マルコは、箱から探しだした塗り薬を指にとって、白くむき出しになったエースの口内炎に塗り付けた。ぺたり、と塗りつけて指を引いたマルコが、「一瞬しみるだろうが、そのうち、」と『マシになるよい』言いかけた刹那、エースは口を押さえてマルコのベッドに突っ伏す。「おいエース?」とサッチがエースの肩を揺すると、「…いたい…」という情けない声が聞こえて、マルコとサッチは顔を見合わせて少しばかり笑った。戦闘でどれだけ傷を負おうが、ナイフで手の甲を貫かれようが、海に突き落とされようが平気で笑っているエースが、口内炎ひとつで呻いているのだ。それはあんまりにも人間らしくて、悪魔の実を食って化物じみた力を手に入れたエースを知る白ひげ海賊団にはとてつもなく、愛しい光景だった。

「治ったらなんでも好きなもん食わせてやるよい」と、まだ起き上がらないエースの頭をがしがし撫でて、マルコもベッドに腰を降ろす。だから明日は一緒に飯を食え、とマルコは続けて、隣から伸びてきたサッチにエースの頭を譲る。サッチは何も言わずにエースの頭をぽんぽんと弾ませるように撫でて、またにんまりと笑っている。エースは声を出さなかったが、うずくまった上半身をもぞもぞ丸めて頷いて、だからたぶんこれは肯定したのだろう。エースの舌に塗った薬をエースの手に握らせてやりながら、マルコはようやく今朝のスープの味を思い出した。
口内炎のエースが、それでも飲んだのなら、きっとうまかったのだろうと思う。

( 食べられなくて話せないエース / マルコとエースとサッチ / ONEPIECE )