あ る は れ た ひ に  / あ ら し の よ る に 2


島の岸壁から臨む海は、それはそれは青い色をしていた。
視界のすべてを覆ってなお余りある圧倒的な水量と、振り返れば見渡す限り一面の緑と、空の端でもくもくと沸き上がる入道雲、村にも町にも近づくことを許されていなかったエースにとって、それが世界のすべてだった。エースが会う人間と言えば一緒に暮らしているダダンと、ごくたまに顔を出すジジイと、時々飯を作りに来てくれるマキノだけである。だから、最近できた7歳になる弟は-もうすぐ8歳かもしれない-エースが初めて会うエースより小さい人間だった。年齢も身長も体重も、指の長さも、足の大きさも、何もかも小さな弟は、エースにとって得体の知れない存在でしかない、と、思っていた。けれども、その小さな弟は、エースより余程広い世界を知っていた。育った村のこと、マキノの店のこと、エースが知らない他の子供たちのこと、悪魔の実のこと、いつも遊びに行っていたという村外れの川のこと、島を拠点にしていた、海賊のこと。エースが本でしか知ることのないたくさんのことを、拙い言葉で弟は語る。最初は何の興味もなかった弟に、エースが少しだけ意識を向けるようになったのは、弟の言葉がエースに素直に届いたからだ。

弟は、最初からエースのことをすきだと言って憚らなかった。誰のこともすきではなかったエースが、どれだけそっけなくても、ジャングルの奥で本を読んでいても、食事中に一言も口を開かなくても、弟は隙をついてエースの胸に飛び込み、あるいは隣に寄り添い、とりとめのない話をし続けるのだ。そうして、エースが相手をしなくても楽しそうな弟に、気まぐれで「お前も読むか」と本を差し出した時、弟はびっくりするほど大きな声で「良いのか?!」と叫んだ。弟は、今まで楽しそうだと思っていた弟より、ずっと嬉しそうな顔をしていて、エースは思わず「やっぱりだめだ」と言って本を閉じてしまった。その瞬間、日が陰るように暗くなった弟の表情を見て、エースはようやく、「エースがすきだ」という弟の言葉を理解したのだった。しゅんとした弟に手を差し出して、「本よりいいところに連れてってやる」とエースが言えば、弟はまた驚くほど大きく眼を見開いて、それでも躊躇うことなくエースの手を握る。小さな弟の手はとても熱くて、柔らかくて、握りしめるのが怖いくらいだった。けれども、エースの手を握り返す弟の手は小さくてもとても力強い。ゴム人間だ、と言った弟の言葉を思い出して、少しだけ考えたエースは、弟の手を握る腕とは別の手を伸ばして、弟の頬を摘まんで横に引く。大して力を入れていないと言うのに、腕を引いた分だけ伸びた弟の皮膚に、エースはわずかに目を見開いた。あまり表情を変えないエースは、驚き方もよく知らなかった。「なんらよエース」と、不明瞭な発音で弟が言うので、慌ててエースが頬から指を離すと、ぱちん、と音を立てて戻る皮膚は確かにゴムのようである。「痛くねえのか」と初めて弟に何かを尋ねたエースに、「いたくねえ!」となぜか胸を張って弟は答えた。殴られても蹴られても崖から突き落とされても、という弟は、「でもじいちゃんに殴られんのはいてえ」と渋い顔で俯く。修行、と称してよく殴られているエースも、ジジイの拳の味はよく知っていて、慰める代わりに強く弟の手を握った。とたんに弟の表情が笑顔に変わるので、おもしろいな、とエースはわずかに目を細める。正でも負でも、エースが身内以外の誰かに興味を持つのははじめてだった、と思ったエースは、唐突に「弟」は身内なのだと言うことを思い出した。
「エース?」と言った弟の手をもう一度握りしめて、エースは弟の腕を引いて歩き出す。

エースと弟がたどり着いた場所は、ジャングルを抜けた先の、青い海を臨む岸壁だった。ダダンともジジイとも、もちろん弟と来たこともない、エースの居場所である。エースは何も言わずに、握った弟の手を離して、岸壁の端まで歩み寄ると、無造作に崖の下を差した。素直に近寄ってきた弟は、エースが差す指の先を眺めて、「フーシャ村だ!」と歓声を上げる。エースとルフィが立つ岸壁の下には、民家と砂浜が広がっていた。エースは村の名前を知らなかったが、弟の語る村がきっと、ここなのだろうと言うことを知っていた。なぜなら、エースも見ていたからだ。弟が愛してやまない海賊船を、1年間飽きることなく眺めていた。小さな島だった。海賊船どころか、商船すらもめったに寄りつかない港に、船を付けようとする旗印を最初に見つけたのは、もしかしたらエースかもしれない。風を受けて翻る帆を、緩やかに巻き上げられる錨の綱を、ほとんど黙視できない海賊の姿を、エースは痛いほど目を凝らして、ずっと見ていた。だからきっと、エースは弟のことだって知っていたのだろう。けれどもそれは、同じものを見ていたことを知ったエースが、弟を「弟」と呼んでいることと同じくらい些細なことだった。

弟はきらきらした目でフーシャ村と、その先の砂浜と、さらに先の海原に身を乗り出している。崖から落ちても、と弟は言ったが、落とす気の無いエースは腕を伸ばして、弟の二の腕を掴んだ。と、突然振り返った弟の視線に貫かれたエースは、少しばかり動揺して、「エース!!」と叫んだ弟に「なんだ」と返すのが精いっぱいだった。満面の笑みを浮かべる弟は、エースに応えることなく、岸壁の端からエースの胸に飛びこむ。助走の無い弟の勢いはそれほどなく、それでも弟の体重を真正面から受け止めることになったエースは、弟を支えきれずに地面に倒れ込んだ。同時に、エースの背中にまわされた弟の腕を下に敷いてしまったエースは、慌てて起き上がって弟を引きはがす。「悪い」と言ったエースの言葉に不思議そうな顔をした弟は、「なにがだ?」と一度首を傾げて、しかし、重かっただろ、と言おうとしたエースを待たずに「ありがとなエース!!」と叫んで、もう一度エースに抱きついた。今度は確実に弟を受け止めたエースは、ぎゅう、とエースにまわされた弟の腕がやっぱり良く伸びることを今更思い知った。ありがとう、と言った弟の意図はわからないが、エースがすきだという弟が、エースのすきな場所をすきになったのなら良いと、恐る恐る腕をまわした弟の背中が温かいことを知りながらエースは少しだけ笑う。少なくとも笑ったつもりだった。エースが弟を「ルフィ」と呼ぶようになる頃には、エースの笑顔も随分変わっていたから、それを笑顔と呼ぶのかどうかは分からなくなっていたのだが。


デッキブラシを握るエースは、甲板の縁から臨む海の色があんまり淡いので、一度手を止めてしばらく海を眺めていた。島と同じ色をした海にたどり着いたことはまだない。ただし、どんな海も島に続いていることをエースは知っている。どこへでも行けるエースは、もうどこにもいかないことを選んで、白ひげ海賊団に籍を置いていた。誓うまでもないことを具現化するつもりで、親父と同じ刺青を彫ったのがエースの証拠と言えば証拠である。10歳で知ったエースの世界の狭さと、18歳で知ったエース以外の世界の広さは、正反対のようでほとんど同じものだった。どちらも深い青色をしている。

と、ぼんやり海を眺めていたエースの背中を、後ろからやってきた誰かが思い切り押した。たいして身を乗り出していたわけでもないエースが、手すりを飛び越して海に落ちる可能性はほとんどないのだろうが、それでも能力者の身体には海への恐怖が染み付いていて、だからエースはほとんど全力で手すりにしがみついてしまう。強張った身体が恥ずかしいような、でも無理もないような気持ちがないまぜになったエースは、「あっぶねえな!!!」と叫んで振り返って、にやにや笑うサッチの顔を見て一気に力が抜けた。サッチなら大丈夫だ。エースを笑って突き落とすことくらい平気でやってのけるだろうし、そのあと笑ってエースを引きあげる顔まで鮮明に想像できる。なぜならもうすでに、一度されているからだった。3か月前、エースが1番隊に配置されることが決まった日に、「八つ当たりだ!」と叫びながらエースを海に突き落としたサッチは、間髪入れずに自分も飛び込んでエースの身体を引き寄せて水面を目指す。息苦しさすら感じることの無いエースは、それでも海上の光を目指して泳ぐサッチの顔が「にやにや」でも「にまにま」でもなく「にこにこ」していたことを覚えているので、サッチを責める気にならなかった。エースが抗議する前に、1番隊の隊長、つまりマルコが制裁としか言いようのない攻撃を加えてくれたので、手も口もはさむ暇もなかったと言うのが実情だが。

ともあれ今日は甲板に残っているエースは、そっとハンドレールから離れて、サッチからも距離を置く。「さぼるなよエース」と言ったサッチは、距離を取ったエースに気を止めることもなく、デッキブラシを抱えるエースの肩を抱くようにエースの隣に並んだ。「ちゃんとやってた…ました」と、語尾を訂正したエースは、確かにさっきまで真面目に甲板掃除に勤しんでいたのだ。もうほとんど終わりかけて、気が緩んでいたのは事実だが、さぼりとまで言われるのはエースにとって心外である。顔には出していないつもりだったが、「怒るなよエース」と笑ったサッチは、さらに距離を詰めてエースに顔を近づけた。「で、何してんだ若造」と言ったサッチは、「掃除ですけど」と返したエースを、「掃除中にそんな深刻な顔はしねえだろ」とばっさり切って捨てる。深刻も何も、海と弟のことを考えていただけだとは言えないエースは、「青少年の悩みか?お兄さんに話してみろ?」と、にやにや笑いを深くするサッチに語る言葉がないのだった。「いや別に」というのはエースの本心だったが、サッチは赦してくれないらしい。「ん〜?」と、含みのある声でエースを促したサッチは、「本当に何もないのか」と、少しだけ声に真摯な色を滲ませた。別に何も。特に何も。

でも、無いわけではない。悩みと言うほどでもないが、エースが弟と海と世界の広さについて思い出すきっかけになった話ならある。エースは少しばかり首を捻って、離してくれそうにないサッチともうすぐ終わる甲板掃除と昼食の時間を加味して、離してしまうことにした。「えーと」と切り出したエースに、「なんだよ」と律儀に相槌を打つサッチはやっぱりにやにやしていて、エースは早々に後悔しかけたが、諦めて口を開く。「なんか、…俺を隊長に、ってはなしが…あるとかないとか、聞いて」と、煮え切らない口調のエースを眺めていたサッチが、「は?お前が隊長?」と真顔で返すので、恥ずかしくなったエースは「あっ、やっぱ、ねーよな!悪ィ忘れてくれ!!」とぶんぶん手を振った。めちゃくちゃ恥ずかしい。寝棚で、世間話のように持ちかけられた話にうまく乗り切れなかったエースは、あり得ないとは思いつつやっぱり嬉しかったのだった。自分がそれなりに強いことを知っていたエースは、それでももっと強い奴らがいくらでもいることを理解していて、だからその上で、時代の頂点をかけるこの船で隊長を任されることへの不安や期待やいくらかの誇らしさが、エースに8年前を思い出させた。エースに弟ができると知った時の気持ちに、よく似ていたのである。まあ結局、違うみたいなのだけれど。

「うあーーー…」と、頭を抱えてデッキブラシに突っ伏したエースの横で、サッチが突然噴き出した。エースの凹みっぷりがそんなに楽しかったか、と、赤い顔でサッチを見上げたエースに、「悪いエース、ちょっとからかった、楽しかったから」とサッチは言って、「嘘じゃねえさ」とエースの頭をぽんぽん叩きながら続ける。「何が」と、状況の飲みこめないエースは、デッキブラシに頬をめり込ませたままサッチを見ていた。「親父がお前を隊長にしたがってる、ってことがだ」とさらりと返したサッチは、「お前にももっと早く話すべきだったんだろうけどなあ、そっかそっかそれで悩んでたのか」とにやにや笑いを復活させてエース頭をぐしゃぐしゃとかきまわす。ぽかん、と口を開けたエースは、「何だよそれ、」と言いかけて、ぱしっと開いた口を押さえた。とんでもないことを口走りそうだ。「意外な反応だな」と首を反らしてエースを見下ろしたサッチは、「当然の結果だ!とかって胸張って自慢して回りそうなもんだと思ってたのに」と、揶揄するようでもなくエースに告げる。「…て、親父が言いだしたのか…?」と口を押さえたまま呟いたエースに直接返事はせず、「嬉しいか?」とサッチは尋ねた。エースは頷きもしなかったが、それはもう肯定と同じだった。嬉しいかなんて。嬉しいに決まっている。でも。「サッチ、隊長はそれで、…俺でいいのか」と尋ねたエースに、「お前が斬込隊の隊長なんて、似合いすぎて逆に笑えるぜ」とサッチは返して、「せっかくだから、俺の隊のティーチをつけてやる」と言って本当に笑った。「ティーチを?」と目を見開いたエースは、ティーチが4番隊の3番手だと言うことを知っている。「俺の隊だと上が埋まっててな、今のところ開く予定もねえから、2番隊で副隊長やったらいいだろ」と簡単に言ったサッチは、けれどもそう簡単に仲間を手放すような人間ではないのだ。何しろ、スペード海賊団に属していたエースの仲間全員を、あっさり白ひげ海賊団に引き入れて、そしてあっという間に懐かせてしまった。エースも含めて。そのサッチが。

またデッキブラシに突っ伏したエースを見て、「なんだよ、笑えよエース」とサッチは言う。まだ笑えないエースは、小さな声で「俺そんなに変だったか」とサッチに尋ねて、尋ねられたサッチは、「親父がちょっと心配するくらいはな」と、やっぱりなんでもない声で返すのだった。そこまで思いつめていると思っていなかったエースは、でも随分軽くなった心の正直さにますますデッキブラシに顔を埋めて、まともにサッチの顔を見ることができない。ルフィに会いたかった。ルフィがすきだと言ったエースが、他の誰かにもすかれているところをちゃんと見せてやりたい。自分のことのように喜んでくれるだろうルフィに、エースも同じだけの愛を返したかった。ちょっとだけ落ち着いたエースは顔を上げて、赤くなった頬をごしごし擦って、ようやくサッチの顔をまともに捕える。に、とわずかばかり片頬を上げたエースに、「生意気な顔しやがって」と大きくサッチは笑って、「ちゃんと決まるまであんまり言いふらさねえほうがいいけど、でも俺は触れまわるからな」と矛盾したことを言う。あんまりサッチらしいので、淡い波が弾けるようなサッチの声を聞きながら、エースも大きく破顔する。いつも眠っているけれど、今日は格別良い夢が見られそうな気さえして、エースはデッキブラシを握り直した。まずは甲板掃除の続きだった。

ごしごし、と甲板を磨き始めたエースに、「じゃあしっかりやれよ」と告げたサッチが、「あ」と立ち止まってエースを振りかえり、「ただ、マルコは反対してたな」と言い残すまで、エースは柔らかい笑みを浮かべていた。それきりサッチは、「え」と呟いて手を止めたエースに視線を送ることもなく、すたすたと甲板を歩いて行ってしまう。「え」、ともう一度零したエースの声に、応えてくれる人間は誰もいなかった。

( 動揺するエースとリークするサッチ / エースとサッチ / ONEPIECE )