呼 吸 を 等 し く す る 者 ど も よ / C A S E 3 . エ ー ス と 白 ひ げ


246回目の襲撃だった。夕暮れが迫り、朱色の夕日が水平線を燃えるように染める中、エースは白ひげの船室に向かって歩いていた。途中で何人もの乗組員とすれ違ったが、誰一人としてエースに目を向ける者はいない。毎日、毎朝、毎時間、飽きもせずに白ひげを襲い続けるエースを、誰も止めようとはしないのだった。同じように、いつでもエースを殺せるはずの白ひげが、いつまでもエースに手を下さないのは気まぐれだと言うことがわかっている。だから、と、白ひげの居室の前でエースは大きく息を吸い込んだ。船に乗ってからずっと同じことを繰り返すエースは、だからもうずいぶん長い間白ひげと行動を共にしている。白ひげの居室、良く座を構えている船首、気が向いたときに訪れる隊員たちの居室、一番手前に座る食堂、特別に設えられた浴室まで、エースが踏み込まない部分はない。ぐ、と握りしめた拳が明らかに弱弱しくても、昨日の夜から何も口にしていない(運ばれてきた食事を断ったのははじめてだった。断った瞬間の、いつも同じ眠そうな目の男の歪んだ顔が離れない)胃袋が空腹を訴えていても、それはいっそ禊のようなものだった。わからなくなっているのはエースも同じだった。いつまでも、こんなことを続けているわけにはいかない。白ひげの巨体に見合う、重たい樫と真鍮の扉は、今日も内側に大きく開いて、何物も拒むことはない。これで最後だった。全力で白ひげに勝負を挑み、負けたあとも命をつないだ暁にはこの船を降りるのだ。船も仲間も失くしてしまったが、命を長らえたエースに出来ることは「生きる」というただ一点に集中していて、それでもエースにとってそれは、最上級の行為だった。昔はただ辛いだけだったジジイやダダンが、エースに何を仕込みたかったのか、今では少しだけ理解できる。彼らは、エースがどこででも生きていけるようにしてくれたのだ。ジャングルでも、砂漠でも、ジャングルでも、果てしない海原の上でも。

ありがとう、と唇に乗せるだけで呟いたエースは、弾みをつけて白ひげの部屋に転がり込む。さして驚きもせずにエースを迎え撃った白ひげの、最初の攻撃を辛くも交わしたエースは、エースと交差する白ひげの身体に向かって、最大級の火力で炎を吹き上げた。こともなくかわすだろうと思ったエースの予想を裏切って、炎はあっさり白ひげに纏わりつく。舞い上がった火の粉は瞬く間に白ひげの船室に燃え移り、ごうごうと火柱を上げながら白ひげの寝台に繋がれた機械や、磨きこまれた床や、額の下がる壁や、甲板に続く天井を舐めていく。乾いた上にタールを塗り込んだ船で、火事に見舞われることはすなわち終わりを意味している。エースが燃えることをやめたところで、火種を得た炎が消えることはない。大きく揺らいだ白ひげは微動だにせず、エースを眺めている。「なんで避けねえ」とエースは呟いた。「いつもみてえにあっさり避けて、俺をぶっとばして、誰も何にもなかったみてえに振る舞って、それで終わりになるんじゃねえのかよ!」と叫ぶように言ったエースは、白ひげの視線を振り切って白ひげの寝台に駆け寄り、置かれていたもみ殻の枕を手にする。そして、部屋中に廻った炎を叩き消そうとしたエースの腕を、白ひげの大きな腕が掴んだ。「邪魔すんな!」と白ひげを睨みつけたエースの顔を睥睨して、「燃やしたのはてめえだろう」とと白ひげは言う。「いまさら何を焦る」と続けた白ひげの腕を振り切ろうとして、どうしても振りきれずに、「あんたが燃えるだけじゃなくて船が燃えちまったら、助からねえ奴もいるだろ!」と地団太を踏んでエースは喚いた。はやく。はやくしなければ、手遅れになる。エース一人では、どうにもならなくなる。こんなことをするはずではなかった。エースの炎は、白ひげの片腕でもみ消されるだけのものだったのに。けれども、「それがどうした」と至極冷静に白ひげは言って、エースは即座に顔を上げた。ごうごうと燃え盛る炎の中で、白ひげはエースを捕えて離すこともない。「どうしたじゃねえよ、あんたの、仲間が」と言いかけたエースの言葉を遮って、「そうっだ、俺の仲間で、息子たちだ」と大きく頷いた白ひげは、「だがそれが、てめえに何の関係がある」と言った。大きく眼を見開いたエースは、手にしていたもみ殻の枕をぽとりと落として、ぽかん、と白ひげの顔を見つめる。エースの炎はエースを焦がすこともなく、ただ部屋一面を真っ赤に染めていた。

それはエースの言葉だ。海から引き揚げられるたび、食事を運ばれるたび、風呂に放り込まれるたび、毛布を投げられるたび、「そんな義理がどこにある」と叫び続けたのはエースだった。「仲間だからだ」と返されるたびに「勝手に決めるな」と、拒み続けたエースの言葉をなぞるように、白ひげはエースに問いかける。いつの間にか強く掴まれていた腕はゆるく支えられるだけになっていて、それでもエースはもう振りほどく気力もなかった。気付きたくはなかった。戦い終わった末に「息子になれ」と迎えられたこと、力量の差をありありと示しながら死合ってくれたこと、死なない程度に痛めつけられたこと、そのたびに笑われること、受け入れられること、諌められること、許されること、その全てが、エースの心の一番固い部分に沁みて仕方がなかったことを。そして、かたくなで傲慢で不遜で脆いエースを、戦って笑って受け入れて諌めて赦した、この船の誰も、死なせたくはないのだと言うことに。

やがて白ひげの腕を逆に掴んだエースは、「嫌だよ」と言った。「あんたが何を言いたいのかはわかった、でも俺はだめだ、無理だ、一緒に行けない」と続けたエースに、「何を言ってやがる」と白ひげは深い声で告げる。「もうお前は、立派な俺の息子だ」と言った白ひげは、エースに左腕を掴ませたまま、右手でエースを引き寄せた。船室はどんどん焼けおちて、エースと白ひげの頭上には燃えさかる天井のかけらがばらばらと降り注ぐ。それら全てをもろともせずに受けきった白ひげは、片腕でエースを抱き寄せる。俯いたエースは、なおも「無理だ」と言い募って、「嫌とは言わせねえ」と返した白ひげの胸を押し返した。力の籠らないエースの腕では白ひげから離れることもできず、却って腕ごと抱きこまれる結果になる。抱きしめた腕でエースの肩を叩きながら、「何を怖がる」と尋ねた白ひげに、「だってあんたは、俺のことを知らねえくせに…っ!!」と、噛み締めた唇の隙間から、不明瞭な声でエースは言った。

エースのこと。エースは生まれた時から知っている、エース自身のこと。生まれ故郷、両親、本当の名前。誰にも語らなかった。ジジイに言われるまでもなく、父親がゴール・D・ロジャーだと知った瞬間から、エースの中でそれははっきりと根付いている。誰にも望まれず、誰にも知られず、誰の権利も侵さないように生きるようにと、それはエースがエースに課した義務だった。海賊王ではなく、海の王を冠する白ひげの船に、エースが乗るわけにはいかない。だってエースは、罪に罪を重ねて生まれたのだ。大罪人を父に持ち、大恩ある母親の腹を食い破って生まれたエースが、どうして安寧に身を任せて生きることができるだろうか。今まで誰にも言わなかった。ジジイにも、ダダンにも、ルフィにも、スペード海賊団の仲間にも、誰にも告げなかったエースの声は、エース自身が聞いても滑稽なほど悲痛な色をしている。当たり前だった。生きるために生きるのではなく、ただ死ななかっただけの18年だった。生まれてから今まで、エースは生かされるばかりで、それ以上を求めることも望むことも、願うこともなかった。ルフィと過ごした7年間は確かに輝いていたが、ルフィはエースに「ルフィを生かす」喜びを与えてくれるばかりで、エースは。「ルフィのために生きる」エースを形作ることしかできない。エースのために生きるエースは、いままでずっと存在しなかったのだ。白ひげの広い胸に額を預けて、このまま何もかも話してしまえば、とエースは思う。エースが望むとおりの結果を得られるはずだった。「海賊王の息子」というラベルにかき消されるエースは、大手を振るって白ひげの船をおりるのだ。それで良かった。何も望まないエースは、本当は今それを実行するべきだった。けれども、どうしても声が出ない。何か重くて固いものが胸と喉を押しつぶして、エースの自由を奪い去っている。ぱくぱく、と何度か口を開きかけたエースの背中を、白ひげはゆっくりと撫でて、

「寂しいことを言うんじゃねえ」

と言った。瞬間、エースの目から得体の知れない感情が湧き出して、けれどもエースはずっとそれを知っている。生まれた時から今まで、それと知らずに抱えてきた感情に、白ひげが一言で名をつけてくれた。溢れだしたものは涙、その感情を、「寂しさ」と言う。エースは、物心ついてからと言うもの、人を抱きしめたことはあっても抱きしめられたことはなかった。誰かの体温を感じるたびに、温もり以上に強い何かがこみあげて、拒むことしかできない。与えることはできても、与えられることは出来ないのだと、10を超える頃に理解していたエースは、けれども今、白ひげの腕の中で欠けた感情を埋めている。ぽろぽろと白ひげの胸を濡らしながら、「さみしくてもそれしかねえんだ」と言ったエースに、「そんなことはねえはずだ」と白ひげは断言した。「過去を知ろうが知るまいが、てめえは今ここにいる。それ以上に何が必要だ」と続けた白ひげに、エースは何も言うことができない。なにもいらない。欲を言えば必要とされたかった。エースを、エース自身だと認めた上で、エースの全てを知っても変わることのない感情を注いでくれる環境を、エースは望んでいた。ルフィでも、ジジイでも、ダダンでも埋めることのできなかった何かを、誰かに教えてほしかった。それでも、今目の前にある腕に縋りつかないだけの強さがエースにはない。いつの間にか火の勢いはすっかり衰えて、エースの耳にはかすかに火の粉のはぜる音が聞こえるだけだった。「俺は」とようやく声を絞り出したエースは、「あんたを親父と…呼ぶ資格があるのか」と言った。赦されたかった。たとえ断罪されなくても、赦されなければそれは無いものと同じだった。エース自身が求めることも諦めた18年のエースを、誰かが赦してくれると言うのなら。

「家族に資格がいるか」

と無造作に言った白ひげに、「でも俺はあんたに戦いを仕掛けて、食糧ももらって、仲間も助けてもらって、生かされて、その上船まで、」と並べたエースに向かって、「俺が何の対策もせずにここで生きてると思うか」と白ひげは返した。ぐるりと強引に仰向かされたエースの目に映ったのは、焼けおちた白ひげの居室のまわり全てに張り巡らされる、鉄の壁だった。溶けた窓ガラスの縁で、エースの最後の炎が揺らいで消える。「誰も死なねえし、船も沈まねえ」と言った白ひげの顔を見上げたエースは、「でも」の次に続ける言葉を見つけられない。望むことを、求めて良いのだろうか。震えるエースを支えた白ひげの目は、緩やかな光を湛えたまま瞬いて、そして、「言え、エース」と白ひげは言った。「親父」と、余韻もなく滑り落ちたエースの言葉は、エース自身で止めることもできず、「なんだ」と返した白ひげに応える言葉も沸いてこない。言葉の代わりに溢れたエースの涙を人差指で拭った白ひげは、グララララ、と満足そうに笑って、そうしてひょいとエースを担ぎ上げた。突然揺れた視界に、エースが慌てて白ひげの肩にしがみつくと、「長かったが、晴れててめえも俺の本当の息子だ」と、白ひげもエースを強く抱きなおす。「長ェ反抗期だったな」と笑った親父の声があんまり近くで弾けるので、涙を零したままのエースもつられて、ぎこちない笑みを零した。

遠かった夕日が、海一面を染めるまでの出来事だった。

( エースが親父に陥落した日 / 捏造 / エースと白ひげ / ONEPIECE )