呼 吸 を 等 し く す る 者 ど も よ 2 / C A S E 2 . マ ル コ と 白 ひ げ


嵐の開けた朝だった。叩きつけるような豪雨を乗り切ったモビー・ディックの前には、嘘のように鮮やかな雲ひとつない空が広がっている。からりとした空気の中で、すっかり潮水を被って塩を噴いた甲板を貴重な真水で擦りながら、少しくらいは雲が残っていても良い、とマルコは思う。タオルを敷いた上に麦わら帽子をかぶってもなお拭うたびに滴る汗をついには放置して、マルコはひたすら甲板を磨く作業に集中した。とにかく、船室に戻るためには一刻も早く与えられた持ち場の塩を落としてしまうのが一番だ、と結論付けたマルコの顎から落ちた汗が一粒、灼熱の甲板に落ちで小さな音を立てる。海の上だと言うのに、湿気のかけらもないのが唯一の救いだった。

マルコが白ひげ海賊団に乗ることになったのは、ほとんど弾みのようなものである。まずは有りがちなことだが、マルコの乗っていた商船が船の真ん中で海賊船に襲われた。マルコをはじめとする用心棒は、手当たりしだいに乗り込んでくる海賊どもを斬りはらったり撃ちおとしたり、とにかく『船に乗せないこと』と『燃やされないこと』を遵守することになっている。人には替えが効くが、船には替えがない、と言ったのは、幾つか前に乗った船の持ち主の弁だった。その言葉には賛同しかねるとしても、海の真ん中で船が燃えてしまえば、それはすなわち乗組員の死を意味している。天災ならばともかく、人災で失われることがあってはならない、というのがマルコの考えだった。殺しあいたい海賊は、海賊同士で戦っていれば良いのだ。至極冷静に感じるマルコは、確実に海賊どもの数を減らしていく。が、突然マルコの乗った商船を砲弾が襲った。振り返れば、商船の船べりに船をつけた海賊船とは別に、もう一隻別の海賊船が商船を狙い撃っていた。旗印は同じ髑髏、とすればつまり、この商船は最初から挟撃されていたのだろう。火柱の上がった商船で、船室に隠れていた乗客が飛び出してくれば、あとはもう海賊の独壇場だった。殺戮と破壊、それはもうあっけない程で、ぎりぎりまで斬り進んだマルコもとうとう一発銃弾をくらって、炎を受けて赤く光る海に落ちた。ざぶり、と水に浸かって、どうにか流れてきた空の水樽にしがみついたが、臨界点に達していた商船が爆風を上げて砕け散るのと同時に、マルコも意識を手放した。

次に気がついたとき、マルコは知らない浜辺で水樽の破片を抱えて寝転がっていた。、マルコがゆっくり身体を起こすと、わき腹がじわりと痛んだ。銃弾に撃ち抜かれることなく、掠めるだけで済んだことに感謝して、着ていたシャツを割いて傷を覆う。浜辺に座りこんだまま、マルコはぐるりと辺りを眺めるが、他に人影はない。この岸辺に流れ着いたのはマルコだけのようだった。打ち寄せる波にも、昨日の(沈みかけていた太陽が高く上っているから昨日と指すが、正確にはもっと前なのかもしれない)襲撃の跡は、マルコが抱えていた水樽以外どこにも残されていない。ひとつふたつ、呼吸を整えて立ち上がったマルコは、流れ着いた島を散策することにした。見れば、浜辺のすぐ脇に崖へと続く傾斜がある。あきらかに人の手が加えられていないそれは、かなりの急勾配だったが、座りこんでいても何もならない上に、喉が渇いていたマルコは、気力でがけを登り切った。

と、マルコがやっとの思いで顔を出した地上では、柄の悪い宴会が開かれている。日の高いうちから火を焚いて、酒を飲む姿は明らかに海賊以外の何物でもない。嫌なところに出くわした、とマルコは内心大きく溜息を吐いたが、今更崖を下るわけにもいかなかった。海賊とは言え人間だ。機嫌もいいようだし、話せばわかることもあるだろう。何よりもう腕が限界だ。腹も痛い。ぐぐぐ、と腕の力で固い地面に身体を預けたマルコは、しばらく膝を付いて息を整える。当然のように「なんだお前」と剣呑な声を浴びせられたマルコは、「怪しいもんじゃねえよい」と、とりあえず両手を上げた。ホールドアップ。全く余裕はなかったが、余裕があるように見せかけることは得意だった。暢気そうだと笑われる顔も、こんな時には役に立つ。「怪しいもんじゃねえって、こんな場所で何して、」と殺気立ちかけた若い者を(とはいえマルコよりは年上かもしれないが)止めたのは、焚き火の奥で酒を飲んでいた大柄な男だった。巨人族の血が混じっているのかもしれない、と目を眇めたマルコに、「なんだか知らねえが、無抵抗の怪我人に手を出すもんじゃねえよ」と、男は存外柔らかい声で告げる。若い者がしぶしぶ、というわけでもなく即座に声を止めるので、おや、と手を上げたまま首を傾げたマルコに、大柄の男は「手は出さねえが、お前がここにいる理由は聞かせてもらおうか」と言った。マルコは一つ頷いて、名乗った上で乗っていた商船が襲われて船が大破したこと、目が覚めたら下の岸辺に倒れていたこと、酒盛りの邪魔をする気はないこと、できれば島の村か町の方角を教えてほしいことを、順を追って話す。黙って話を聞き終えた男は、「難儀なことだな」と言って、マルコを手招いた。ホールドアップしたまま立ち上がろうとして、脇腹が痛んだマルコは、両手で腹を押さえて焚き火の向こう側まで歩み寄る。

近づけば、なおさら男の存在感は果てしない。どっしりと地面に構えて、鼻の下に白いひげを蓄えた男は、「最後の質問の答えだが、この島は無人島だ」とマルコに言った。だいたい予想していたマルコは、「そりゃ残念だよい」と肩をすくめた。ただ、海賊たちの様子を見る限り水はあるようだし、動植物も少なくないようである。こりゃあしばらくサバイバル生活か、と嘆息したマルコに、大柄な男は「乗せていけ、とは言わねえのか」と尋ねた。「もちろんそれに越したことはねえが、海賊が余所者を助ける義理があるのかい」とマルコが返せば、「威勢のいいことだな」と面白そうに男は言った。頼み込んで解決するならマルコも労力を惜しむ気はないが、出会いがしらに斬り殺されなかっただけでも上々だと思うマルコはそれ以上を望むつもりもない。そもそもここがグランドラインの孤島だと言うところに逆に救いがある、とマルコは考えた。つまり、ログをたどってやってきた船はかならずこの島に立ち寄るだろう。海賊船ではない船が寄ったときに、乗せてもらうように頼めば良いのだ。そう結論付けて、「邪魔したよい」と踵を返そうとしたマルコを、「まあ待て」と男は止めて、「とりあえず止血だけでもしてやれ」と焚き火を囲んでいた若い者に指示している。「いや、それは」と辞退しかけたマルコに、「いいから、座って水でも飲め」と渡されたカップの誘惑に勝てずに、ぐうっと飲みほしたマルコは、その途端激しくむせてしまった。カップに満たされていたのは、水ではなく酒だった。しかも相当強い。

げほぐふっがっ、かはっ、と咳込むたびに脇腹の傷がびくびく震えて、軽く死ぬかと思ったマルコの背中を、笑いながら男が叩く。「良い飲みっぷりだ!」と言った男を見上げたマルコは、「酒なら酒と言ってくれよい」と涙目で抗議した。「悪かった」と笑った男は、カップを傾ける前よりひどくなった喉の渇きを抱えるマルコに、「今度こそ水だ」ともう一度カップを差し出す。受け取ったマルコは、おそるおそる舌先で味を確かめてから、今度はゆっくりカップを傾けた。時間をかけて水を飲みきったマルコに、「全部飲んだな」と男は言う。その口調がどうにも、裏のある声を孕んでいるので、「ああ、ごちそうさま」と言いながら嫌な予感がしたマルコに向かって、「じゃあ今日からお前は俺の船に乗ることだな」と男は言った。「はあ?!」と、思わず間の抜けた声を上げたマルコに、「海賊がただで恩を売ると思うか」と、澄ました顔で男は杯を傾ける。それは明らかな意趣返しで、偉そうに「海賊」を語ったマルコには返す言葉もない。おぱくぱく、と口を開いたマルコに、「そう悪い話じゃねえだろう」と男は続けた。「水は飲んだ、島から出られる、何があっても食うには困らせねえ。他に何を望む」と言われたマルコは、がりがり頭を掻いた。ここで義理を欠いては、海賊にも劣る人間と言うことになる。けれども、海賊に襲われたばかりのマルコが、海賊船に乗ってよいものだろうか。マルコ自身の倫理観に外れるものではなかったが、世間一般では「外道」と呼ばれるたぐいである気がする。

考え込むマルコの横で、男は思い出したように「そういやあ名乗って無かったが」と男は言った。そうして、「俺はエドワード・ニューゲート、世間一般じゃ『白ひげ』で通ってるな」と、あっさり言った男に、「はあ?!!!」と今度こそ素っ頓狂な声を上げたマルコを責めるものはいなかった。それから、有無を言わさずに脇腹の治療のため船に-白ひげ海賊団の船に-連れて行かれたマルコは、途中で出会った誰からも「諦めろ」と言われた。『白ひげ』が気に入って仲間に従った人間が、仲間にならなかったことはないのだと。さらに、白ひげ海賊団が一般の船を襲うことはないことと、資金は主に各島での「元締め」のような仕事で稼いでいるのだと言うことを聞く頃には、マルコもそう悪い気分ではなかった。船から船を渡る根なし草のような生活も悪くはなかったが、そろそろ一つの船に落ち着いても良い頃だと、マルコも思っていたからだ。まさかそれが海賊船だとは、と苦く笑ったマルコの脳裏にはいつか出会った赤髪の海賊が浮かんで、まああの船に比べればこの船の将来性は完璧だよい、とマルコは頷く。

清潔な包帯と新しいシャツを身につけて「白ひげ」の前に立ったマルコは、片膝を付いて「水一杯で拾われた命だが、せいぜい尽くすことにするよい」と軽い口調で言った。水一杯の価値を知っているマルコにとっては、最大限の礼儀だった。白ひげは愉悦そうに笑って、「よろしく頼む、マルコ」とマルコに盃を差し出す。マルコの顔が浸かりそうな大きさだったが、マルコは臆せず受け取って、半分がた注がれた酒をぐうっと飲みほした。杯を返したマルコに、「なんだ、いける口じゃねえか」と告げる白ひげがわずかばかり面白くなさそうな顔をするので、「いきなりじゃなけりゃ飲めるよい」とマルコは呆れたように返した。そういやあ敬語を使うべきか、とちらりと思ったが、白ひげが気にしていないようなのでマルコも気にしないことにする。「野郎ども、宴の続きだ!新入りに、乾杯!」と、焚き火の傍に立った男が叫んで、それから腰が抜けるまで飲まされたマルコは、当然のように夜熱を出した。傷と、酒のせいだった。

あの後は3日酔いになって辛かった、と、初めて白ひげ海賊団に入った日を思い出したマルコはひっそりと溜息を付く。脇腹をかすめた銃弾の跡は、もうすっかり消えてしまった。全治2週間、と言われた時は長いと思ったものだが、新しい環境に慣れるほうが先で、気付けばあっという間に痛みは引いている。海賊船と言えど船であることは確かで、規律が少しばかりゆるくて酒盛りが多い所以外は、マルコが今まで乗ってきた船とそう大差ない。ただ、乗船人数は桁違いだった。客船ではなく商船を乗りあるいていたマルコにとって、常時300人以上が同じ船で寝起きする白ひげ海賊団には無条件で嘆息せざるを得ない。それだけの人数がひしめけば、面倒事はいくらも摘みあがるっわけで、末端に居座ることになったマルコはせっせと雑用に興じている。商船で用心棒をしていたことを告げていないマルコは、このままデッキ掃除だけをして終えてもいいな、と心の中で思っていた。護るわけでなく、攻めるための争いと言うのは、マルコにあまり良い感情をもたらさない。グランドラインで生きる以上、白ひげの名は絶対の不文律だったが、それにしても。19を数える今まで海賊船に乗らなかったことが、僅かばかりの矜持の一部だったマルコにとって、海賊船での戦闘と言うものはマルコの一線を越えてしまうような気がして嫌だった。

シュシュッ、と割り当てられた甲板の最後の一枚を擦り終えたマルコは、かぶっていた(白ひげにかぶされた)麦わら帽子を取って、はたはたと風を送る。炎天下での甲板掃除は、たのしくないこともないがやはりしんどかった。はあ、と同じくかぶっていたタオルで額の汗を拭っていると、「終わったか、マルコ」と良く通る白ひげの声が聞こえる。探すまでもなく、甲板の端に座を構える白ひげの姿が目に入って、少し考えたマルコは、手にしたデッキブラシはそのままに、麦わら帽子をかぶりなおして、磨き終えた甲板を進む。白ひげの前までやってきたマルコは、とん、とデッキブラシを床についてから「終わったよい」と答えた。「御苦労なこった」と笑った白ひげが、傍らに置いたグラスを差し出すので、「また酒じゃねえよな?」と用心深くマルコが尋ねれば、「こんな日にアルコールつぎ込ませる気はねえよ」と白ひげは言う。おとなしくグラスを受け取ったマルコは、浮かんだ氷がすこしも溶けていないことには気付かないふりをして、ぐうっとつめたいそれを飲み干した。「ごちそうさまでした」と軽く頭を下げたマルコに、「おう」と満足そうに白ひげは応じて、空になったグラスを取ってまた傍らに置く。「じゃあ、次の仕事があるからもう行くよい」と言って踵を返したマルコに、「忙しいな」と白ひげが声をかけるので、「あんたが俺に水を飲ませてくれる分だけ、俺はあんたのために働く必要があるんだろい」とマルコは答えた。デッキブラシを担いで歩きだしたマルコの後ろで、白ひげが豪快に笑っているので、喜んでくれたようでなにより、とマルコも軽く笑った。白ひげの額にも大粒の汗が浮かんでいることを、マルコは知っていた。

( マルコが商船から海賊船に乗り換えた理由 / マルコの過去捏造 / マルコと白ひげ / ONEPIECE )