呼 吸 を 等 し く す る 者 ど も よ / C A S E 1 . サ ッ チ と 白 ひ げ


すこしもざわめきの減らない白ひげ海賊団の真夜中である。いつでも人の声がする船内を、サッチは毎日のようにこそこそ歩き回っていた。弱冠13歳のサッチは、船に乗って1カ月経つ今でも決まった隊に所属してはいないし、当然のように夜番が回ってくることもない。白鯨の名を掲げる船に乗る隊員は、皆一様に陽気でおおらかで適度に怠惰で勤勉で、そして適度に新入りのサッチに優しかった。

今まで乗った船では、優しくする人間には同じだけ警戒が必要だった。暗闇から伸びてくる手や近づいてくる顔や足の間に置かれた足なんかに、絡めとられてから気付くのでは遅いのである。それでも、サッチの生まれた村では売春も人身売買も日常茶飯事だったので、1ヶ月前まで乗っていた船でとうとう服を脱がされた時も、そこまで驚くことも喚くこともなかった。生きていくためには仕方がないことだと、割り切るだけの感情が残っていて、ただ、子供に手を出す大人がろくでもないと思う理性も同時に存在している。つまり、サッチはまったく諦めてはいなかった。生きていくために口を噤むくらいなら、大声で笑って死んでいく方がいいとおもう子供の心を失くしてはいなかったのだ。だからサッチは、近づいてくる大人の顔を真っ直ぐ見上げながら、放り捨てられたズボンのポケットから、鞘を掃ったナイフを閃かせて、大人の太ももに突き刺した。その途端、驚くほど簡単に歪んでゆるんだ男の下から這い出して、どうにか上着だけ拾い上げて、サッチは全速力で大人の部屋から逃げ出す。あっという間に掴まったサッチは、笑えるほど簡単に切り捨てられることが決まって、それでもサッチは満足していた。後悔はしている。もっとうまく逃げる方法があったかもしれない。あのまま大人に逆らわなければ、もっとずっと良い生活ができたかもしれない。生まれた村で、売られていった姉や妹が、サッチよりもずっと良い服を着て歩く姿を見たように。けれども、サッチにはどうしてもそれを、受け入れることはできなかった。這いずって生きるのは構わない。泥にまみれても生きたように、生きるための行為を惜しむ気はない。しかし、「生かされている」ことだけは我慢できなかった。サッチに性行為を仕掛ける大人が、サッチががむしゃらに築き上げた「サッチ自身」を見ることは決して無いのだ。必死で掴もうとしている居場所を、サッチが望むものとは別の形で与えられたところで、すこしも嬉しくはない。一言、とサッチは思う。一言でも、サッチの年齢や育ちきらない身体や弱い腕力やおとなしい性質だけでなく、サッチ自身に価値があるのだと、大人が認めてくれさえすれば、身体を開いたところで何も惜しくはないと言うのに。薄く笑ったサッチは、大人を刺したナイフで毎日野菜の皮をむいていた。ただの雑用にすぎなくても、与えられた仕事に責任と誇りを持っていたサッチにとって、それはどうしようもなくかなしいことだった。人を刺したことよりも、あのナイフを血で汚してしまったことが辛かった。

結論からいえば、サッチは殺されることも船から突き落とされることもなく、白ひげ海賊団の船に乗っている。サッチに手を出しかけた大人は、これまでも同じことを繰り返していたのだと言う。教えてくれたのは、サッチを船から連れ出した4歳年上のコック見習いだった。大人は『副船長』の肩書を持っていたから、ほとんど誰も口出しできなかったのだと、それでも全ての人間が見て見ぬふりをしていたわけではないのだとも、揺れる小舟の上でコック見習いは言った。「事実、俺は襲われる前に助けてもらった」と語るコック見習いの顔はわずかに歪んでいて、サッチは「言わなくていい」と返す。明らかに、コック見習いは謝罪の言葉を口にしようとしていた。謝られるようなことではない。少なくとも、親しくしてくれたコック見習いに、サッチは何の恨みもないのだ。恨みと言えば、サッチを犯しかけた大人、…副船長にも、対して悪い印象はなかった。厄介な子供に手を出して運が悪かった、と思うだけの余裕が、サッチにはもうある。「これからどこへ行くんだ」と尋ねたサッチに、「本船に電電虫で救助を頼んだから、それまでここで静かにしていればいい」と告げたコック見習いは、それきり口を噤んで、はるか海のかなたを眺めていた。どこまでも深い、灰色の目をしていた。

サッチは、昼間とほとんど変わらない喧騒が続くモビー・ディックの船内を、誰にも見咎められないように、影を縫って歩く。小舟の上で、コック見習いとサッチは別れたのだ。すぐ近くの港まで連れて行って欲しい、と言ったコック見習いと、船に乗ることを選んだサッチの進む場所は違う。「元気で」と言って、サッチのために副船長の首に包丁を突き立てたコック見習いは、これからも包丁を握ることができるだろうか。白ひげ海賊団の船で、食堂の下働きではなくただの雑用を選んだサッチは、膝の静脈一本でもう二度と厨房になど立てないような気がしている。真っ直ぐ副船長の顔を見ていたサッチは、だからサッチが流した血の色など見てはない。けれども、夜船室で目を瞑るたびに浮かぶのは、副船長の首から噴き出した鮮血ではなく、見なかったはずの太股から溢れるどんよりとした血液がサッチの下半身を濡らす夢だった。与えられた寝棚で飛び起きた時はじめて、サッチは死ぬ覚悟ができていても殺す覚悟はなかったことを知った。

それから一週間、サッチはあてもなく船内を歩き続けることにしている。呆れるほど広い船だった。食堂、浴場、広間、温室、居室、図書室、船倉、そして。かつり、とサッチが足を止めたのは、初日に一度だけ訪れた、この船の船長の部屋だった。どこをどう歩いても、全ての廊下がこの部屋の前に続いていることを、一週間歩き続けたサッチは知っている。昼間は大きく開け放された扉が、夜はいつも閉じていて、だからこそサッチはおおきく息を吐いて扉の前に座りこむことができた。このあたりには誰もいない。船に乗る誰より、船長が強いのだ。警戒する必要も護る必要もない。むしろ誰がいても足手まといだ、というようなことを、1週間の内にサッチは何度も耳にしている。それだけの評価を得る船長を、サッチはただ一度の訪れで理解していた。船長は、サッチが船に乗ることになった経緯を余すことなく聞いた上で、「そりゃ、お前にとっちゃ災難だっただろうが俺にとっちゃあ幸運だった」と笑った。意味がわからなくて、何を言うわけにもいかずに立ち尽くしたサッチを、大きな腕が引き寄せる。わずかに身体をこわばらせたサッチを気にすることもなく、おおきな掌がサッチの頭を撫でるように数回叩いて離れて、「おかげで息子が増えたからな」と言った船長の言葉は、荒んだサッチの胸に毒のように甘く回った。今でも。

しばらく船長室の扉に寄りかかっていたサッチは、空が白み始めるのを見てゆっくりと重い腰を上げる。明るくなれば、サッチは夢など見ずに眠ることができるのだった。少ない睡眠時間は確実にサッチを蝕んでいたが、引くつもりはない。夢を忘れるのが先か、サッチが倒れるのが先か。それはサッチの、サッチ自身を賭けた勝負だった。サッチのためにサッチを生かしたのではないと言う、コック見習いの言葉が脳裏をよぎる。サッチを生かすのはいつでもサッチ自身だった。今は生きていたかった。せめて船長に、もう一度息子と呼ばれるまでは。

かつん、と一歩足を進めたサッチの後ろで、突然扉が開いたのはその時だった。「どうしたサッチ」と聞こえたのは、たった1週間で忘れることもできない船長の声だった。慌てて振り返ったサッチの前には、半分寝ぼけ眼の船長が立っている。「あ、…ちょっと便所に?」と、言い訳にもならないことを口にしたサッチに、「便所はあっちだが、その割に長ェことここにいるじゃねえか、」と船長は言った。気付かれている。「それも毎晩」と船長が続けるので、サッチはごくり、と息をのんで俯く。夢が怖いと、言いたくはなかった。人を刺したサッチに、それを口に出す資格はない。船長に失望されたくもなかった。「眠れねえのか」と尋ねた船長に、「違います」と言ったサッチの言葉は嘘ではない。眠れないわけではない。目を覚ますことなく一晩中夢を見ることさえ気にしなければ、サッチは眠れるのだった。船長の視線は、いつまでもサッチから離れない。息苦しさすら覚え始めたサッチに、「そうか」と船長が呟いたときは、思わず深く息を吐いてしまった。けれどもその瞬間、「それならそれでいいが、扉の外にあんまり長いこと気配があるとうっとおしいんでな、外で寝るなら中で寝ろ」と船長は言う。意味を掴みかねたサッチがぽかん、と口を開けば、「お前が寝るくらいの隙間はある」と船長が差したのは、開いた扉の中の船長のベッドで、それは確かに船長サイズにしてもかなり大きくて、サッチなどは足元に横になったって邪魔になりそうもない寝床だった。だからといってサッチが足を勧められるわけもなく、入り口でたたらを踏んでいると、一足先に寝台に乗り上げた船長は「心配しなくても、息子に手を出すほど落ちぶれちゃいねえ」と言って親父は笑った。言われてはじめて、そんな心配はしていなかったことに気付いたサッチは、そのことにものすごく驚いて、驚きついでに弾みがついて、船長のベッドにぽふりと腰を下ろす。固い寝台だった。「よし」と頷いた船長が、ばさりと放ってよこしたシーツを受け取って、靴を脱いでくるまりながら、サッチは「お、やすみなさい船長」と言った。少し照れくさかったサッチに、「違うだろう」と船長は言って、「最初に、お前は俺の息子だと言ったはずだ」と続ける。横になった船長の顔を見ることはできず、大きなシーツにくるまったサッチはひとりで目を丸くしていた。

「おやすみ、サッチ」と船長は言った。「おやすみなさい、…オヤジ」と返したサッチに、グララララ、と親父は豪快に笑って、「それでいい」と満足そうに寝台を揺らした。火照った頬のまま目を閉じたサッチの瞼の裏には、相変わらず静脈から流れる血の色がこびりついていたが、サッチはもう二度と夢を見て目を覚ますことはなかった。生きるために血を流すのではなく、親父のために護ることを決めたからかもしれないと、随分長い時間が経ってからサッチは思った。

( サッチが白ひげを親父と呼ぶまで / サッチの過去捏造 / サッチと白ひげ / ONEPIECE )