屍 の 上 に 咲 く よ う な



波を分けるモビー・ディックのはるか頭上を、渡り鳥の群れが過ぎていく。あんまり遠いそれは、V字型の黒い点の集まりだ。越冬を終えて冬島へ帰るところか、夏を越えるために夏島から旅をしているのか。天候も季節も方位もばらばらなグランドラインでは、どこからどこへ行くのかも定かではない。不死鳥に変わって舞い上がればすぐにわかることだったが、(旅をする鳥は余所者に寛容だ)結局マルコは黙って鳥を見送った。いつか同じ島で巡り合うこともあるだろう。空は半分以上雲に覆われて、ゆるやかとは言い難い速度で動き続けている。なかなか姿を現さない日光を追って、マルコは甲板の真ん中に腰を下ろしていた。ぼんやりと、かなりの時間空を見上げていたせいで、首と背中が痛い。そろそろ年か、と呟きかけて、自分で認めてはいけないとマルコはゆるりと首を振る。まだ若い。40まで、あと何年も残っているのだ。

とはいえ、まっすぐ背筋を伸ばしている姿勢にも飽きて、それでも船室に戻る気の無いマルコは、結局ごろりと甲板に寝そべった。毎日数百人が踏みしめる甲板には、ささくれの出来る間もない。滑らかにすり減った板は確かに固く、それでもなだらかにマルコを受け止めている。ときおり顔を出す太陽が、マルコの身体をまだらに染めて、そのたびにマルコは細く眼を眇めた。眠るつもりはない。

流れる雲と、行ってしまった鳥の跡を追わなかったことを後悔したりしなかったりしているマルコの上に、曇り空以上の濃い影が落ちたのは、マルコが6度目に目を眇めた時だった。日光を遮るように、マルコの顔を覗きこむ顔は、逆光でよく見えない。けれども、シルエットだけで十分マルコには伝わった。「死んでるみてえに見えるんでやめてください」とぶっきらぼうに言ったのは、船の新入りであるエースだ。どこででもひっくり返っているマルコを気にするような人間はもう船にはいなかったので、エースの反応が新鮮だったマルコは、興味本位でちょいちょいとエースを手招く。素直にしゃがみこんだエースの二の腕を掴んで引き倒そうとしたマルコの、指先でエースの焔が赤く色づいた。「あ、」と呟いたエースは瞬時に炎をおさめて、マルコも黙ってエースの手を離す。バツの悪そうな顔で、甲板に膝を吐いているエースに、ことさら軽く「いきなり発火するなよい」とマルコが言えば、「おま、…た、…隊長が手ェ伸ばさなけりゃいいんですよ」とエースは返す。「そうだな」とマルコが流すと、エースは何か言いたそうに口を歪めたが、結局閉じて、そのまま立ち上がろうとした。が、「まあもうちょっとゆっくりしてけよい」とマルコがマルコの隣を指すと、エースはおとなしく姿勢を戻して、マルコの隣に腰を落ち着けた。いろ、と言ったわりに、マルコは口も開かずに雲を眺めている。

仲間になったエースは、マルコの言うことを聞くようになった。食堂で飯を食うようになり、タコ部屋の寝棚を使うようになり、隊員とまともに口を聞くようになり、たまには笑顔も見せるようになった。親父以外の隊員全てを「ないもの」として扱っていたような、1週間前とは大違いである。へたくそな敬語や、そのたびに噛みそうな「隊長」の呼び名はくすぐったい限りだが、マルコはどちらもそれなりに気に入っていた。くすぐったい雰囲気も、そしてエース自身も。

エースは昨日、白ひげ海賊団に入って初めての戦闘を経験した。マルコが率いる1番隊の末席に座るエースは、わずかの躊躇いも見せずに敵船に乗り込み、海賊にとっては「素晴らしい働き」を見せた。具体的には殺戮である。エースと対峙した敵船の乗組員は、断末魔すら残す間もなくエースの炎に焼かれて、焼け焦げた死体に変わった。それは、歴戦を乗り越えたマルコですら一瞬手を止めるほど鮮やかな、そして純粋な殺意だった。マルコの焔は生き物を焼かない。だから、船を焼きつくさない限り人を焼く匂いを嗅ぐことはなかったと言うのに、エースは昨日だけで何人焼いたか分からなかった。逃げる者は追わない、執拗に探すことはしない、けれども、向かってくる者は確実に消し炭に変える。殺意に殺意で答えるエースの姿勢は、海賊として正しいあり方だった。延焼はしない炎は、エースがどれだけ繊細に能力を操っているかを物語っている。どこまでも冷静なその姿は、がむしゃらに親父を狙い続けたエースの炎とは、明らかに似て非なるもので、マルコはそれを正しい歪さだと感じた。戦意を喪失した乗組員と、次の島まで保つだけの食料と水を残して根こそぎ財宝を奪ったマルコ率いる1番隊は、意気揚々とモビー・ディックに帰って行く。残っていたのはマルコとエースで、最後のひとりが敵船を後にしても気を抜かないエースに、「お前はもう船長じゃねえんだよい」とマルコが声をかけるまで、エースは一言も口を開かなかった。「そうだった」と、呟いたエースは、その途端敵船の船べりから大きく跳んで、モビー・ディックの甲板に着地する。何をするのかと思えば、他の1番隊から戦利品を受け取っているのだった。手ぶらだったエースに対してかけたマルコの言葉は、『下っ端なんだから働け』という意味でエースに届いたらしい。それはそれで間違っていないが、マルコはエースを労おうとしたのである。マルコ以上の働きを見せたエースは、だから真っ先に船に帰って、2番隊や3番隊の称賛を受けていい立場だった。初陣を勝利で飾ったことを、誇らしげに語っていいのだ。けれどもエースは、敵船に残ってマルコと同じことをしようとしていた。それはつまり、誰かが不穏な動きを見せたらその瞬間に敵船ごと沈む覚悟を持って船に残る、ことである。翼を持つマルコは、たとえ敵船が燃え尽きてもモビーに舞い戻ることができるが、エースではそうはいかない。炎に変わったところで、空中を移動できるわけではないのだ。だからエースの覚悟はマルコと同等、あるいはマルコ以上のものだったと見えなくもない。それはエースが、小さくとも立派な海賊団を率いていた証拠とも言えた。きっとエースは、自分の船が沈む時、マストに自分を括りつけられる側の人間だろう。もちろん、他の人間がすべて助かるかどうかわからない状況で、ということだったが。

口を開かないマルコの隣で、エースは膝を抱えている。空ではなくエースを眺めているマルコの視線には気づいているだろうに、身体を固くしたまま何も言わないエースは、仲間になる前と同じようでいて、それでも決定的に違う。その証拠に、「おい」と言ったマルコに、「はい?」と言ったエースはゆっくりと視線を向けた。「そういや、今日は午後から雨になるんだそうだ」とマルコがどうでもいい話を告げると、「え?でもいい天気だ、…ですよ」と言いなおしたエースのブーツの先に、唐突にぽつりと黒い染みが浮かぶ。続いて寝転がったままのマルコの裸の胸に、エースの肩に、エースに伸ばした形で落ちたマルコの左手の甲に、空を見上げたエースの右の眼球に、大粒の雨がぽつぽつ落ちた。急いでいた渡り鳥も、高速で流れる雲も、まだうっすらと覗く太陽も、すべては雨への布石だったというわけだ。雨粒を眼球で受け止めたエースは、一瞬目を閉じた後に慌てて立ち上がって、「知ってたならなおさら甲板で寝てんなよ!」と吠えて、その勢いのままマルコの腕を掴んで引き起こす。お、と思ったマルコの手を引いて、エースは船室へ続く扉を目指す。一番近いのはマストの下に作られた上げ蓋だった。がばりと開いて、マルコを押し込んで梯子を握らせたエースは、上げ蓋を閉じながら一気に3メートル下の廊下に着地する。音もなく。おお、と感心したマルコが、同じようにしてエースの後ろに降り立つと、エースは廊下の真ん中に立ったまま動かなくなっていた。

まさか着地の仕方が悪かったわけでもないだろうが、心配になったマルコがエースの前に回り込むと、エースは耳を赤くして俯いている。「どうしたんだよい」と不審そうにマルコがエースに尋ねると、「…や、…俺、なんか…隊長のこと俺の船の仲間みたいに扱って…ちょっと、…すみません」と言ったエースは、頬を押さえてますます姿勢を低くした。頭を下げているのかもしれない。マルコは薄く目を閉じて、エースの言葉を反芻する。俺の船の仲間、とエースは言った。それは明らかに「俺の船の」仲間、つまり「スペード海賊団時代の」仲間を指す言葉であって、「俺の」船の仲間ではないのだろうが、マルコはあえて取り違えてやることにした。エースはもう船長ではない。モビー・ディックにのる、白ひげ海賊団の乗組員だった。船ごとの立場はあるだろうが、白ひげ海賊団での上下関係はそう厳しいものではない。これだけゆるくて怠けているマルコでも隊長が務まるくらいだ、人望と威厳は比例しないことが分かってもいいとマルコは思う。つまるところ、スペード海賊団と白ひげ海賊団に対するエースの温度差を感じて少しばかり面白くなかったマルコは、「お前がいまだに仲間じゃなかったとは心外だよい」と、ことさら気分を害した風を装ってエースを眺めた。ばっ、と顔を上げて「え」と言ったエースへ、「それともアレか、お前が仲間になったのは『親父』だけで、俺たち隊長や隊員はそうじゃねえって言いたいのかい?」と畳みかけるようにマルコが続ければ、「そうじゃねえよ」と目を丸してエースは言った。言った後に、しまったという顔で「そうじゃ…なくて、隊長に対して失礼なことをしたって、そういう、こと…です…」と、消え入りそうな声でエースは呟く。一瞬引きかけた赤がまたエースの耳に集まっていて、マルコはふとエースには赤が似合う、と思った。エースの炎を筆頭に。もう少しからかっても良かったが、ここが公共の廊下であることを思い出したマルコは、そろそろエースを解放してやることにする。「冗談だよい」とあっさり肩をすくめたマルコに、エースがあからさまに力を抜くので、「いつもそういう顔してろ」とマルコは言った。エースがまたびくりと身を引いて、「どういう顔ですか」と問いかけるので、「ぬるま湯に浸かった見てえな顔だよい」と言ってマルコはエースに背を向ける。「あとは敬語もいらねえよい」と言い捨てて、マルコはすたすた薄暗い廊下を進んだ。エースの足音が追いかけてこないので、せいぜい悩め、とマルコはにんまりと口角を上げる。親父は本当に良い拾いものをした。
あっという間に強くなるだろうエースを思うマルコの後ろでは、甲板に落ちる雨の音を聞きながら、立ち尽くすエースがマルコの背中を見ていた。それほど大きくも厚くもなく、それでも、白ひげ海賊団の頂点を確かに護る背中だった。

( 懐き始める前の / 入隊1週間・初陣後 / マルコとエース / ONEPIECE )