胸 の 前 で 手 を 組 ん で



乾いた風の吹く島だった。港に停泊したモビー・ディックから、さほど離れていない町の宿屋に、エースは腰を落ち着けている。やわらかい海の上も、ゆりかごのように揺れる船も、どこまでも続く海原も、吹きつける潮風も、エースは何もかも愛していたが、それでも陸に上がるとどこかほっとするのは、やはりエースが陸で生まれたからだった。海の上で生き、海の上で死ぬことに何の疑問も抱いてはいないが、海に出なくとも生きていけたことをエースは知っている。そして、だからこそ海に出て親父に出会えたことを、エースは誇りに思っている。必然ではないところから生まれたものは得てして運命と、そう呼ぶのだと言ったのはエースの血のつながらない祖父だろうか。それとももっと遠い、顔も知らない誰かの記憶だっただろうか。まあいい、と、揺れない寝床で二時間ほど惰眠を貪ったエースは猫のようにしなやかな伸びをした。窓の外は薄暗くなりかけていて、もう灯りがつき始めるころである。どんよりとした曇り空は薄い紫色をしていて、それでいて水の匂いはかけらもない。太陽も月もない空は少しさみしい気がする、と思ったエースは、宿の窓を閉めて食事をとることにした。少し早い気もしたが空腹だったので、外に出るときは羽織るようにしている上着とブーツを身につけて、エースはベッドを下りる。エースの部屋は二階だったので、軋む階段をぐるぐる下った。踊り場には小さなテーブルが置かれて、楚々とした青い花が飾られている。華やかさには欠けるから、きっと野の花だろう。もっともエースは、その方がすきだった。花屋で売られている花は、圧倒されてしまってうまくその姿を捕えることができない。それに、と、鮮やかに浮かぶ青い色を思い出して、エースは笑った。あの羽の色に、似ている。

エースの選んだ宿は、個室は用意されていてもベッドと洗面台を置いたらそれで一杯になってしまうような安宿だった。当然のように食事の用意があるはずもなく、エースは受付で飯屋の場所を尋ねる。近くに酒場を兼ねた料理屋がある、と教えられて、エースが笑顔で礼を言ったらドリンクの無料券をくれた。「ここに泊まる客はだいたいあそこを利用するから、こういうのをくれるんだよ」と言った宿屋の亭主にもう一度礼を言って、エースは宿屋を後にする。白ひげ海賊団の連中は皆それぞれ宿をとっていて、エースと同じ宿に泊まっている奴も何人かいるようだったが、陸の上では干渉しないことが不文律なので、エースも声を掛けることはない。そもそも若い連中は(と・言ってもエースより若い隊員は数えるほどなのだが)皆色っぽい宿に乗り込もうとしていたので、エースが口を出す隙もなかった。エースはと言えば、前の島で何度かお世話になったので、今回はいいかなあと思っている。エースだって、柔らかい胸や、白い腕や、すらりと伸びた足や、高く組んだ足の短い裾から覗きそうなものや、軽く屈んだ時に短い上着から覗く生の腰や、そういったものに触れたくないわけではないのだが、そこまで頻繁でなくても良いのだった。なにしろエースは海賊で、一つ所にとどまるわけにはいかない。うっかり惚れたり惚れられたりすれば、エースにとっても、相手にとっても、良いことなど何もないのだ。白ひげの親父に惚れこんでいるエースにとって、今は女性より白ひげ海賊団にいることの方がずっと大事なのである。

というわけで、薄曇りの空の下をエースはてくてく歩いていく。しばらくすると、緑色の看板に金色の文字を掲げた店が目に入るので、エースは足取りを速めて、看板と同じ緑色の扉を軽く押した。ちりん、と、扉についたベルが澄んだ音を立てるので、軽く眼を向けたエースが店内に視線を送ると、カウンター席に見慣れた後ろ姿を見つける。特徴的な金色の髪と、浅黒い肌をしたマルコに向かって声をかけようとして、一瞬後にマルコが1人ではないことにエースは気付いた。一段落ちた照明の下で、マルコの隣には黒髪の女性が座っている。女性には少し高いらしいスツールに足を絡めて、マルコに向かって何事か話しかけるその横顔は、遠目に見ても美人だった。邪魔しちゃ悪ィな、と唇の端で笑ったエースは、後ろ手にそっと扉を閉めて、カウンターから離れたテーブルに腰を下ろす。水を運んできた店員に、メニューの端から端までを注文してドリンク券を見せると、「本当は1杯なんですけど、たくさん頼んでくれたから高いほうから2杯分引きますね」と店員が気前のいいことを言うので、「あんた良い人だな」とエースは心から感謝した。食い物に寛容な奴は良い奴だ。店員は少し笑って、「じゃあすぐできるものからもってきますね」と、エースのテーブルを離れる。店員のスカートがかなり短いので、やっぱり良い店だ、とエースは頷いて、まずは水を飲み干した。ちらりとカウンターに目をやれば、黒髪の女性はマルコに顔を寄せて笑っている。顔どころか、肩と足までかなり近づいていて、やるなマルコ、と、エースは素直に感心した。正直なところエースは、マルコの顔がかっこいいとは欠片も思わないのだが(エースも人のことは言えないが)、顔ではない部分がそれはもうかっこいいので、マルコがモテることに異論はない。女性はスカートではなくパンツスタイルなので大きく足は見えないが、華奢なサンダルをはいた足先はすらりと伸びているし、ぴったりとしたシャツの裾は短くて細い腰からなだらかに伸びる曲線は何とも言えない。胸はカウンターに乗せている。うん、いい趣味だ。エースが頷いている間に、「お待ちどうさま!」と、店員がアルコールと料理を両手いっぱい運んできたので、色気は呆気なく食い気に押し退けられた。女性を後ろからじろじろ眺めると言うのもエースの良しとするところではなかったので、あっさり料理に意識を移したエースは、それからしばらく皿以外の何も見ずにがつがつと料理を口にしていく。空の皿が積み重なるたびに店員の女の子は(まだかなり若い)料理と皿を交換してスカートを揺らしていたのだが、ほとんどぎりぎりまでめくれようがエースには目に入らなかった。目の前の椅子が、音を立てて引かれるまで。積み上げられた皿の端に長い指が見えて、口いっぱい頬張ったまま顔を上げたエースの前に、当然のようにマルコが座っている。

「店ごと食いつくす気かよい」

と、呆れたように言ったマルコは、長い指をすらりと伸ばして短いスカートの店員を呼んでいる。「ロックで」と、アルコールを注文したマルコに、少しばかり顔を赤くした店員がぱたぱたと走り去って行くのを見ながら、エースはまず口の物を十分噛み砕いて、味わって、満足してからごくりと飲み下した。それから、「何してんだお前」と、マルコに負けず劣らず呆れたようにエースが言うと、「そりゃこっちの台詞だ」と、マルコはとんとんと自分の口の端を指す。ついている、ということらしい。食っている間にそんなことを気にしていたらキリがないのだが、人がいるからにはそうも言っていられない。たとえマルコであっても礼儀は必要だった。ごしごし、と手の甲で食べ滓を拭って、「どういう意味だよ」とエースが返せば、「同じ店にいるなら声くらいかけろよい」とマルコは言う。「俺は馬に蹴られたくねえっつの」とエースはマルコを切り捨てて、良いタイミングで料理と酒を運んできた店員に同時に礼を言った。やっぱりスカートは、エプロンに隠れそうなくらい、短い。「女連れだったから遠慮したって?」と、グラスを傾けながらマルコが尋ねるので、「まあな」と頷いたエースも皿を傾ける。瞬く間にエースが一皿を空にして、もぐもぐやりながら次の皿に手を伸ばしていると、「もう終わった後だから良いよい」とさらりとマルコは言った。どうでもいいことだが、この島に船をつけたのは今日の昼前だった。荷を下ろして、点呼を取って、滞在金の支給があって、上陸する頃には昼を過ぎている。昼食を船で取ったエースより1時間近く先に船を降りた、とはいえ、今はまだ、…18時程度である。手にした皿を傾けることなく、ごくんと口の料理を胃に送ったエースは、マルコの髪がいくらか濡れていることに今頃気づいた。手が早いとか、どう見ても商売女じゃないとか、昼間からだとか、幾つ離れているんだとか、そういうことはまあいい。それにしても。「珍しいな飯まで食うなんて」とエースが言えば、「行き先が同じだっただけだよい」と、マルコはあっさり返して、エースの皿からエビを摘まんだ。ふーん、と頷いたエースがふっとカウンターに目を向けると、さっきと同じ場所に女性が座っているので、「って何残してきてんだお前は」と、割とフェミニストなエースはマルコに向かって声を荒げる。「うるせえな」と、次はイカを摘まんだマルコが一向に意に介さないので、「せめて相手が席立つまで待つとか店変えるとかしろよ…!」とエースが続けると、「行き先が同じで、たまたま隣に座っただけの相手より、お前と飯食う方が楽しいだろうが」と、真面目な顔でマルコが言うので、力の抜けたエースは持っていた皿をそのままマルコに渡した。素直に受け取ったマルコは、そのままエビとイカを口に運んでいる。

皿を離したエースは、口の周りをごしごし拭って、がたんと音を立てて席を立った。引いた椅子はそのままに、カウンターに向かう。「おい、」と、マルコが声を掛けたが、エースは振り向かずに、カウンターの女性の隣に腰を下ろした。「この人と同じものを」とエースは女性を示して、それから女性に向き直る。「えーと、俺の船の同僚が、ごめんな」とエースが謝ると、「なあに、気にして来てくれたの?」と女性は、思ったよりずっと明るい顔で笑った。その顔があんまりきれいなので、一瞬見とれかけたエースは、いやいやいや、と頭を振って、「だってアレ、あんたと飲むより俺の顔見てる方が楽しいとか言うんだぜ」と、まだテーブルでイカを噛んでいるマルコを指差す。「なにそれかわいい」と女性がまたころころ笑うので、「かわいいかあ?失礼な奴だろ」とエースは首を傾げて、カウンターに置かれたアルコールを傾けた。と、思いのほか強いので少しむせかけて、俯いたエースの背中を、女性の白い手が擦ってくれて、ラッキーだと思ったのはエースの正直な気持ちである。「大丈夫?」と尋ねられて、「平気平気」と返したエースは、残りのアルコールを飲み干して、「あんたまだここで飲んでる?俺たちと飲まねえ?」と、イカとエビの次はアサリを噛んでいるマルコをまた指差した。ううん、と首を振った女性が、「そろそろ帰るわ」と言うので、心底がっかりしたエースに(奇麗どころがいたら飯はうまいものだ)、「また今度、誘ってね」と女性がまたきれいにきれいに笑うので、気を取り直したエースはこっくり頷いた。またね、と手を振って財布を出そうとする女性の手を止めて、「ここは俺と、アレで払っとくから」とエースは首を振る。何か言おうとした女性に、「迷惑料として」とエースが片眼を瞑ると、「そう?ありがと」と、女性もウインクで返してくれた。きれいな、青い目をしていた。「じゃあ」と、きれいな女性はきれいな手でエースの頬を撫でて、軽く手を振って店を出ていく。細くて白い指の先は、眼の色より少し薄い水色に彩られて、なんだよ、とエースは思った。やっぱりマルコは良い趣味をしている。

彼女の支払いはこっちにつけてくれ、とカウンターに告げて。エースがテーブルに戻ると、「ゆるんだ顔してるよい」とマルコは鼻で笑った。良い気分だったエースは、「なんとでも言え」と返して、追加されていた料理をざばざばと口に運んでいく。食べている途中で、「一口」とマルコが言うので、フォークで刺して差しだしてやれば、当然のようにそのまま食い付いた。いつものやり取りである。奇麗どころがいなくても、マルコがいれば楽しいのはエースも同じだった。マルコや親父やサッチや二番隊の連中と、船と変わらない生活を陸でも送れるとしたら、船を下りても構わないとエースは思っている。それくらいには、思っている。メニューの端から端までと、追加で何品かを食い終わったエースが「ごちそうさまでした」と手を合わせる頃には、薄暗かった窓の外が完全な闇に包まれている。春の夜は早いものだ。「割り勘な」と悪戯っぽい顔で笑ったエースに、「完全に俺の割損だろうが」と溜息をつきながら、それでも半分出してくれるマルコは、やっぱり優しいのだろうと思う。エースとは別の形でフェミニストなマルコは、商売女だろうが素人娘だろうが人妻だろうが、誰と寝たところでその痕を誰にも残すことはないのだ。水色に彩られた女性の爪が、ぎりぎりまで切りそろえられているのを見たエースは、マルコの背中にも爪痕が残っていないことを知っている。残されたところですぐに消えてしまうだろうに、それでも残らない相手を選ぶところがマルコらしいと、満腹なエースにはもう曇り空も気にならなかった。「ところで、お前宿は?」と尋ねたエースに、「これから探すよい」とマルコが言うので、「じゃあ俺と同じ所にしとけよ」とエースは笑って、緑色の扉を開いた。ドリンクは2杯無料になったのだから、客もふたり泊まる必要があるだろう。狭い部屋ではあるが、清潔でシーツにも糊が効いているので、マルコは気にしないはずだった。風呂には入っているし。「飯は付いてねえから、明日の朝飯もどっかで食おうな」と言ったエースに、「米がくいてえよい」とマルコが無理を言うので、「じゃあ船に戻るか」と返して、エースとマルコは扉を潜る。ふたりの声を遮るように閉まった扉の端で、ちりんとベルが鳴って、後には短いスカートの店員と、大量の皿だけが残された。
宿はすぐそこだった。

( 何も始まっていない頃 / マルコとエース / ONEPIECE )