勇  敢  な  恋  の  歌



新月の夜である。
真夜中を過ぎたモビー・ディックの船内は、いつも通りの喧騒に包まれていた。昼番の連中が眠る居住区ではわずかに声を潜めているが、大概は昼間と同じように走り、笑い、歌い、そして生きている。自室で目を覚ましたマルコは、隣にいた筈の熱源が消えていることに気づいて起き上がった。いつでも壁際を向いて眠るマルコと、背中あわせで目を閉じるエースが分け合うのはわずかな温もりばかりで、けれどもエースはとても温かいのだった。能力のせいか、それとも生まれ持ったものなのかは分からないが。マルコも体温が低い方ではないが、エースは平熱が36度後半だ。37度を超えた程度ではびくともしない、というかもしかしたらそれもまだ平熱なのかもしれない。一度以上体温の低いサッチなどは、冬場良くエースで暖をとっている。いい年をした男がここ一年ですっかり一人前になったエースの手を握り締める姿は割とシュールだったが、そのエースと同じベッドで寝ているマルコに言える話ではなかった。エースがいた筈の場所にマルコが手を置くと、すっかり冷たくなっている。エースが抜けだしたのは随分前のようだった。マルコはしばらく考えて、壁際に視線を送る。と、棚に並べてあったはずの酒瓶が一本、消えていることに気付いた。部屋に帰ったわけではないらしい。というわけでマルコはベッドから降りて、無造作に脱ぎ捨てていた上着とグラディエーターを身につけて部屋を後にした。船室の床板はいつもと同じ音で軋み、すり減った階段はいつもと同じ場所にささくれが出来ている。すれ違いざまに覗いたエースの部屋はやはり空っぽで、主がいてもいなくても同じだけ寂しい部屋だった。薄暗い船内には新月の光が一筋だけ差し込んで、遠い喧騒とマルコの足音が響いた。

人通りの追い中央廊下を抜けて、食堂脇の扉を開いて甲板に出ると、今日もそこここで篝火が焚かれている。ただでさえ薄い月明かりはほとんど目に見えなくなって、マルコは舞いあがった火の粉に僅かばかり目を眇めた。夜番の隊員たちはマルコを見るたびに手を上げたり、勝手に始めている宴会に誘ったりしてきたが、マルコはその全てに「またな」と答えて、真昼のように明るい甲板を進み、メインマストまでたどり着く。見上げれば、いつかと(いつもと)同じようにシュラウドの端からショートブーツの足が伸びて、マルコの上でぶらぶらと揺れていた。

「月もないのに、何の祝いだ」

と、マルコがショートブーツに声をかければ、酒瓶を傾けるエースの顔がマルコを見下ろして、「お前も起きたのか」と大きく笑う。手振りで上がってこい、とエースが促すので、マルコはシュラウドに手を掛けてゆっくりと身体を引き上げた。マストの中央にかかる帆桁に腰かけたエースがマルコのために身体一つ分移動するので、マルコも開いた場所に腰を下ろす。そのままエースの腕を引き寄せて、エースの腕ごと酒瓶を傾けた。「うまいか?」とエースが尋ねるので、「俺が選んだ酒がまずかったことなんてねえよい」と、エースの腕を離しながらマルコは答える。「確かに、いいもん並んでるよな」と悪びれもせずに笑ったエースは、躊躇いもせずにマルコが咥えた瓶に口を付けた。半分ほど減った酒瓶の中身がちゃぷり、と音を立てる。風を孕んで膨らむ帆は、マルコとエースの体重ごときではびくともしない。そして、風に弄られるエースの髪が湿っていることに気づいて、マルコはエースの頭に手を伸ばした。あらかた乾いていたが、これは明らかに良風邪で乾かしたのだろう。「どうしたよい」とマルコが尋ねれば、「気持ち悪かったから風呂入った」とエースは返す。後始末はして眠ったが、それだけでは足りない時もあるだろう。もちろん、船内に個室のシャワーなどありはしないので、エースは当然のように隊員全員が使う風呂で汗を流すのだ。マルコも、いまさらそんなことを気にしたりはしないが、面白いかと言えばそういうわけでもない。湿ったエースの髪をばらばらとかき混ぜて、マルコは口を開いた。

「そういうときは、俺も起こせよい」
「マルコもシャワー浴びたいか?」
「それもあるが」

と、そこで言葉を切ったマルコは、エースの耳に口を寄せて、「痕が残るくらい丁寧に身体中洗ってやるよい」と囁いた。うっわ、と呟いて耳を押さえたエースの首筋がほんのり色づいているので、可笑しくなってマルコは笑う。風呂上がりで真夜中だと言うのに、上着どころかタオルの一枚も羽織らないエースはあまりにも無防備だ。熱を隠すように酒瓶を呷ったエースの顔は怒ったような、泣きだしそうな形に歪んでいて、マルコは少しばかり欲情する。もちろんこんな場所で手を出したりはしないが。ごくごくごく、とエースが酒瓶を飲み干してしまいそうなので、マルコはエースから酒瓶を奪い取って、残りを開けてしまう。「あ、」と言ったエースに、「もともとは俺のだよい」とマルコは返して、灯りの揺れるマストトップに空になった酒瓶を置いた。手持無沙汰になったらしいエースは、帆柱に足を掛けて仰け反っている。「落ちるよい」と声を掛けたマルコに、「マルコが引きあげてくれるだろ」と当然のようにエースが答えるので、この野郎、と思ったマルコは仰け反ったエースの腰を左腕で引き寄せた。「まだ落ちそうになってねえよ」とエースが言うので、「落ちてからじゃ遅いだろうが」と平然と答えるマルコは、「空を見ても何も見えねえだろい」と言って、エースを抱いたままマストに背を預ける。どこまでも澄み渡っているというのに、月も星も薄い夜だった。穏やかな海風が、雲と一緒に星明りまで吹き飛ばしてしまったかのように。力を抜いたエースが僅かばかりマルコに身を寄せるので、左腕の位置をエースの腰から首筋に移すと、また薄く湿った感触がマルコに伝わる。

「そうでもねえよ?」

と、唐突にエースが言うので、「何が」とマルコが尋ねれば、「星と月がなくても、空はあるだろ」と、エースはつまりマルコの、「何も見えねえだろ」に答えたらしい。ただ暗いだけにしか見えない夜空も、エースにとっては価値のあるものらしい。理解はできなかったがエースを尊重するマルコは、「そうか」とだけ言って、エースの髪の一房を摘まんだ。身体中はなくても、頭を洗うくらいならしてやっても良いような気がした。公共の施設でも。エースと触れあった部分がだんだん熱くなってくるので、マルコがエースの顔に目を落とすと、エースは半分目を閉じかけている。今まで話していたと言うのに、唐突にも程があった。「お前は何しに来たんだよい」と、呆れ半分でマルコがエースの髪を引っ張れば、「風呂上がりに、どっちに戻ればいいかわかんなくなった」とエースは眠そうな声で呟く。俺の部屋とマルコの部屋と、どっちに。「寝てた場所に戻ってこい」と言ったマルコに、「でもマルコのベッドで、マルコは1人で寝てただろ」とエースは言う。

「マルコはいつも壁際で寝てるから、半分開いてる場所が俺の場所かどうかわかんなくなったんだ」

今にも眠り込みそうなあわい声で言ったエースの言葉に、マルコはエースを抱かない腕でがりがりと頭をかいた。抱いた後だからでも、酒を飲んだからでも、寝ぼけているからでもない。エースの言葉は素面だろうがそうでなかろうがいつでもエースの本心だった。だからこれは、エースがマルコと眠るようになってから、今夜初めて気づいたことなのだろう。「おい」と、マルコが腕の中のエースを揺すると、「う、」と唸ったエースはもぞもぞと身体を起こした。「帰って寝るよい」とマルコが促せば、「どっちに?」とエースが尋ねるので、「ふたりとも、俺の部屋に帰るんだよい」とマルコは答えて、エースを抱えたまま帆桁から飛び降りる。このまま降りたところで怪我もないだろうが、エースを抱えたぶん自重が増えているので、念のために羽ばたいたマルコは、音もなく甲板に降り立った。そのまま、エースの手を引いて甲板を横切ろうとしたマルコの頭の隅を、空き瓶を置いてきてしまったな、と言う思いが掠めたが、結局気にしないことにした。明日になれる前に、誰かが回収するだろう。元来た道を帰るのでは芸がないので、マスト下の上げ蓋を開いて、マルコはまずはエースを突き落とした。腐ってもエースは2番隊隊長なので、半分眠りこんでいても危なげなく着地している。ただし、エースはその場で座り込んだので、後から飛び降りたマルコのグラディエーターに襲われそうになった。「あぶねえな、」とギリギリ避けたエースの顔が引きつっているので、「そりゃこっちの台詞だ」と返したマルコは、またエースの手を握る。エースの掌は大きくて筋張っていて、お世辞にもきれいな手ではなかったが、乾いて温かい握り心地の良い手だった。同じことを、エースもマルコに向かって言っていたことを覚えている。どちらかと言えば、マルコの方が少しばかり指が長かくて、少しばかり肉の薄い掌だった。

三段の階段を下って、廊下の突き当たりの向かい合った扉の、向かって右がマルコの部屋だった。マルコが、エースと手をつないだまま扉に手を掛けると、エースはちらりと振り返って自分の部屋を眺めている。「どうしたよい」とマルコが声をかければ、「帰るならあっちだよな?」と、心もとない声でエースは言った。マルコは扉にかけていた手を離して、「お前がそう言うならそれでもいいが」と静かに返す。少しだけ震えたエースが、「じゃあ、おやすみ」と言ってマルコの手をほどこうとするので、「どっちにしろ俺も一緒に行くから離さなくていいよい」とマルコは言った。それからマルコは、躊躇いなく向かいのエースの部屋の扉に手を掛けて室内に滑り込む。開いたままの小窓から扉に向かって夜風が吹き抜けて、エースとマルコの髪をわずかに揺らした。「なんで?」とエースが言うので、「なんでもなにも」とマルコは言って、扉を閉めてからエースの手を離す。ベッドと机しかないエースの部屋は、マルコと同じ広さとは思えないくらい広々として、エースの何もかもが一目で見渡せた。眠そうなくせに立ち尽くしたままのエースを残してベッドに近づいたマルコは、「なにぼさっとしてんだよい」と、エースを促す。ぼすん、とベッドに座ってブーツを脱いだエースがマルコを待っているので、「奥に行け」とマルコは言った。壁際で寝たらいい。エースがおずおずと横になるのを見届けてから、マルコもエースの隣に寝転がった。エースの方を向いて。

「…何これ」

とエースが呟くので、「これで、お前の場所だってわかっただろい」と答えたマルコは、エースの前で目を閉じる。壁際で眠りたかったわけではなく、左を下にして眠りたいだけのマルコは、エースと眠る位置を変えたところで何の支障もないのだった。目を閉じた後で、なんとなく両腕が手持無沙汰だったので、目の前にいるエースを抱き寄せる。薄く眼を開くと、エースはまた、怒りだしそうな泣きだしそうな顔で口元を歪めているので、マルコはエースの背中をひとつ撫でて、今度は我慢せずにエースに口付けた。ほとんど密着した状態で「おやすみ」とマルコが呟くと、「おやすみ」と消えそうな声でエースも返す。それから三秒もしないうちに聞こえたのはエースの寝息だった。
甲板では見えなかった月明かりが開け放したままの窓から差しこんで、エースの顔を照らしているので、マルコはエースの背中を抱くのとは逆の手でエースの目元を覆って、マルコ自身も目を閉じる。規則正しいエースの呼吸は、いつでも聞こえる波音とまじりあって、いつしかマルコの寝息に変わった。

( エースのベッドは窓際に作りつけられています / マルコとエース / ONEPIECE )