語 る に 縊 り 落 ち た 日



エースの頭上には、どこまでも青い空が広がっている。
頭上と言うか目の前と言うかやっぱり上の方と言うか、まあとにかく、エースと海を挟んで、その上にはどこまでも広い空がエースを見下ろしていた。エースはぶくぶくと泡を吐きながら、不思議と苦しさは感じなかった。はるかかなたにぽつんと浮かんでいる、あれが、エースの乗る船だろうか。このまま沈み続ければ助からないと言うのに、エースはどこまでも冷静だった。慌てたところで手足はろくに動かない。それなのに意識はまるではっきりとしていて、見えるもの全てがあまりにもクリアで、もしかしたらエースはすでに見えないものを見ているのかもしれなかった。閉じられない目で、開いたままの口で、水を飲むこともできない身体は、海に引きずられていく。どこまでも。

悪魔の実を食べる前、海はエースの仲間だった。泳ぐことも潜ることも得意だったエースの日常は、遊びも、食事も、修行も、全てが海に繋がっていた。こうして、海の中から空を眺めることも、昔は当たり前のことだった。息が続かなくなるまで潜り続けて、海面で呼吸してまた潜って、一日中海にいることだってできた。人から疎外されて育ったエースに、全てを与えてくれたのは海だったのだ。海に浸かることも出来ない弟を見て育ったエースにとって、悪魔の実は忌むべき存在だった。けれども、強くなりたいと思う衝動を止められなかったのも事実である。海から得られる恩恵全てを切り捨てて、それでもなお海で生きることを選んだエースは、だから海で死ぬことを恥ずべき事とは思わなかった。エースは海を愛している。動かない唇をどうにか薄く持ち上げて、エースは笑った。抗いはしない。敗北に、背を向けることはない。

最後に見えたものは遠い青空を横切る、青い鳥の姿だった。

ぺちぺち、と頬を叩かれる感触で、エースは薄く眼を開いた。意識を失う前と同じ青い空が目に入って、今も海の中なのかと思ったエースの背には確かに固い感触が伝わっている。海中から底を眺めた、敵船の甲板だった。どうして、と呟いた声が掠れていて、エースはゆるく瞬きを繰り返す。生きていた。試しに左腕を持ち上げて、軽く火に変えて見る。海水に濡れた腕はうまく燃えなかったが、それでも、確かに炎が揺らめいた。その腕の炎を、横から伸びてきた腕が無造作にもみ消した。高熱だと言うのに、素手で掴んで。エースがゆっくり顔を上げるとそこには、眠そうな目をした妙な髪型の男が、立て膝をつく形でエースを見ている。

「船を燃やすなよい」

と、呆れたような声で言った男は、掴んだ時と同じくらい無造作にエースの腕を放り出す。とっさに力が入らなかったエースの左腕は、海水に濡れた甲板に落ちて鈍い音を立てた。痛かった。エースは、ひび割れた唇を動かして、「どうして」ともう一度呟く。エースがひとりで助かるわけがないのだ。海は青く深く、あのままエースを飲み込んで、何事もなく終わるはずだった。そうすれば、この船からは諦めの悪いガキが1人消えて、白ひげには安眠が約束されただろうに。ぐ、と唇を噛んで、エースは青空を見上げる。救われてしまった。奇襲をかけた白ひげに、腕一本でぶっとばされてあっさり海に落ちたエースは、それだけでも間抜けだと言うのに、さらに戦っているはずの船のクルーに助けられてしまった。情けないにも程がある。

「俺を助ける必要がどこにある」
「引きあげなきゃ死ぬだろうが、能力者は」
「俺はお前らの頭を倒してェんだぞ」

と、男を睨みつけるエースの前で、男は目を丸くして「何をいまさら」と言った。それはエースの台詞だった。最初からわかっていたことだが、白ひげ海賊団はエースのことなど箸にも棒にもかけていないのだ。『俺を助けたことを後悔させてやる』とも言えないエースは、寝転がったまま男を見上げることしかできない。高熱を素手でつかんだ男に、エースの炎が効くとはとても思えなかった。白ひげひとりも倒せずに、白ひげ海賊団を落とせるわけがないのだった。白ひげひとりに挑み続けるエースを、すでに受け入れかけている白ひげ海賊団に、エースは見殺されたかったのかもしれない。助けたところで害はないと思われるより、救う価値がないと思われるほうがよっぽど楽だった。船ごと燃やしつくすこともできるだろうエースが、それをしないということを理解されてしまっていることが、エースには屈辱だった。

「それでぶっとばせなくてぶっとばされてたな」
「そのまま放っとけば良かっただろう」
「だから放っておきゃ溺れ死ぬだろうが、能力者は」

男はひらひら手を振って、「堂々巡りだな」と言った。死ぬからなんだというのだろう。死ねばいいのだ、エースは、敵なのだから。その先を聞きたくないエースは、唇を噛んで男から目をそらした。そのくらいの覚悟もなく、白ひげと戦っていると思われているのだろうか。確かにエースは若かったが、死にたいことと死んでもいいということの違いくらいはわかるつもりだ。意味が違う。違いすぎる。海賊が海賊に情けを掛けられていると思うと、エースは無性に悔しくなった。何より悔しいのは、海の中で死んでもいいと思ったはずなのに、甲板の感触を感じた瞬間に安堵したエース自身だった。いつ落としても悔いはないはずの命を、惜しむエースが何より悔しかった。気付けば、立て膝をつく男以外にも、エースの周りには何人もの男が立っていて、エースの様子を眺めている。誰も彼もずぶぬれで、だからきっと、誰もが海に飛び込んだのだろう。仲間ではないどころか、敵であるエースのために。なんでだよ、と呟いたエースには、皆が飛びこむ理由が理解できない。くしゃりと顔をしかめたエースに、男は右腕を差し出した。

「とりあえず起きて、水でも飲めよい」
「いらねえよ」
「飲まなきゃ死ぬぞ」
「だから、放っとけよ!」

差しだされた腕を叩き落して、自力で立ち上がったエースは、動かない身体を叱責して甲板を駆け抜けた。ずぶぬれの乗組員をかき分けて、エースは走る。僅かばかりの起伏にも足を取られて、これは溺れたことよりも殴られた傷の方が効いているのだろう。「それだけ動けりゃ死なねえか」と言った男の声が耳について離れない。敵である以上、礼の一つも言えない。生きていてよかった。生きていたかった。死ななくて良かった。つまらないプライドのせいで、勝つことも死ぬこともできないエースが、エース自身でどうしようもなく悲しかった。
水を飲まないエースの目からは、もう涙も出なかった。

( 敵船から海に落ちたら死を覚悟するだろ / エースとマルコ / ONEPIECE )