あ し お と



ひたひたひた、と、人のものより随分軽い足音が聞こえて、エースは手すりに伏せていた顔をゆっくり上げた。と、目の前に青い色と顔中に羽毛の感触が広がって、少し咽た。口に入るって。羽根が。ばしばし、と青いその綿のような羽根を叩くと、羽毛の塊-というかマルコ-は少しだけエースから離れて、手すりの上で丸まりこんだ。顔だけでなく、上半身全てを起こしたエースの前で、マルコの視線は明後日の方向を向いている。けれども、エースが僅かばかり身体をずらすと、マルコもむっくりとした羽毛をざわめかせながら一歩、手すりの上を進んだ。もう一歩エースが下がると、マルコはひたひたと二歩進んで、エースの左ひじに乗り上げる。もふもふした腹毛がくすぐったくて、エースは緩みそうになる口元をぐっと噛み締めた。がっちりと手すりを掴んで、エースを見ないマルコを、エースも視界に入れないことにした。ざあ、と海面からゆるく風が吹き上げて、エースの髪とマルコの羽根をばらばらと撫でていく。不意にマルコの翼が大きく風を捕えて、ばさりと羽ばたいた。すぐ近くにいたエースの耳元を大きく切り裂くように舞い上がったマルコは、一瞬エースの視界から消えて、そしてばさりと、エースの目の前に降りた。手すりに腕を掛けたエースの、その腕の中に。

「…そういうのは、卑怯だろ」

エースがぽつりと呟くと、マルコは素知らぬ顔で羽をたたんで、ぽふんとエースの裸の胸に身体を預けた。それはとても無防備な姿で、もしもエースが少し力を込めれば簡単に、首でもどこでもへし折れるような、けれどもマルコは不死鳥なのだった。人であるときとほとんどかわらない眠そうな目でひょこひょこと歩く姿からは想像もできないが、神格化されるほどの存在、で、あるらしい。嘘だろ、とエースは思う。

エースとマルコは、一昨日小さな喧嘩をした。お互い虫の居所が悪かったところに、食事の最後、皿に残った最後の一つをどちらが食うか、で途方もなくくだらない言い争いになったのだ。普段は平気で何もかも誰かに譲るマルコも、本質的に兄貴体質が身に付いたエースも、お互いの前ではどうしようもなく素に戻ってしまう。結局残った一つはサッチにさらわれた上に、「お前ら、仲がいいのもたいがいにしておけよ」という親父の笑い声でにらみ合いは終わったが、それから今までエースとマルコは一度も視線を合わせていない。そもそも一番隊と二番隊がそういつでも一緒にいられるわけはないのだった。夜番と昼番、見張りと休憩、食事と睡眠。短い時間を縫って、それでも笑われるほどの時間を過ごすのは、お互いに努力をしていたからだ。だからそれをやめてしまえば、笑えるほどエースとマルコの時間は重ならなかった。向かいの部屋に住んでいるはずのマルコの、後ろ姿さえ見ることがない。無言で探すことさえやめてしまったエースの、それは当然の結果だったのだけれど、随分ショックを受けた。受けたことに驚いて、ますます探すのをやめてしまって、それはそれで笑われた。「早く仲直りしろよ」と言われても、エースがマルコと会わなかったのはたった二日のことなのだった。

と、いうことを、腕の中でやはりエースと視線を合わせないマルコの背中を見下ろしながら思った。動物になれるのはずるい。この姿でならどこまでも近づいてくるマルコが、エースは少しばかり歯痒くて、でも、人間の姿でなくて良かったと思ってしまうのも本当だった。両腕に感じる重みは人間の時とは比べ物にならないくらい軽くて頼りなくて、だけどこれは30をとうに過ぎているはずの、マルコなのだった。飄々と生き、淡々と暮らす、何にも興味を持たないようなマルコが、エースの前では感情を露わにする。嬉しくないわけがなかった。でも喜んでいいのかもわからない。エースはマルコに気を使いたくないが、気を張っていたくもないのだ。喧嘩は。良くない。仲直りをしない喧嘩は特に、良くない。

何も喋りそうにない不死鳥のマルコを抱くわけでもなく腕に乗せて、吹きすさぶ風に髪を任せて、エースは二回深呼吸した。マルコが。30をとうに過ぎた一番隊隊長が、子供じみた感情でエースを縛り付けるのだとしたら、エースは20を超えない子供の矜持で大人を甘やかしてやらなければならないのだろう。いつもとは逆の立場で。もっふりと腹毛の乗った右腕をそろりと抜いて、エースはそっとマルコの背中を撫でた。ゆるりとマルコの身体が震えて、そうしてようやく、マルコはエースの顔を見上げた。エースを捕えたマルコの目がなんだか、眠そうな上に困っていたので、エースは力が抜けてふしゃりと笑ってしまった。マルコの尾羽が風に煽られているのも、さらに笑いを誘う。これが不死鳥だなんて。不死鳥のマルコだなんて、どうしようもなく信じられなくて笑ってしまう。

「悪かった」

と、ゴメン、と呟こうとしたエースの声を遮って、マルコは言った。其れは何に対する謝罪だ、と聞こうとしたエースの前でマルコはもう一度大きく羽ばたいて、余韻も残さず人型に変わった。手すりの上にしゃがみこむ形で。顔が近い。ぱちぱち、と二回ほど瞬きする間に、マルコは乱れたエースの頭をさらにぐしゃぐしゃかき混ぜて、エースを飛び越えるように甲板へと降りた。鳥だった名残はもうどこにもない、かと思えば、マルコの後ろが身が尾羽と同じ形で煽られているので、エースはまた力が抜けてしまった。ずるり、と手すりに寄りかかったエースの腕を、眠そうな目をしたマルコが握る。

「今日は譲ってやるから、飯食いに行くよい」
「いいよ、マルコにやるよ」
「年上の言うことは聞くもんだ」
「年上なら、年下の見せ場を奪うんじゃねーよ」

人がせっかくあまやかしてやろうと思ったのに、とエースが呟くと、マルコは少し頬を歪めて、「もうされたよい」と言った。エースが首を傾げる間もなく、マルコは握った腕を引いて歩き出す。相変わらず吹き抜ける風はエースとマルコの髪をばらばらにかき混ぜて、そしてどこかに消えていった。

( 不死鳥のサイズは自由に変えられるということで / マルコとエース / 拍手 / ONEPIECE )