人 は は じ め に 眠 り に つ く  /  前 篇



モビー・ディックが春島に到着したのは、予定通り3月の初めだった。桜にはまだ早いが、島中に白い梅の花が咲き誇って、海の青さと空の青さの中でハレーションを起こしてマルコは何度か瞬いた。音もなく港に滑り込んだモビーからは、長旅を終えた隊員たちが明るい顔で地面を踏みしめている。あまり大きくはないが、観光客を相手にしている島なので、宿泊施設は充実していた。300を超える隊員たちは、あちこちに分散して宿を取るのだろう。羽を伸ばせということなのか、普段の給金とは別にマルコに支給された宿泊費も随分多かった。とはいえ、マルコが宿に求めるものは柔らかい布団と真水の風呂くらいだったので、こんなにはいらねえかな、とマルコは思う。まあしかし一番隊隊長という位置も含めて、見栄は張っておかなければなるまい。親父はすでに島の一番奥の領主の館に招かれていたし、気付けば甲板に残る隊員も残り僅かだった。とりあえず花見でもするか、と思ったマルコの背中に衝撃が走ったのは、タラップを降りようとした瞬間である。踏み出した足が宙を踏んで、うおッ、と内心肝を冷やしたマルコの腕を掴んだのはエースだった。ずるり、と滑りかけた足を踏ん張って体制を立て直したマルコに、エースは呆れたように言った。

「何してんだよ鈍くせえな」
「突き飛ばした人間の台詞か」
「そんなに強くなかっただろ?」

気ィ抜くなよなあ、と笑ったエースの頬を捻りあげなかったのは、マルコの自制心の賜物だ。あとは純粋に、とっくに船を降りただろうと思っていたエースがそこにいることに驚いていた。いつでも真っ先にタラップを、時にはタラップさえ使わず船べりから、島へ向かって飛び降りていくエースが、最後まで船に残っているのはとても珍しい。「二番隊は船番じゃねえよい」とマルコが言えば、「分かってるって」とエースは返す。じゃあどうしてこんなところにいる、と無言でマルコが問うと、エースはしばらく明後日の方を向いて、用もないのにポケットを探って、曲がってもいないテンガロンを弄って、もじもじそわそわした揚句、「い」と言った。い?胃か?「腹でも痛ェのか」と尋ねたマルコに、「違えよ!!」と叫んだエースは、その勢いで続けて言った。

「一緒に行こうかと思って」
「誰と」
「マルコと」
「どこへ」
「宿に」
「…はあ?」

気の抜けた声を出したマルコに、「嫌なのかよ」とエースはなんだか悲しそうな顔をしている。嫌なわけがない。というか願ってもない話だ。けれども、普段のエースならば確実に口にしない言葉であり、また基本的にエースは(マルコも)上陸時にひとりで行動している。船を上げての宴会や、誘われて飲みに行くことはあっても、最初から誰かと一緒に島へ下りることはないのだ。だからマルコは、「別に嫌じゃねえが」とあらかじめ断った上で、「でもどういう風の吹きまわしだよい」と尋ねた。そうしたら、エースはまたもじもじそわそわひとしきりその場で身を捩ってから、また「オヤジが」と一言だけ漏らした。「オヤジが?」と重ねて尋ねれば、「島の外れに、小さいけど温泉がある宿があるから、そこに2人で行ってきたらどうだって言うから」とエースは言った。さほど大きくない島の、ここは白ひげ海賊団のシマである。オヤジが穴場の宿を知っていてもおかしくはないが、「2人で」と区切ったことにマルコは少しばかり嫌な予感がした。エースとふたりで、温泉宿に。オヤジの推薦で。これは。もう、明らかに。

「敵わねえなあオヤジ…」

嘆息とともに顔を覆ったマルコに、「な、何が?!」とエースは少しばかり焦ったような声を出す。「なんでもねえよい」とエースには言ったが、マルコは心の中でオヤジに土下座した。末息子に手ェ出して申し訳ねえ。さらに気を遣わせた上に、おそらく貸し切りになっているだろう宿のことを考えて、マルコはますます伏せた顔を上げられなくなった。エースには意味がわかっているのだろうか。先ほどのそわそわが、単純に「オヤジが俺たちのこと考えてくれた超うれしい!」だったらどうしようかと思うマルコだった。ともかく、マルコがエースと肌を合わせるようになったのはそう遠い話ではないし、あわせた回数もまだ両の指で数えられるほどだ。マルコはエースをあいしていたが、エースにそれを告げたことはないし、エースからも何も言われていない。だからそれがエースにとってどういう意味を持つのか、実のところマルコにはまるで理解できないのだった。けれども今のところエースに差し出した腕が拒まれたことはないし、それでエースとマルコの関係が変わることもなかった。セックスした次の日に、隣で眠る顔を見ても、湧き上がるのは性欲より強い庇護欲で、だからマルコは今でもエースの頭を撫でることができる。つまるところはエースとマルコにとって、セックスは劇的に何かが変わるほどの意味をもつものではなかった、ということなのだろう。はあ、と溜息をついて顔を上げたマルコの前で、エースは少しだけ悲しそうな顔をしている。「そんな顔するな」とマルコが言えば、「ん、」と呟いたエースは掌で顔を擦って、それから、

「なあ」
「何だよい」
「い、…嫌じゃねえなら、俺と一緒に、止まりに行ってくれるか?」
「うまい酒と飯と寝床と風呂があるならな」

と、マルコが返せば、エースはぱあっと顔を輝かせて、「飯と酒はめちゃくちゃうまいって!部屋はタタミで、ええとワシツ?で?温泉の大浴場があって、部屋にも露天風呂が付くって!」とまくし立てるように言った。内風呂が付くと言う時点で値段が分かるような気がして、マルコは随分多かった宿泊費をちらりと思いだす。おそらく同じだけ支給されているだろうエースの分と合わせて、宿の質が理解できた。マルコはともかく、エースの趣味に合うのだろうか。畳と布団は喜びそうだったが。何にせよエースはひどくうれしそうな顔でマルコの手を引いている。「な、早く行こうぜ!」と促すエースの向こうでは、春の陽がとろとろと西へ落ちようとしていた。宿までは一本道だが、しばらく歩くと言う。マルコは覚悟を決めるようにもう一度息を吐いて、それからタラップへと踏み出した。

そこここで咲き誇る梅林をくぐり、瓦屋根の宿に辿りつく頃には日が暮れかけていた。途中の屋台で引っかかるエースにことごとく食い物を買い与えていたら、最後はエースが「もういい」と言った。さらに「俺が悪かったよ」とエースが付け加えるので、「分かってるなら次から気をつけろ」と言ったら心なしか影が薄くなった。屋台ごと買ってやったっていいくらい、マルコはエースが好きだったが、それは口にしないのだ。静かになったエースと、もともと口数の少ないマルコは、まだほとんどむき出しの土の上を歩く。「啓蟄もまだだしな」と呟いたマルコの後ろで、エースは梅の花びらを捕まえようとして道を踏み外している。ガキじゃねえんだから、と言おうとしたマルコは、エースがまだ子供であることを思い出して口を噤んだ。諦めたらしいエースは、小走りになってマルコに追いつき、さらに少し先を行く。なんだかな、と思いながら後を追う辺り、マルコだって浮かれているのだった。なにしろ、マルコはエースがとてもすきだったので。

宿に入った途端、「お待ちしておりました」と頭を下げられて、エースはひどく面喰っていた。だいたい予想していたマルコは、エースの背中を叩いて「うろたえるんじゃねえよい」と一喝する。男二人で温泉宿、と言う時点でもう全て諦めているマルコは、いまさら動揺したりしないのだった。ともかく、慌てて背筋を伸ばしたエースと共に部屋に通されて、マルコはひとまず畳に腰を落ち着ける。運ばれてきた茶に手を出す前に一通り施設の説明を受けて、夕食の時間を決めて、宿の人間が退室したところで、ようやくエースはマルコの前で深く息を吐いた。「すげえ緊張した」とエースが言うので、「何言ってる」とマルコが返せば、「俺こんなとこ泊まったことねえし」とエースはかいてもいない汗を拭うような振りをした。わからなくもない、と少し笑ってから、「こっちは客なんだから、よっぽどのことさえなけりゃ向こうがどうにでもしてくれるもんだ」とマルコが言うと、「次からは頑張る」とエースも笑った。次もあるのだろうか。それとも、ただの慣用句だろうか。どちらにしても一緒にいられたら良いと結論付けて、マルコはばきりと肩を鳴らす。夕食まではまだ少し時間があった。大浴場は、24時間いつでも利用可能だと言う。もちろん、内風呂も。満腹になったエースはいつ眠り込んでもおかしくないので、その前に一度、と考えたマルコは、「おい」とエースに声をかける。うろうろと部屋を歩き回っていたエースは、振り返ってマルコと目を合わせた。

「風呂に行かねえか」
「行く!」

早速だが、と前置きしたマルコの言葉に、エースは飛び付くように反応した。普段はほとんど湯船に浸かることのない生活を送っているので(モビー・ディックの風呂は海水だ)(そもそも海上である)、陸に上がった時くらい真水で手足を伸ばしたいと思っているのは、マルコだけではないらしい。さらに温泉だと言う。エースの前ではなんでもない顔をしているが、マルコは内心ものすごく喜んでいた。用意されたタオルと、少し考えたが浴衣は置いて、誰もいない静かな渡り廊下をつきあたりまで進む。素足に感じる木の感触は少し冷たいが、気になるほどではなく、むしろ心地良いくらいだった。やはり誰もいない脱衣所で、勢いよく裸になったエースの背中に、「中で走るなよ」と声を掛けながら、エースはやっぱり分かっていないのだとマルコは思う。それはそれで良かった。マルコはエースとセックスしたくないわけではないが、当然のようにエースにそれを求める気はなかった。何しろ負担を掛ける側であったので。からり、と木の引き戸を引いて浴場に足を進めると、エースは早速樽風呂に沈みこんでいた。目を閉じた顔があんまり気持ちよさそうなので、マルコが乾いたままのエースの頭をがしがし撫でたら、エースは片眼を開いて「マルコも入るか?」と言った。樽風呂は明らかに一人用だったので辞退して、いやでも少しもったいなかったかも知れない、と思うのはマルコが正直な証拠だった。ともかくエースの髪から腕を離して、ざっと湯を被ったマルコは、ひとまず一番大きな湯船に浸かった。ゆっくり手足を伸ばすと、少し熱いお湯がじんわりしみて、エースが眠り込んだら真夜中でも入りにこよう、とマルコはひっそりと決意した。はーー、と上機嫌なマルコの隣に、ざばりと樽風呂から抜けだしたエースも加わって、しばらくふたりで立ち上る湯気を眺めていた。

「気持ちいいな」
「そうだな」
「マルコ熱いお湯好きだよな」
「まあな」
「…もっと熱くするか?」

と言ったエースがいきなり半身を炎に変えようとするので、「湯船の中ではやめろ」とマルコは止めた。「水の中で能力は使えねえだろうが」と諭せば、「まあそうなんだけどさ」と、エースはあいまいな表情と声で笑った。その、エースの顔が妙に赤いので、「もしかしてお前熱いのか」とマルコが言うと、「自分が火になってれば平気なんだけどさあ」と、湯船の縁に身体を預けたエースは、逆上せ始めているらしい。「もう上がるか?」とマルコが尋ねれば、エースはゆるゆると首を振って、「もう少し」と言った。それから、「露天なら平気かも」と言って浴槽を抜けたエースの身体が真っ赤なので、心配になったマルコも付いていくことにした。そもそも能力者にとって、真水だろうが温泉だろうが水は危険物なのだった。ふらついているのはそのせいもあるだろう。温泉にはたくさんのミネラルも溶け込んでいることだし、もしかしたら成分は海水に近いのかもしれない。舐めて見てしょっぱかったらちょっとアウトだな、と思いながら、マルコは割と平気なのだ。やっぱり体質の差か?と思いながらマルコはしばらく露天に浸かって、どうしても自分から「上がる」とは言わないエースに、夕食の時間をほのめかして、脱衣所と渡り廊下を経て部屋に戻った。エースはしばらく紅い顔をしていたが、夕食を終える頃にはすっかり元に戻っている。腹が減って体調が悪かったのかも知れない。

2人とは思えない量を飲み食いした後で、さらにマルコが酒を飲んでいると、宿の人間について部屋を出ていたエースが帰ってきた。「もう少ししたら布団敷いてくれるってよ」と、嬉しそうなエースの手にはなぜか茶菓子が握られていて、だからいつの間に誰に懐いているんだとマルコは少しばかり肩を落とした。餌付けしたくなる気持ちは良くわかるが。一瞬で菓子を食い終えたエースは、手酌で飲んでいるマルコに向かって「なあ」と言った。「なんだよい」とマルコが目線を上げると、エースは満面の笑顔で「梅見に行こう」と言った。

「梅、って今からか」
「おー、夜もキレイなんだって、宿の人が」
「へえ、」

と、マルコが答えともため息ともつかない声を返すと、「宿の裏から少し行くと梅林があるらしいから、見に行こうぜ」とエースは重ねて言った。夜桜ならぬ夜梅である。少し考えて、「酒も残ってるしな」とマルコが呟くと、「追加してくれるって、料理も」と勢い込んでエースは言った。すでに交渉済みらしい。まだ食うのか、と思わないこともないが、エースの限界はまだ先であることを知っているので、それについてマルコは何も言わなかった。わくわくした顔でマルコを待っているエースが可愛くて、可笑しくて、マルコはゆるく笑う。立ち上がりながら、「ちゃんとシャツの前は留めて行けよい」とマルコがエースを指すと、「もう春だからいいんじゃねえの」とエースは言った。お互いにいくらでも体温を上げられる能力ではあるし、確かに問題はないと思うが。

急かすエースの後について宿の玄関まで行くと、先ほど迎えてくれた人間が風呂敷包みと酒瓶を抱えて立っている。「ありがとう」と言って受け取るエースに、宿の人間はどこまでもにこやかだ。マルコも軽く会釈をして、エースの腕から酒瓶を抜き取る。引き戸を潜ると、春の夜の匂いと、梅の香がした。

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