理 解 か ら も 誤 解 か ら も 遠 い と こ ろ で



2月も終わりに差し掛かったある日、船は春島に向かっていた。グランドラインではないに等しい四季を、それでも感じたいというオヤジの希望で。「いつ見られなるか分からないからな」と笑う声に賛同はしないが、冬が終わったばかりだというのに紅葉を見せられたり、真冬にぎらつく太陽を眺めるよりは良いものだった。船内を吹き抜ける風はまだ冷たいが、それでも匂いがもう少しずつ冬ではなくなっていて、ぬるくゆるい空気にああ春が来るんだ、とエースは思う。珍しく机に向かっていたエースは、広げていた書類を見るともなく眺めて、ぐぐ、と大きく伸びをした。見ていてもわからないものはわからない。そもそも、二番隊隊員の支出額なんてものをエースが把握しているわけがないのだ。できた隊員たちは-諦めているとも言う-各自で額をまとめてエースに渡してくれたのだが、結局計算するのはエースなのだった。無駄遣いしているわけでもないのだから、もうこれで提出してもいいかな、と、一覧表をちらりと眺めて、いややっぱダメだ、とエースは首を振った。誰が許しても、オヤジや出納係が許してくれても、許してくれない奴が1人いる。中途半端に計算された紙にもう一度向かって、二度三度と見直して、やっぱりわからなくて、エースはとうとう「がたり」と音を立てて椅子を引いた。わからないものはわからない。ので、分かる奴に聞きに行こうと思う。絶対に許してくれない1人に。

紙とペンをまとめて持って、インクは向こうで借りよう、と思いながら、エースは何もないエースの部屋の扉を開いた。目指す、という程の距離もなく、数歩でたどり着いた向かいの部屋の扉を、エースは二度ノックする。「いるか、マルコ」と声をかければ、「いるよい」とやる気の無さそうな声が帰ってくるので、エースは躊躇いなく扉を開いてマルコの部屋に踏み込んだ。エースの部屋を反転させた造りのマルコの部屋で、マルコはベッドにうつ伏せて本を開いている。別にいいけど、少しくらいこっち向いてもいいんじゃねえのか、と思いながらエースがベッドに膝を掛けると、マルコは振り向きながら「何か用か」と言った。計算を教えてほしい、と言おうとして、振り向いたマルコの顔を見たエースの口からはまるきり別の言葉が飛び出す。

「眼鏡なんかかけてたか」
「細かい字を読むときは、たまにな」
「へー…」

それって老が、と言いかけたエースの脛に思い切りマルコの裸足の爪先が食いこんで、エースの声は鈍い悲鳴に変わった。グラディエーター履いてるときじゃなくて良かった。でもいてえ。エースは、マルコのベッドに上半身から崩れ落ちて脛を擦った。そこまで年食ってるわけでもないくせに、マルコは年齢の話に敏感すぎる、とエースは思う。どうにかこうにか痛みを宥めて、「怒るってことは図星なのか?」と重ねて尋ねたエースに、「そろそろ本気で殴られてえのか」とマルコは返して、「遠慮します」とエースは即答した。「まったく仕方のない奴だよい」と呟きながら、マルコはベッドの上に起き上がる。眼鏡のままで。手に持ったまま皺になってしまった書類を伸ばしながら、エースもマルコに向き直った。

「で、何の用だよい」
「これ、教えてもらおうと思って」

どれだ、と言うマルコに向かって、エースは折り皺のついた書類を差し出す。受け取ったマルコは、薄いガラスの向こうでしばらく目を細めて、「お前これ提出日は昨日だろうが」と言った。「そうだったか?」とエースが返せば、「お前が泣きついてこねえからおかしいとおもったよい…」と心なしかマルコは肩を落としている。皺になった書類を持ったまま。マルコは、とエースは心の中で整理する。マルコは優しいのかそうじゃないのかたまにわからなくなる。エースが頼ればいくらでも応えてくれるが、そうでないときはほとんど接触することもない。もちろんマルコがエースに頼ることもない。必要と不要、それだけを見れば、エースはマルコに不要な存在なのかもしれない。エースにとってマルコがどれだけ必要でも、マルコにとってのエースはきっとそうではないのだ。ただ、それだけではないから、エースが傍にやってきてもマルコはエースを邪険に扱ったりはしないのだろう。オヤジに対しては、いくらでも好きなだけ、"好きなだけ"でいられるエースが、マルコに対してどうして"それだけ"でいられないのかはよくわからなかった。エースがぼんやりと、ガラスの先のマルコを眺めていると、「何呆けてやがる」とマルコは言った。

「さっさと収支合わせて持ってかねえと、今年一年食いっぱぐれるよい」
「えっ、そうなのか?」
「提出しねえと給料下げるって言われただろうが!」
「ええ?俺の?!」
「お前だけじゃなくて隊員全員分だよい!!!わかったか?!」
「わかった!やる!やります!でも教えてください!」

それは困る、と顔色を変えたエースの前で、マルコは深くため息を吐いている。エースの前で、マルコはこんな顔ばかりしている気がする。あまり笑ってはいない。呆れたような、困ったような、怒ったような。困ることは、エースはマルコのそんな顔があまり嫌いではないということだ。構ってもらえることが嬉しくて、ついろくでもない軽口ばかり叩いてしまう。…いやまあ、老眼については本当にそう思ったのだけれど。「さっさと座れ」とマルコに椅子を引かれて、エースの部屋の机より遥かに大きくて立派なマルコの机に向き直る。皺になった書類とエースのペン、そしてマルコのインクと、横に計算機も並べられた。1脚しかない椅子をエースに譲って、マルコはといえば腰をかがめてエースの肩口から顔を出している。「俺、立っててもいいんだけど」とエースは言ったが、「俺が座ってたら俺が代わりに計算する羽目になるだろうが」と、マルコはまるで意に介さない。「けどよ」と言い募ろうとしたエースに、「いいから手ェ動かせ」と、いつも通りの眠そうな目でマルコは言った。言葉以上の感情はないのだろうマルコに、エースはなんとなくじんわりしながらペンを手に取る。結局、必要なのは足し算と引き算だった。ただし膨大な量の。


「…終わった…」

エースがマルコの部屋に押し掛けた時はまだ高かった陽が、傾くどころかすっかり沈みきって暗くなって月が高くのぼった上に傾く頃、つまりは深夜と言うか翌日の早朝と言うか、それくらいの時間になってようやく計算は終わった。途中でうんざりしたエースが見切りをつけようとするのを何度もマルコに叱られた上に、部屋から出ることも許されずに食事を運んでもらったり、それも区切りがつくまで食べさせてもらえなかったり、何度も眠りこけそうになるところをその度に(比喩ではなく)たたき起こされたり、ともかく計算は終わった。しわくちゃだった紙も、マルコが出してくれたあたらしい紙に清書してすっかりきれいになった。「やればできるなあ俺」と呟いたエースに、「最後まで貯め込むからこういうことになるんだろうが」とマルコが水を差す。文句を言おうとしたエースの前で、マルコが大きくあくびをしたので、エースは口を開いたまま何も言わなかった。こんな時間まで付き合ってくれたのだ。それこそろくに部屋から出ず、食事も部屋で取って、脱線しそうになるエースの手綱を取って。

「…あー、…」

気まずいような、くすぐったいような妙な気分になって、エースはマルコから目を反らす。申し訳ないのか嬉しいのか良くわからなかったが、総評としては嬉しいのだ、とエースは思う。書類が上がったことももちろんだし、ずっとマルコが一緒にいてくれたことも、最後まで付き合ってくれたこともとてもうれしい。まあエースがマルコの部屋にいる以上、マルコが部屋を出ていく理由もないので、「一緒にいる」というのが正しいかどうかはわからなかったが。エースは少し考えて、インクを仕舞うマルコに「なあ」と声を掛けた。

「ああ?」
「今日ここで寝てもいいか?」
「…なんでだよい」
「もう夜遅いし、部屋戻るの面倒だし」
「向かいだろうが」
「面倒だし」
「椅子の上にベッドまで譲れ、ってことかよい」
「いや、…うん、悪い、なんでもねえ」

手を止めたマルコが、それこそ呆れたようにエースを見下ろすので、エースはなんだか悲しくなった。エースはマルコのベッドを取りたいのではなく、が、確かにシングルサイズのベッドにエースとマルコがぎゅうぎゅうに寝ている姿も想像しづらかったし、寝ている間にマルコを蹴落とさない自信もなかったので、それ以上言い募るのはやめておこうと思う。それでも、2月の夜はまだ少し肌寒くて、ベッドとシーツの温度はとても冷たいので、エースは人のいない部屋に帰りたくはないのだった。もういっそ隊員の雑魚寝部屋に押しかけようかな、とぼんやり思ったエースの前で、マルコはゆっくり息を吐いた。はあ。溜息にしては軽く、ただの呼吸にしては深すぎる温度で。なに、とエースが声をかけようとしたところで、「お前が端に寝ろよ」とマルコは言った。

「え、」
「俺は壁際で寝るから、お前は端っこで寝ろ。落ちても拾わねえし責任も取らねえ。毛布も半分しか譲らねえ。それでも良けりゃここで寝ろ」
「え、でも」
「嫌なら帰れ」
「嫌じゃねーけど」
「じゃあ、さっさと片付けて寝るよい」

俺はもう眠い、と言ったマルコは、机の上に散らばった紙をまとめてエースのペンで抑える。「書類は明日…もう今日だが、起きたらすぐ出してこい」とマルコに言われて、エースはこくりと頷いた。よし、と頷き返したマルコがエースの頭をわしわし撫でるので、「なんだよ」とその手を押さえたら、「まあ割とがんばったからな」と、マルコは言う。答えになってねーよ。眼鏡をはずして、上着を脱ぐマルコをぼんやり眺めていたら、「お前もブーツくらい脱げ」と言われて、エースも慌てて装飾品を外した。と言っても、今日はブーツとベルトくらいだったが。「脱いだものはそこらへんにまとめとけよい」とマルコが言うので、エースはベッドの下の隙間にブーツとベルトを押し込む。マルコ自身は、みっちり詰まった壁際の棚に無造作に眼鏡を置いている。上着はベッドの端に引っ掛けていた。「裸足であんまりうろうろするな」と言ったマルコに「おう」と返して、エースはベッドの端に腰を下ろす。ランプの灯を消したマルコがベッドにもぐりこんで、壁際を剥いてエースに背を向けるので、エースもマルコの背中に背中を付けて横になった。シーツは冷たかったが、エースの裸の背中からじんわりとマルコの体温が伝わる。おかしくて、エースが少し笑うと、「思い出し笑いは気持ち悪いからやめろよい」と眠そうな声でマルコは言った。思い出したんじゃなくて今おかしいんだ、とは言わずに、「わかった」とエースが返せば、「素直なのもそれはそれで気持ち悪いよい…」とマルコも笑った。失敬な、とエースは思ったが、マルコが温かいので文句は言わなかった。なあ、と言いかけたエースの後ろで、「おやすみ」とマルコが言うので、「おやすみ」と返してエースは目を閉じる。眠りに落ちるまでは三秒とかからなかった。
窓の外では春の雨がやさしく水面を叩いていた。

( 収支決算の季節/賃金制の白ひげ海賊団/ マルコとエース / ONEPIECE )