マ ゼ ン タ と シ ア ン の 古 い 心 臓 の 色



2/14だった。男だらけでどうしようもなくむさくるしい海賊船の中では浮ついた空気などひとかけらもない…かといえば、そうでもない。数少ない女性クルーとナースと、それからコックが毎年協力して全員分のチョコレートを作るのだ。少しばかり形が崩れていても、量が少なくても、あからさまに義理だったとしても、もらえる物はもらっておきたいのがこの時期の心境だ、と、目の前で熱く語るサッチを、マルコは冷めた目で眺めている。マルコの部屋に押し掛けたサッチは、「ほらこれためしに作ったからってくれた」と、飾り気のない皿に盛られたチョコレートを差し出した。義理チョコの失敗作、つまりは家族用か?サッチやマルコの立ち位置を考えれば正しいのかも知れないが、ものすごく空しい気がしなくもない。とはいえ、甘いものが嫌いではないマルコは差しだされた皿からあまり形の良くないそれを一つ摘まんだ。甘くてほろ苦い。

「コーヒー味か?」
「っていうか焦げてんじゃねえの?」
「…ああ…」

っつうかなんで焼いてあるんだコレ?と首を傾げながら、サッチはひょいひょいと試作品を口に運んでいる。さすがに飲み物なしでそこまで食べられないマルコは、途中からサッチを眺めるだけになった。「うまいか」と尋ねれば、「まあ気持ちのこもったもんだからな」と返されて、義理の失敗作に込められた気持ちを想像して、マルコは少しばかり嘆息する。サッチは大物だ。ただの大馬鹿かもしれないが。というわけで、最後の一つに伸ばされたサッチの手を遮って、マルコの指が皿を空にした。ほろ苦い。まあ、食えないことはない。

「仏頂面で食うなよ」
「相手がてめえじゃなけりゃ笑顔で返すよい」
「ナースとか若い子ならって?発言がおっさんだぜマルコ」
「お前は発想がおっさんだ」
「あ、渇いたな」
「人の話を聞け」

ベッドから立ち上がって、壁一面に作りつけられた棚を漁るサッチの後ろ姿に向かって毒を吐く。見えるところに並んだ安酒ではなく、ごそごそと本の裏側を探って隠してあった酒瓶を見つけ出すあたりは付き合いが長いにも程があるということだろう。「コレ開けていいか」と尋ねるサッチに、「せめて隣にしとけ」とマルコが返したのは諦めではなく妥協だった。全力で付き合っているとマルコの精神力が持たない。「おう」と返事したサッチはいそいそと蓋を開いて、やはりその辺に置かれていたカップとコップにとくとく注いだ。ほらよ、と片方を差し出されて、マルコはカップを受け取る。一口含んだところで、マルコの頭上、つまりは甲板で歓声が上がった。「お、始まったか」と、やはりコップを傾けながらサッチは面白そうに言った。壁に背を預けた形で。何が始まったのかと言えば、ナースと女性クルーによるチョコの手渡しだった。年中行事でもあるし、本気で楽しみにしている野郎も多い。おそらく先頭で満面の笑みを浮かべているだろう輩を思い浮かべて、マルコは笑えばいいのか泣けばいいのか良くわからなかった。食い物を前にしたエスの破壊力はとんでもない、と思う。マルコがもう一口カップの中身を啜りこんだところで、「そんな顔してんならお前も上にいりゃよかっただろ」とサッチは言った。「何の話だよい」と素知らぬ顔でマルコが呟けば、サッチはふふん、と鼻で笑ってもう一杯コップに酒を注いだ。ほら、と促すのでマルコがカップを差し出すと、溢れそうなほど並々注がれて慌てて口を付けた。「危ねえだろ」と呆れたようにマルコが目を細めれば、「サービスだよ」とサッチは少しばかりコップを持ち上げて言った。全く嬉しくない。ああそうかい、と適当に呟いて目を反らすと、「うっすい反応だな」とつまらなそうにサッチは口をとがらせる。いつまでも、子供のようなことを言う。会話が止まると、部屋には甲板での喧騒が遠く、でも確かに響いた。足音と、歓声と、それから。

「で、お前は渡さなくていいのかよ」
「何を」
「用意してんじゃねえのか?」

あの火の玉小僧に何か、と問われて、マルコは思い切り眉根に皺を寄せた。あまりにもくだらない。「寝ぼけるのも大概にしろい」と、(どうして俺が用意するんだよ)を悟ん外に含ませてマルコが返せば、「お前は諦めがいいからなあ」と、飄々とサッチは言ってのけた。「っていうか、無駄なことに期待しねえし」と、そこで一度言葉をきったサッチは、遠くで聞こえるナースとクルーの喧騒をちらりと眺めて頬を吊り上げた。何が楽しい。そうして、「もらえるかどうか悩む以前にあいつが用意するわけもねえからせめて自分で用意してホワイトデーに期待してやれなんて考えてたんじゃねえのかと思って」とサッチに指さされて、マルコはますます不機嫌さを募らせていく。にや、とあいまいに笑うサッチの指をぱしりと跳ねのけて、マルコはふいとそっぽを向いた。「くだらねえこと言ってる暇があったら昨日提出予定の書類でも揃えてこい」と、マルコはひらひら手首から先を振る。あっちへ行け。振り返らなくてもサッチが笑っていることが分かって、マルコの機嫌はさらに低気圧だ。雷でも雨でも落ちて、サッチ自慢の頭がぐしゃぐしゃになってしまえばいい。鳥の巣になったら俺が住んでやるよい、と無駄なことを考えて、マルコは少しばかり溜飲を下げた。意地でも振り返らないことを決めたマルコの後ろで、サッチは面白そうに息を吐いた。

「まあなんでもいいけどよ、お前エースには言わねえの?」
「何を言えって?」
「書類の提出期限だよ」

この日のイベントとはまるで無関係のものを持ち出されて、少しばかり喧嘩腰だったマルコの声はぽっかりと宙に浮いてしまった。わかってやっているのだろうサッチは、それでもマルコの一番脆い所を突いたりはしないのだった。ハァ、と溜息を吐いたマルコの後ろで、サッチはまだ笑っているのだろう。「…あとで行くよい」と呟いたマルコに向かって、「頑張れよ」と軽い声を残したサッチは、飲み終えたコップを持ったまますたすたとどこかへ行ってしまった。書類は、今日提出されるだろうか。たぶんされないだろう。

面倒くせえな、ともう一度溜息を吐いたマルコは、雑多に並んだ壁際の棚の、一番奥に無造作に置かれた紙袋を見上げた。図星だった。サッチの言葉には何一つ間違いはない。少しだけ違うところがあると言えば、ホワイトデーにすらほとんど期待していないというところだろうか。我ながら女々しいと思うが、マルコはエースに何かくれてやる機会が欲しかったのだ。エースがバレンタインを知らないとは-正式な意味は理解していないとしても-思わなかったが、エースの生まれた土地とマルコが育った環境での「バレンタイン」は別物である可能性が高い。それでも、何も考えずにチョコレートを用意してしまったのは、それが一番喜ばれると思ったからだ。エースには食べ物が一番似合う。花も、アクセサリーも、上着も靴も本も、いっそのことタオルや歯ブラシといった日用品でもティッシュなんかの消耗品でも、なんでも良かった。けれども、結局行きつく先はそれしかなかったのだ。エースが食べたものは、最終的にエースになる。マルコの送ったものが、エースを形作る一部になるのだ。それはなんて、愛しい感覚だろう。

「気持ち悪い思考回路だな…」

はあ、ともう一度溜息を吐いて、マルコはばたりと仰向けにベッドへ倒れ込んだ。船室特有の低い天井には、海水や炎やその他もろもろの要素でたくさんの染みが浮き上がっている。いっそ燃やしてやろうか全部、と物騒な考えが首を擡げて、マルコはゆっくりと首を振った。ダメだ。どうしようもなかった。マルコは恋をしている。30をとうに過ぎて、それでも20を超えないエースを好きになってしまった。エースは人に好かれる男で、無邪気な割に聡明で、かと思えばとんでもない無茶をしでかして、親父を殺そうとした数週間後に親父に抱きついて、むさくるしいクルーの中で特別可愛い顔をしているわけでもなく、良く食って良く笑って良く動いて良く眠って、子供のようだと思えば年齢からも間違いなくまだ子供で、それでもあっという間に二番隊隊長におさまって、当たり前のようにマルコの隣を歩いている。目が離せなかったのは最初からだった。親父がエースを気に入った瞬間から、マルコにとってもエースは大事な弟分だったのだ。それがどうしてこうなってしまったのかは、わからないわけでもない。エースはマルコが好きだという。それは含みも裏表も何もない真っ直ぐに純粋な感情で、だからあまり真っ当でも真っ直ぐでもない大人のマルコはそれだけで圧倒的に打ちのめされてしまった。それなりに辛かったり重かったり腐ったりする人生を送ってきたはずのエースは、それを糧に、あるいはだからこそ人の感情にとても敏感だ。好きだと言われたから好きになった。マルコにとってそれは青天の霹靂、としか言いようがない。こんな子供を好きになって、マルコに何のメリットもない。もちろんエースにもない。おそらく気付いているサッチや、その他隊長や一部の隊員やナースや親父は、それぞれに焚きつけたり宥めたり面白がったり多種多様だが、マルコにとってはどれも迷惑だとしか言いようがなかった。

エースは、おそらくマルコを拒まない。それはいっそ確信と言っていいほどの真実で、エース以外の誰にも否定されはしないだろうと思う。マルコがエースを好きなように、エースもマルコを好きに、なることは簡単だ。少しだけ後を押して、少しだけ言葉と態度で示せば簡単にエースは手に入る。何しろ、そもそもエースはマルコが好きなのだ。好きと言う気持ちに種類があることはわかるが、エースのそれはマルコと同じものだった。それくらいは分かる。わからないのはエースだけだ。熱を孕まないことがいっそ清々しいくらい、エースはマルコが好きだった。マルコはそんなエースが好きだった。「じゃあ何も問題ねえだろ」と呟くサッチの声が聞こえた気がして、マルコはごろりと寝がえりを打った。進展したとして、その先に何があるのか分からない。それが怖い、とマルコは思う。人を好きになるのは一瞬で、好きになってしまえばそれ以上どうしようもない。それこそ血の青い10代から今まで、こいつ一人だと決めた人間は正直エース一人だったわけでもない。けれども今はエースが好きだった。
その事実が怖い。

つまるところ、マルコはエースを好きでい続けることと、エースに好かれ続けられることに自信がないのだった。この年になると、船内での恋愛に踏み切る勇気もあまりない。破局した後のエースとの関係も怖い。エースとセックスしたくないわけではないが、セックスした後に頭を撫でられなくなったらそれはそれで困るのだった。マルコはエースを可愛がりたいのだ。マルコにとってエースは恋愛対象であり、庇護対象であり、可愛い弟分であり、正直息子のように見えることもあり、だからつまりはそうした全てがギュッと詰まった愛しさなので、どう扱っていいのか分からないのだった。いっそもう少し幼いか、もっとずっと年かさだったら話は別だったかもしれない。19、という絶妙な年齢が、マルコの足を鈍らせている。もっと可愛いか、もっとずっとゴツイか、どちらかだったらさらに簡単だった。マルコはエースを犯したいと思ったことはないのである。そこまで切羽詰まってもいないし、そこまでエースに魅力があるわけでもない。中途半端な状況で、それでもチョコレートを準備してしまったマルコがこれからどうすればいいのかを教えてくれる人間は誰もいなかった。サッチはいたが、アレは別だ。面白がっているだけだし。

「あーーー、」

もう自分で食うか、と唐突にマルコは思った。そうだそうしよう。エースを形作れない食べ物を、捨ててしまうのは忍びないし、誰か別の人間に渡すのも癪だった。自分で。それこそバレンタインにチョコレートを渡せない女子のような心境で、滑稽で、悪くない。エースの好みとマルコの見栄を総動員したチョコレートは、たぶんきっとかなり、美味いはずだった。そうと決まれば。よっ、と声をかけて起き上がったマルコは、飲み物をもらうために部屋を、出ようと、扉の取っ手に手を掛けようとした。ところで、突然扉が開いて、空を切ったマルコの腕を、目の前に現れたエースが掴んだ。

「う、おっと、何、ごめん、びっくりした」

ノックもなしに突然扉を開けたことは棚に上げたようなエースの発言に、マルコは何か返そうとして、エースが手に持ったものを見て何も言えなくなった。小奇麗な紙に包まれたそれは、明らかにナースと女性クルーの合作だ。「何か用か」とぶっきらぼうに言ったマルコの声に気を悪くすることもなく、「上にいねえからどうしたのかと思って見に来た」とエースは言った。「どうもしねえよい」と首を振ったマルコに、「そっか?」と疑問形で返して、当たり前のようにエースはマルコと一緒にマルコの部屋に立っている。部屋を出ようとしたはずのマルコは、それで部屋から出られなくなった。もちろん、一番奥にしまったチョコレートも取り出せない。「チョコいらねーの」とストレートに尋ねられて、「さっきサッチが失敗作をもらってきたから食った」と言えば、「何それ俺も欲しい」とエースは目を輝かせて、「もうない」と言うのが忍びないくらいだった。一瞬で肩を落としたエースは。それでもマルコに向かって小奇麗な包みを差し出す。「マルコの分、預かってきたから」というエースを見ながら、これは明らかにサッチの差し金に違いないとマルコは思う。ありがたくないわけではない。エースがマルコに会いに来る理由を、マルコがエースに会う理由を作ることは意外と難しいのだった。一番隊と二番隊、それぞれの隊長がずっと同じ場所にいたのでは、隊員にも親父にも示しがつかない。マルコはエースを可愛がりたいが、あからさまにそれをしてしまってはエースのプライドにも傷がつくだろう。19にもなる男の頭を散々撫でておいて今更かもしれないが。

「じゃあまあ、食うか」

なりゆきでまたベッドに座りこんだマルコの前で、エースはすとんと床に腰を下ろした。椅子を使え、と言ったマルコに、「なんか上の熱気がすげーから、床で涼みたい」とエースは返す。確かに、例年のことながら300人の男が一同に列を作る姿は凄まじい。見たくもない。薄紙から、試作品よりいくらか薄い色のチョコレートを取りだす間も、エースがマルコの手元から目を離さないので、「お前の分はどうしたよい」と尋ねれば、「もう食った」と予想通りの答えが返ってきてマルコは少しばかり溜息をつきたくなった。少し考えて、「…食うか?」とチョコを差し出したが、「マルコの分だろ、マルコが食えよ」とエースは言って、ますますマルコはいたたまれなくなる。「じゃあそんなもの欲しそうな目で見るなよい」とマルコは言えば、「見てねえよ」とエースはぶんぶん首を振った。いや、見てるっての。見られてるって。食いづれぇな、と思いながら、それでもマルコがチョコレートを口に運ぶと、一挙一動を見守っていたエースは「うまいか?」と尋ねた。妙な事を聞く、と思いながら、「まあな」とマルコが返せば、「そっか!!」とエースは、花のように笑った。花と言ってもスミレやら雛菊やらではなく、朝顔やヒマワリと言った顔中が光で溢れるような、そんな花だ。どちらにしても野郎を花にたとえる時点でマルコの頭も相当沸いている。

「エース」

と、マルコがエースの名を呼べば、エースは「ん?」と笑みの残る顔で軽く首を傾げた。可愛いわけがないのだった。エースは19で、男で、それほど可愛くもないどちらかと言えばファニーフェイスにそばかすを散らした180cm超えの健康的な肌をした上半身裸の人間だ。冷静になって考えればマルコにだってわかる。これに、浴場しようとするマルコはわりとチャレンジャーだ。しかも突っ込む方で。ろくにあえぎ方も知らないだろうエースに。その時を考えると、マルコはわりと萎えるのだった。きっとまるで可愛くないのに、マルコにとっては可愛くてしかたのないだろう顔や表情や、その他もろもろを考えて、萎えることがないだろう自分に萎えるのだった。

「…はーー…」

しかし可愛い。溜息をつこうが目薬を差そうが考え直そうが可愛いものはかわいいので仕方がない。仕方がないので、マルコはがりがりと頭をかいて、まだ残っているチョコレートの包みを脇に置いて立ち上がる。「どうかしたのか?」と尋ねるエースに、「コーヒーもらってくる」と返して、それからついでのように「お前腹減ってるか」と尋ねれば、「減ってる」と正直な声が返って少し笑った。「食堂に行ったら何か食わせてくれるだろい」と言ったマルコに、「あー、…いや、も少しここにいるよ」と言うので、マルコはますますその時を想像して笑わずにはいられないのだった。逡巡せずに、本棚の一番奥から紙袋を取り出してエースに向かって放り投げる。ぽこん、と鈍い音を立ててエースの肩に当たった包みは、一度回転してちょうど良くエースの膝におさまった。「なにこれ」とエースが尋ねる声には直接答えずに、「食っていいぞ」とだけ返してマルコはマルコの部屋を後にした。包みを開くエースの顔は見ない。どんな顔をされても、頭を撫でる以外の選択肢が今のマルコには無いからだった。それは帰ってきてからでもできる。

飛びきり濃く入れたコーヒーに少しだけココアを混ぜたら、エースは気づくだろうか。
マルコが返ってくるまでにチョコレートが無くなっているかいないか、それと同じくらいの確率で気付かないだろうエースに、マルコはあまり期待していない。ともかくマルコはエースが好きで、エースはマルコが好きだった。それ以上もその先もそれから後も、全ては成り行きでどうにでもなる。何か考えているようであまり何も考えていないマルコは、だからエースの頭が撫でられる距離にいられたらそれで割と満足なのだった。気付かないエースがその距離を歯痒く思っていたとしても。ひとまずチョコを渡したことで気が楽になったマルコは、今日も提出されないだろう書類の提出期限をひっそり来週まで延ばすことに決めた。

マルコが閉じたマルコの部屋の扉の向こうで、エースがどんな顔をしているか想像もせずに。

(焼きチョコ / もちろん焼いたのはエース / マルコとサッチとエース / ONEPIECE )