飛 び 立 つ 瞬 間



ある日、エースが甲板で目を覚ますと、隣でマルコが眠っていた。大の字になったエースとは対照的に、マルコは片膝を立てた上に腕を組んで頭を乗せている。トレードマークの刺青が、今は見えない。おやじとあにきなのに、と、ぼんやりマルコを眺めているうちに、少しばかり薄暗いことに気付く。もう夕方か?と首を捻って、捻った先は明るい。ん?と、エースがもう少し良く眺めると、マルコの羽根がエースにかかかる陽を遮っていた。マルコの背中から伸びる羽根が、エースに差す陽を遮るように影を落としている。青い空に蒼い羽根が、ゆるいコントラストを描いていた。めったに変わらないのに珍しいなあ、と思いながら、半分寝ぼけたままエースはマルコの羽根に手を伸ばす。翼の先をきゅ、と掴むと、マルコはわずかに体を揺らして、腕に埋めていた顔を上げて、エースを見た。

「お、はよ」

エースがぱっと手を離すと、両腕とは別に生えた翼がぱさりとはためいて、蒼い羽根が何枚か、仰向けのエースに柔らかく落ちた。「エース」と、マルコは眠そうな目でエースを呼ぶ。エースが羽根をつまみあげるのと同時に、マルコは人型に戻っている。午後の光がエースの目を灼いて、反射的に瞼を閉じた。そう間を開けずに、もう一度日が翳るので、エースがそろそろと目を開けると、目の前にマルコがいた。正確には、マルコの顔があった。なんだこりゃ、と思ったエースの顔に、マルコがさらに近付いて、エースは一瞬息を飲む。と、次の瞬間、マルコは眠そうな顔でにやりと歪めて、「口」と言った。

「え、くち?」
「ガキじゃねえんだから、涎垂らして寝てんじゃねえよい」
「へっ?」

あわてて拭おうとしたエースの手を止めて、マルコの指がエースの口元をぐいぐい擦った。いて、「いてえよ」とエースが言うと、「ああ悪い」と、まったく悪びれない顔でマルコは少し笑った。あ、珍しい。マルコは、普段あまり表情を変えない。生真面目とも不真面目ともとれる、少し眠そうな、そして少し不機嫌そうな顔で船を見ている。船全体を見ている。そのマルコが眠いわけでも不機嫌なわけでもないことは、モビーに乗って3日でエースにも分かった。マルコはいつだって皆の先を行く。エースの腕を引いてくれたのだってマルコだった。エースにとって、親父が白ひげだとしたら、マルコは兄貴だった。同じモビーに乗る仲間は皆兄弟だけれど、それでも、エースにとって一番の兄はマルコだった。マルコが傍にいると、エースはいつでも楽に呼吸ができる。気負っていてもそうでなくても、マルコさえいてくれたらエースには何でもできるような気がしていた。年の離れた兄貴っていいなあ、と、あまり年の離れていない弟を思い出しながら、あんな可愛げは俺にはねえけど、とエースは思う。エースがもっと可愛かったら、マルコはエースにどう接していただろうか。エースがぼんやりとマルコの顔を眺めていると、どうしたよい」と、マルコはエースの頭をわしゃわしゃと撫でた。あー、だから気持ちいいんだって。また眠くなってきたエースの上で、マルコは少しだけ首をかしげて、「もう寝るな」と言った。なんで、と、唇だけで言ったエースに、「俺がそろそろ忙しいからだよい」と言って、マルコはよいせ、と立ち上がる。「おっさんくせえ」と言ったエースに、「お前といくつ違うと思ってる」とマルコは返して、エースの脇腹を軽く蹴った。痛くはないけれど、痛かった。

「ほら、お前も起きろ」
「やだよ、まだ眠ィ」
「甲板でごろごろしてんじゃねえ」
「マルコも寝てたじゃねえか」
「俺は、」

「あ」と口を開いた形で声を止めたマルコは、がりがりと頭を掻いて明後日の方を眺めた。「何だよ」、と言ったエースに向かって、「何でもいいだろい」と言ったマルコの顔は普段より少しだけ歪んでいて、何だよ、とエースは思う。だってさっきは笑ったのに。突然態度を変えられても困る。だってエースはマルコが好きなのだ。青い空に溶け込むような蒼い翼も、エースの炎では燃やせない蒼い焔で出来ている。顔も声も指も、笑っても笑わなくても、撫でられても蹴られても、たとえ突き放されても、最初に掴んだ腕の温度が、いつまでもエースには残る。残るはずだ。マルコが何も感じないとしても。寝転がったままだとマルコが遠いことに気付いて、エースもむくりと体を起こした。マルコはまだエースの隣に立っているので、手を伸ばして手を握ってみる。「何だよい」と、マルコは呆れたような声を上げた。握り返してはくれない。でも振りほどきもしなかった。

「なあ」
「ああ?」
「もうちょっと、寝ようぜ」
「俺は遠慮する」
「じゃあなんでさっきは寝てたんだ」
「…まあそれは、不可抗力だ」
「はあ?」

何それ、良くわかんねえ。エースが首を傾げると、マルコはエースが握っていない方の手でエースの頭を撫でて、「いいから、お前もそろそろ中に入れよ」と言った。ますますわからなくなって眉をひそめたエースの右腕をあっさりと離して、「じゃあな」とマルコはすたすた歩いていく。マストを回って、船室の脇に入ったマルコは、甲板の真ん中にいるエースから簡単に見えなくなってしまう。エースは、握っていた掌をぐにぐにと動かして、まだ降り注ぐ太陽に翳した。ほんの少しだけ燃やしてみる。焔は蒼くならなかった。掌をかざしてみても、甲板はとてもまぶしい。どうしてマルコはここにいたんだろうか。ぽつん、と浮かんだ疑問は消えない。

「何で、」
「何でって、お前の日除けだろ」
「うわびっくりした」

不意に耳元から声がして、エースは一瞬飛びあがった。この船の人間は厄介だ、とエースは思う。何しろ、意図的でもそうでなくても簡単に後ろを取られるのだ。もうずいぶん慣れたけれど、最初は飛び上がるどころでは済まなかった。少しくらい燃やしても死なない奴らでよかった。エースが振り返ると、一番燃やされかけただろうサッチが、笑いたそうな、でも困ったような妙な顔でしゃがみこんでいる。「変な顔」とエースが言えば、「お前らよりマシだ」とサッチは返した。お前らって。

「いつからいたんだよ」
「ずっといたぜ?お前らが仲良く寝てるところから、お前がマルコの手ェ握るところまで」
「声かけりゃいいだろ」
「…ああまあ、お前はそうだろうけどな…」

笑いたそうな、でも困ったようなサッチの顔に、どことなく疲れたような色が加わって、エースはやっぱりわからなくなる。「サッチもマルコと手ェ繋ぎてえのか?」とサッチに尋ねれば、「どこから来たその発想」と即座に帰ってくるので、エースが羨ましかったわけではないらしい。それはそうか。エースとマルコよりもずっと、マルコとサッチの距離は近い。年齢も過ごした時間も、追いつけるものではない。羨ましいのはエースの方だった。少しだけ恨みがましい視線を送りながら、サッチの最初の言葉を思い出す。

「…日除け?」
「いや遅えって」
「うるせえな、日除けって何だよ」
「だから、お前が眩しくねえようにわざわざ羽根広げて隣に座ってたんだろうがあいつは」
「…はあ?なんでだよ」
「そこから伝わってねえんだよなあ…」

苦労するよなあいつも、とサッチが溜息を吐いて、その仕草が少しマルコに似ているので、エースはやっぱり羨ましくなった。俺だって余裕が欲しいのに。蒼くない炎しか出せないエースは、だから本質的にマルコには近づけないような気がしている。あしたもあさってもその次も、エースはきっとマルコの後を追うしかないんだろう。隣に並びたいのに。そこはもう埋まっている。「俺マルコに嫌われてるかな」と呟いたエースに向かって、「だからその発想はどこから出てくるんだよ」とサッチは言って、「それはあり得ねえから安心しろ」とエースの肩を叩いた。だから、なんでサッチがそれを分かるんだよ。

「だってあいつお前のことすげえ可愛がってるだろ」
「可愛くねーだろ俺は」
「そうか?割と可愛いぞ。俺もお前が好きだしな、わりと」
「俺もサッチはすきだけどよ」
「おお、じゃあ両思いだな」

はっはっは、と笑ったサッチは、ぐしゃぐしゃエースの頭を掻き交ぜて、「まあ、だからお前はもう少しマルコを好きになってやれ」と言って、ひらひらと手を振りながら歩いて行った。エースにはやっぱり良くわからなかった。だってエースはマルコが好きなのだ。けれども、エースはマルコに嫌われていないらしいし、サッチはエースがすきだという。じゃあいいか、と思いながら、マルコとサッチに荒らされた髪を少しだけ直す。もともともつれている癖毛だから、たいして気にはならない。
ひとつ伸びをして、エースは甲板を後にした。ふたりとは別の方向に向かって。

(しつこくマル→エー。早くくっ付いてくれ(サッチ) / マルコとエースとサッチ / ONEPIECE )