翼 は た め く も と



船に打ち寄せる波が弾けて、水面が白く泡立っている。白ひげ海賊団は、夏島に停泊していた。傘下にある全ての島のエターナルポースを所有する白ひげ海賊団の行き先は、島から島への磁場に左右されることはない。波から波へ、気ままに航海を続ける季節もあれば、船員の入れ替えと息抜きを兼ねて長い停泊を行う月もある。今はどちらでもない、補給のための短い停泊機関だった。短いといっても、優に千人を超える船員を抱えた船の補給には1週間以上かかるし、若い船員たちにはたまの休暇も必要である。
というわけで、船番に当たったマルコが率いる一番隊を除くほぼ全ての隊員は、船を下りて自由に行動していた。二番隊の隊長であるはずのエースも、隊員を見送ることなく真っ先にタラップを駆け下りて行った。食い逃げはするなよい、というマルコの声が届いたのかどうかも怪しい。食い逃げ自体が悪いわけではない、とマルコは思う。いや悪いのだが、海賊である以上ある程度の悪さは大目に見てやる必要がある。しかし、エースの場合は少しばかり外聞が良くないのだ。仮にも白ひげ海賊団の隊長格が、てめえの食い扶持すら稼げないような状況では困る。そもそもエースは金を持っていないわけではなく、持ち歩かないだけなのだ。働きに応じて支給される"給料"のほとんどを船の金庫に預けたまま、ほぼ手ぶらでふらついている。エースの過去から察すると、使い方が良くわからないのかもしれない。自分のものは自力で手に入れる、それは海賊として確かに正しいのだが、と、そこまででマルコの思考はいつも振り出しに戻る。正直なところ、普段のエースを見て"火拳のエース"だと気付く人間はあまりいないので、それはそれで構わないのだった。船と親父にさえ迷惑をかなければ、多少のことには目を瞑ろう。と、マルコは今日も結論付けた。

空は快晴である。甲板にはデッキブラシを抱えた隊員と、補給のための買い出しに出かける隊員でごった返している。こんな日には甲板掃除にも身が入るだろう。何しろ水遊びのようなものだ。新入りも若造も古参の隊員も、楽しそうに水を跳ね返している。最後まで混ざることができない-汚れを落としているのは海水だ-マルコは、水の届かない端で隊員を眺めている。溜まった書類整理のために一度は部屋に引っ込んだのだが、身が入らなくなって帰ってきてしまったのだ。マルコにもそんな日はある。というかよくある。できれば面倒なことは全て副隊長に押し付けてしまいたいと思っているくらいなのだが、すぐ下の二番隊隊長がそれをして叱られている姿を見てしまうと、さすがに真似をするわけにもいかなかった。年齢的にも立場的にも、エースには見栄を張っていたい。というのは、マルコだけではなく他の隊長たちにも同じことが言えるようだ。実力が物を言う海賊船とはいえ、実力と経験はほとんどイコールで結びつくもので、見習いに毛が生えたような年の若造が隊長に付くことは異例中の異例だった。エースができることはできて当たり前、エースができないこともできて当たり前、というのが、一晩隊と三〜十六番隊隊長のひそかな協定である。面倒くせえことになった、と思わないでもないが、やればできることをやらずにいた付けが回ってきたのだとすれば仕方がない。
まあでも今は、エースがいない。マルコにとっても気を抜ける一週間だ。エースといて気が張るわけではないのだが、無償の信頼を寄せる様を見せつけられると、それに応えなくてはいけないような気になる。無駄な見栄である。あと三年もして、エースがマルコよりも立派な隊長になったら立場も変わるのだろう。割と楽しみにしている。きっと皆、楽しみにしている。

ともあれ、空は快晴だ。波は青く、雲は白く、太陽は近く、気温は高く、日陰は涼しい。隊長格に雑用を言いつける輩はいないし、マルコがここで横になっていても誰も咎めはしないだろう。おそらく。くああ、と大きな欠伸をして、マルコは首の下に両腕を差し入れた。害意を持つものが近付けば気づくだろう。目を閉じて、眠りに引き込まれた瞬間を、マルコは覚えていなかった。

肩口をゆすられて、マルコはびくりと目を開いた。眠りから急速に覚まされた身体は、少しばかり震えている。開いた目の先に見えたのは、船を下りた筈のエースだった。しばらくマルコが動かずにいると、エースはぺたんと腰を下ろして、「おはよう」と言った。「ああ、おはよう…?」とマルコが返すと、「もう日が暮れるぜ」と空を指してエースは笑った。空の頂点はまだ青かったが、太陽は沈みかけている。随分寝てしまったらしい。甲板掃除も、今日の補給もとっくに終わったらしい。見ればマルコの腹には洗いたてのタオルがかけられていて、少し離れた所には蓋つきのグラスと籠が置いてある。引き寄せると、元は冷たかったのだろうドリンクとサンドイッチだった。何それ、とエースが言うので、「たぶん昼飯だ」とマルコは返した。腹が減っていたので、遠慮なくかぶりつくことにする。エースが物欲しそうに見ているので、あーん、と口を開けさせて、一番大きな切れ端を突っ込んでやった。しあわそうに物を食う男だ。もぐもぐと口を動かすエースにドリンクも分けてやってから、ふたりで手を合わせた。ごちそうさま。ぱたぱたと口元に付いたパン屑を掃いながら、エースは「うまかった」と言った。何よりだ。

「ていうか飯も食わずにいつから寝てたんだよ」
「お前が降りて一時間くらいしてからだ」
「長!夜寝られんの?」
「眠れなきゃ寝なきゃいいんだよい」
「それなんか違わないかマルコ」

マルコ、と、マルコの名を呼んで笑うエースの頬が、昨夜より随分日に焼けていることに気付く。ほぼ毎日半裸で潮風に焼かれているというのに、不安定なグランドラインの海を半月進むよりも夏島の照りつける太陽の下で半日遊ぶ方が強いらしい。「なんでお前はこんなときこそ帽子を被って行かねえんだい」と、マルコが色の違う瞼の下を擦れば、「だって熱いじゃねえかテンガロン」と当然のようにエースは言った。日に当たりすぎると馬鹿になると言われたことはないのだろうか。それとも、子供だから日の光には強いのだろうか。どちらにしてもエースは明日も帽子をかぶらないのだろう。まあなんにせよ、エース。

「ところでなんでお前が船にいるんだよい」
「今日は船に泊まろうと思って」
「また金を持っていかなかったのか?それとも食い逃げしすぎてどこも入れてくれなかったのか」
「どっちでもねえよ!いつもそんなんだと思うな」
「前科がありすぎるんだよい」
「…それは否定しねえけど」

当然だ、とマルコは思う。船に乗ってから、隊長になってから、今年に入ってから、どれを数えても片手では足りないのだ。エースの自由奔放な部分に惹かれるものは多いが、それが危ういものであることは否めない。大人びた物腰と経験不足を補って余りある知識に格闘センス、けれども時に子供じみた言動と食い意地の悪さ。アンバランスな部分がエースの魅力であり、そして欠点だった。惹かれているマルコが言えたセリフではないのだが。あと三年もしてエースが本当に大人になった時、その魅力はなくなってしまうのだろうか。それともいつまでも子供じみた部分を残して成長していくのだろうか。できれば後者であって欲しいと思う時点で、マルコもたいがい子供じみている。日はいよいよ水平線の彼方へ消えようとしていた。それでもずいぶん明るいのは空気のせいだろうか。日が沈めば、夏島の短い夜がやってくる。久々にエースを晩酌に付き合わせてやろう、と目論んだマルコの前で、「あ、そうだった」と、エースがハーフパンツのポケットを探っている。何だ、と思ったマルコの前に、エースが握って拳を差し出した。

「何だよい」
「手出せよ」

いいから、と促されてマルコが掌をエースに向けると、エースはマルコの掌の上で握った拳を開いた。からん、と音を立てて転がったのは、青と赤の石だった。ターコイズとカーバンクル、だろうか。荒く磨かれた裸石は、マルコの掌で鈍く輝いている。それがどうした、と思ったマルコに向かって、エースは「それ、やるよ」と笑った。それほど高価ではない石だ。それでも、そこいらに転がっている石でもなければ、この島に鉱山があるわけでもない、歴とした宝石だった。エースの宿代と、やたらとかかる夕食代、それくらいにはなるだろう。少し考えて、「どういう風の吹きまわしだ」とマルコが尋ねると、「色が似てた」とエースは言った。

「こっちがマルコで、こっちが俺」

ターコイズブルーとガーネットレッド。指さしたエースは、「なっ?」と得意そうに笑っている。無造作にポケットに入れていたくらいだから、本当にそれだけで購入したのだろう。掌に転がる石を眺める。マルコの炎とエースの炎、だろうか。何と答えていいかわからなかった。いらなくはない。けれども、これを受け取ってしまっていいものだろうか。引き出しの一番奥にしまうか、いつでもポケットの中に忍ばせておくか、どちらにしてもとてもエースには言えないような扱いをしてしまいそうだ。きっとその辺の棚に無防備に転がしておくと思っているだろうエースの顔が、少し憎たらしい。ゆるく息を吐いて、マルコはカーバンクルを摘まみあげた。

「こっちだけもらっておくよい」
「え、両方やるよ?」
「これは、お前が持ってろ」

掌に残ったターコイズを、エースの前に落とす。不満そうな顔をしたエースに、「これが無くても、俺にはこの色が見えるからいいよい」とマルコは言った。しばらく考えてからエースは、「じゃあ逆じゃねえかな」と言った。どういう意味だ、と思ったマルコに、ターコイズを突き付けて、「うん、やっぱ似てる」とエースは頷く。今は不死鳥ではないのに、どこにそんな色があるというのだろう。首をかしげたマルコに、エースは至極当然のように言った。

「だってマルコにはマルコの目の色は見えねえだろ?」

だからやっぱり両方持ってろな、と、エースはマルコの掌にもう一度ターコイズを落とし込んだ。夕焼けに染まるエースの瞳の中で、エースの炎が紅く揺らいでいる。青く晴れた空の色と、赤く染まる空の色をそのまま映しこんだような石を手にしたまま、マルコはしばらく口を開けなかった。今日の夕飯何かな、俺いても怒られねえかなあ、と能天気に喚くエースに向かって、マルコはようやく「もしも食えなかったら俺の分をやるよい」と絞り出すような声を出した。「じゃあ、もしもそうなったら半分こな!」と、満面の笑みで言ったエースは、三年後でなくても十分立派だった。

( やる気のないマルコもいいと思う / マルコとエース / ONEPIECE )