ソ ー ダ 水 の 海 で ひ と つ に な る



薄いシーツに包まって、エースは7度目の寝がえりを打った。まだ薄暗い船内は、夜が明けきらないことを示している。ふいに目が覚めたエースは、それからどうにも寝付けなくなってしまった。体温で温まった生ぬるいシーツが気持ち悪くなって、跳ねのけてみるが結果は同じだった。体の下のシーツも皺だらけになってしまって、9度目の寝がえりの後でエースはしぶしぶ寝床から起き上がる。眠れる時に眠れるのが長所なのに、と呟くエースに、眠っちゃいけないときに眠ってしまうのは短所です、と突っ込んでくれる優しい人間はいなかった。エースは一人部屋なので。薄暗いエースの部屋はがらんと空っぽで、当たり前だがエース以外の誰もいないし、エース以外の誰のものもない。もう少し物を置くかな、と思わないこともないが、不要な物を置いても仕方がない。マルコの部屋は物で溢れかえっているから少し分けてもらおうか、ともエースは思うが、それはきっとマルコが嫌がるだろう。マルコは、戦闘以外でエースをあまり信用していない。育った村では弟の、率いた船では船員の、この船では隊員たちの面倒を見ている自覚があるエースにとっては少しばかり不服だったが、エースよりずっと先を行くマルコからしてみればエースはまだまだ子供なのだろう。子供であることを認めるのは、エースが少し大人になったからだった。何よりも、元から身一つで乗った船だった。この船を降りるときは死ぬ時だと、覚悟と言うほどのことでもなく単純に決めているので、やっぱりその時もエースは身一つなのだろう。これまでも、これからも、それまで身軽でいるに越したことはない。

もう少しだけがらんとした部屋でぼんやりしていたエースは、ぐうっと伸びをして起ちあがった。寝巻にしていたハープパンツ一枚にサンダルをつっかけて、そっと扉を開ける。隊長格の居住区は、隊員の居住区よりも上の階にあるので、下への騒音には気を使うのだ。そんなことで眠りを妨げられるような神経を持った奴がいないとしても、夜明け前の空気を壊すのは忍びなかった。ふあああ、と大きな欠伸を一つこぼして、きゅうきゅう鳴る廊下から階段に進み、突き当たりの梯子をのぼり、上げ蓋をあげる。強い風がエースの癖のある黒髪をさらって行った。エースは弾みをつけて体を引き上げ、上げ蓋をぱたんと閉じる。故郷と同じ、海風の匂いがした。夏の海の匂いだ。仄暗い甲板はすこし湿っていて、夜の間にスコールが落ちたことを示している。雨音では欠片も目を覚まさなかったのに、何がそんなに寝付けなかったんだろうな、と考えながら甲板を進む。サンダルの底がきゅうきゅう鳴って、少し楽しくなったエースは甲板を端から端まで走ることにした。どうせ誰もいない。見張りは遥か上に、そして遥か先を見ている。よーい。どん!と、一人で炎弾を打ったエースは、清涼な空気を掻きわけて走る。温く湿った気配に、裸の上半身はすぐ汗に濡れた。前甲板まで息も切らさず走りぬけたエースが、ハンドレールの前でぴたりと足を止めると、「何してんだ」と耳慣れた、少しばかりの呆れと諦めを含んだようなマルコの声がした。ばっ、と体を向ければ、ハンドレールに肘をついたマルコの姿が見える。メインマストからは見えない角度だったとしても、誰かがそこにいて気づかないほど、エースは鈍くない。とすればそれは、意図的に隠されていたのだ。

「なっ、…んで気配消してんだよ」
「癖みてえなもんだ。お前こそ何全力疾走してんだよい」

朝っぱらから、とマルコに鼻で笑われて、エースはむうっと眉をしかめた。むっつりとした表情で、「どうでもいいだろ」とエースが言えば、「そうだな」と返してマルコはハンドレールの外に視線を戻す。モビー・ディックを越えた視線の先には、暗い蒼い青い碧い海がどこまでも広がっている。白波を立てて青を切り裂く姿は、確かに大きな鯨のようだ。元から切らしてもいなかった息を整えて、エースもマルコの隣に並ぶ。3mほど間を開けたことに意味はない。あまり近づきすぎて、マルコが船内に戻ってしまったら気分が悪いだけだった。マイペースを崩さないマルコは、融和的でありながらパーソナルスペースを重視している。きちんと船に乗ってすぐ、食事中に何げなく手を伸ばして避けられたことは、実はエースの中で軽いトラウマになっている。誰とでも打ち解けるわけではないが、打ち解けた相手に拒絶されたことのなかったエースは、だから手を差し伸べたマルコがエースの腕を避けるとは微塵も思っていなかったのだ。隊長格に上り詰めたエースは、マルコと格段に気安い仲になったが、それでもわずかながら気を使って接する癖は抜けない。どうでもいい人間にどう思われようと気にしないが、どうでもよくない人間にはエースを好きでいて欲しい。つまり、俺はマルコがすきなんだな、と他人事のように思いながら、エースは肘をついた上に顎を乗せて、3m向こうのマルコをちらりと眺めた。ゆるく開かれたマルコの瞼は、どこかをみているようなどこもみていないような、けだるい空気に包まれている。

「何見てんの」
「夜明けだよい」
「夜じゃん」
「もうすぐだ」

ほら、と長い指をまっすぐ伸ばしたマルコの、指の先で光が弾けた。暗い蒼い青い碧い海の淵が金色に染まって、空の端が緩やかにグラデーションを描く。金色は瞬く間に海を染めて、そして大きな金色の太陽が姿を見せる頃には、空と海がまばゆい光の渦に包まれていた。瞬きする間に色を変える姿に、エースはしばらく息を詰めていた。夜明けだった。初めて見るわけでもない、これが最後と言うわけでもない。けれどもエースは、この夜明けを一生忘れないという自信があった。魔法のようだ。マルコがその長い指先で、夜と太陽と空と海と、そして朝を操ったような気がした。圧倒的な金と青、ただそれだけの色が、何千何万の彩りを紡いでいる。神々しいほど。やがて、太陽が水平線から顔を出しきり、海と空が鮮やかな青色に変わってしまうと、エースはゆっくりと肘を離して、マルコに向き直った。マルコは胸ポケットを探って、ひしゃげた煙草の箱を取り出している。一本手にとって咥えたマルコの、煙草の先に赤い灯が燈った。ちらりとエースを一瞥したマルコは、軽く目を瞑ってありがとよい、と言った。指先に青い焔を揺らめかせながら。

「俺、」

とエースが口を開きかけると同時に、マルコの吐いた煙がエースの目を塞ぐ。目を瞑ったエースの耳に、おやすみ、と言うマルコの声が聞こえて、あわてて目を開いたエースの前にマルコはもういなかった。かろうじて、閉まりかけた樫の扉だけが視界の端に移る。何を言いかけたのか忘れてしまったエースは、マルコを追いかけるわけにもいかない。マルコの残した煙草の残り香は、瞬く間に海風が流してしまった。青い焔を揺らめかせたマルコのように、エースも指先を炎に変えてみる。揺らぐ色はどこまでも赤色で、朝日より夕日に似ていた。白鯨は今も波を蹴立て、水面を金色に輝かせる太陽に乗り入れようとしている。

「、そうだな」

親父にはきっと、あの太陽すら掴むことができる。少し笑って、エースも輝く海に背を向けた。一日が始まる。昨日と同じ、明日とも変わらない、けれどもただ一日だけの今日が。すでに乾き始めた甲板を音もなく進む。全力疾走はしない。先ほどかいた汗はもうすっかり引いていた。メインマストを回って、上げ蓋を上げて、梯子は使わずに一気に飛び降りる。ひとりでにしまった上げ蓋は少しばかり軋んでいたが、気にしないことにした。すり減った階段を下って、廊下を進んで、突き当たりの、二つ並んだ扉の前で立ち止まる。右がエースの部屋。左はマルコの部屋だ。

「おはよう」

マルコが呟いた「おやすみ」に、正反対の言葉をかけて、エースはがらんとした部屋の扉をくぐる。サンダルをブーツに履き替えて、装飾品をつける。ナイフは左に、ログポースとリストバンドも左に。重ねて嵌めるバングルは右に。最後にオレンジ色のテンガロンハットをかぶれば、エースの部屋は本当にからっぽだった。これでいい、とエースは思う。誰にも、何も残りはしない。マルコがまどろむ間、エースは親父のために命を賭けるのだ。エースが眠る間、マルコがそうしているように。

いつか、3mより近い距離まで辿りつけるように。
( 仲がいいのか悪いのかわからないふたりがすき / マルコとエース / ONEPIECE )