ま ば ゆ い 春 に 伸 び た 影



ある春の昼前、マルコが甲板に顔を出すと、隊員たちが洗濯をしていた。マストからマストに、マストからハンドレールに、それぞれ縄が渡されて、絞り終えた白が翻る。いかつい男たちがずらりと盥と洗濯板の前に顔を並べ、洗剤と格闘する姿はある意味壮観だ。そういえばさっき一番隊の奴が部屋の寝具を引っぺがして行ったな、と他人事のように考えながらマルコが当てもなく歩いていると、ばしゃりと水を跳ね返す輩がいる。なんだ、と目を向ければ、そこには邪気だらけの笑顔を浮かべた二番隊隊長が腰をおろしている。当然のように盥と洗濯板を装備して、だからつまりエースは、一緒に洗濯をしていた。

「おはよーございますマルコ隊長」
「気持ち悪い呼び方はやめろ」

ばっさりと切り捨ててエースに背を向けようとすると、エースはにやにや笑いながらマルコの上着の裾を掴む。泡だらけの手で。じっとりと湿った感触にマルコが眉を潜めると、まあ座れよ、とエースは水だらけの甲板を指さした。嫌だ、と言っても聞きはしないのだろう。精一杯不快な顔をしながら、それでも諦めて腰をおろすと、エースはマルコから目を離して洗濯板に手を伸ばした。今はシーツを洗っているらしい。ふんふん、と上機嫌で汚れを落とすエースをしばらく眺めて、「何か用か」と言ったマルコに、「暇だったから声掛けただけ」とエースは事もなく返した。そんなことだろうとは思ったが。マルコはがりがりと頭を掻いて、叱り付けるか、このまま立ち上がるかどちらにしようか考える。しかしこんな人の多い場所で、隊長が隊長を叱り付けるのも示しがつかないだろうし(いまさらという気もするが)、ここを離れてどこに行くわけでもない。さらに言えば、エースは働いているのだった。今現在、何もしていないマルコのほうが幾分分が悪い。はああああ、とマルコがため息をつけば、マルコの逡巡を見透かしたようにエースは笑った。朝を過ぎた甲板にはさわやかな風が吹いて、干し終えたタオルやシーツやシャツや下着を揺らしている。グランドラインの気候は当てにならないもので、海賊なんて人種は洗濯ものを貯めこむ習性があるので、からりと晴れあがる日にはざっと100人分の衣類が翻るのだ。マルコも含めて。水仕事のしやすい季節で良かったな、と思いながらマルコがエースを見たり、見なかったりしている間に、エースは盥一杯の洗濯物を洗い終えたらしい。隊長格の洗濯なんて誰でもやりたがるだろうに、エースは誰にもそれをさせない。小さい頃から慣れてるんだ、と誇らしげに言う姿に、そうじゃねえだろ威厳の問題だ、と誰も告げないのはエースがまだ若いからだ。プライドを保つためにすることで、プライドを折ってしまっては元も子もない。そのうち分かるようになるだろう。

「よっし、」

と満足気に声を上げたエースは、わずかに浮いた額の汗を拭って、隊員に濯ぎの真水を要求している。いったん絞った洗濯物を、バケツ数杯分支給される真水で慎重に洗い流すエースの姿は真剣そのものだ。けれどもエースの額には、汗を拭う時についたらしい泡が盛大に白く残っていて、マルコは思わず噴き出した。マルコの声にわずかばかり手を揺らしたエースは、何だよ、と手を止めてマルコを睨む。泡だらけの額で凄んだところで何の迫力もなかった。くっくっ、と喉を震わせながら、マルコは手を伸ばしてエースの額を拭ってやる。いつまでも子供のようだ。そこがエースの魅力だった。マルコの手の甲に移った泡を見て状況を悟ったらしいエースは、「あー、悪い」と言ってマルコの手を掴む。何を、と思うマルコの手に、バケツ数杯分の真水の一部がばしゃりとかけられた。それは慎重さのかけらもない手つきだったが、エースにとってマルコの腕は濯ぐ価値のあるものだったらしい。自分の額は適当に拭ったエースは、洗濯物を濯ぎ終えて盥をひっくり返している。マルコ、とエースが言うので、返事はせずに視線を向けると、「コレ絞るの手伝ってくれ」とシーツを差してエースは笑った。

「一人でできるだろい」
「できるけど。二人のほうが楽だろ」

干すのもきれいに干せるしな、と言うエースの視線が少し遠い所に向けられていたので、ああそれは例の、故郷に置いてきた弟としていたことなんだろう、とマルコは思い当たる。エースの中のきれいな思い出は、全て弟と作られている。ように見える。おい、遠くに行っているエースを呼び戻して、マルコは手を出した。「早く貸せ」と促せば、遅れて笑ったエースがシーツの片端をマルコに向ける。せーの、とエースが声をかけ、ぎゅう、とマルコも力を込めれば、瞬く間に絞り出された水滴が甲板をぽつぽつ濡らした。あらかた乾いた洗濯物を手に、メインマストから伸びる綱に向かうエースの後にマルコも続く。ばさり、と広げたシーツは真っ白で、それをぴんと張って干したエースはとても満足そうだ。シーツを干してしまって手持無沙汰なマルコを尻目に、エースは楽しそうに他の洗濯物を止めていく。寝まき代わりのシャツ、少し厚手の長袖、ハーフパンツ、下着、リストバンド。昼前の風に煽られて、それらは気持ちよさそうにそよいだ。

「うし、終わり」

最後の布をぱちん、と止めて、エースは大きく伸びをした。一仕事終えた充足感に浸っているらしい横顔を眺めていると、あ、盥、と思いだしたらしいエースは踵を返す。けれども、エースが使っていた道具はそのまま別の隊員に引き継がれていた。片付けずに済んだ、と笑うエースは面倒事から解放された顔で、だから、だったら最初から、とマルコは心の中で呟く。それとこれとは別のことだと言うのだろうが。なあ、と声をかけるエースに、あぁ、となおざりにマルコが返すと、「アレ、午後には乾くと思うか?」と、青空を背にはためくシーツを指してエースは言った。

「この天気が続けば乾くだろうよい」
「そっか、じゃあ昼寝できるな」
「いきなり汚す気かお前は…」

と、呆れと若干の非難を込めてマルコが言えば、「寝るだけで別に汚さねーよ!」とエースは怒鳴った。けれども、エースがよくシーツを涎で濡らしていることをマルコは知っている。マルコだけでなく、この船に乗る者なら誰でも知っていた。何しろ、この年若い二番隊隊長はどこででもよく眠っているので。という視線をマルコが送っていると、エースはわずかに顔を染めて「気をつけて寝るからいいんだ」と言い訳がましいことを言った。まあ自分で洗濯しているものであるし、いつどう汚そうと構いはしないのだろう。好きにすればいい、とマルコが言えば、「気をつけるって言ってるだろ」とエースが噛みつくので、面倒くせえなあと思いながら「分かってるよい」とエースの頭を撫でた。特に意味はなかった。わしわし、とおとなしく撫でられたエースの頭から手を離すのと同時に、マルコは踵を返した。随分長いしてしまったが、マルコは甲板に空気を吸いに来ただけだったのだ。部屋に戻れば開いたままの海図がマルコを待っている。歩き出したマルコの背に、エースの声がかかった。

「マルコ!」
「なんだよい」
「手伝ってくれてサンキュ!!」

マルコのシーツ届けるのは俺がしてやるから、と言ったエースに、皺にしないでくれよい、と振り返らないまま右手を挙げて、マルコは甲板を後にした。時刻は昼前から昼頃に変わっている。薄暗い船内に目が慣れるまで、マルコの瞼の裏には青空と真っ白なシーツの映像が焼きついていた。


ともかく、真水で流された泡の香りが残るシーツは、エースを良い夢へと誘うことだろう。
( 所帯じみた海賊船です / マルコとエース / ONEPIECE )