L i f e i s b u t a d r e a m
小さな振動で目が覚めた。軽く頭を振って起き上がると、窓ガラスの向こうにバトーが立っている。バトーを待つ間、腕を組んでシートにもたれた形で寝入ってしまったらしい。振動は大きな手が硝子を叩く音だった。覚醒しきらない頭でロックを外すと、冷気とともにバトーが乗り込んでくる。ずしりと車体の軋む音がした。 「留守番中におねんねか?いい身分だな」 「疲れてんだよ、報告書まみれでな」 あんたの溜めた、と言外に滲ませると、バトーはにやりと笑って何かを放って寄越した。無防備に受け止めてしまってから、その熱さに思わず顔を顰める。缶コーヒーだった。微糖の。缶を転がして熱を逃がしながら、幾分高いところにあるバトーの顔を見上げると、冷めたコーヒーはまずいんだろ、としたり顔で促された。 「体あっためて目ェ覚ましな。今日はもう上がりだってよ」 「ああ…聞いてる」 サンキュ、と呟いてコーヒーを啜る。暖房の効かない車内で冷えた身体には痛いほど熱いばかりだっ たが、びりびりとした感覚はじんわりと体内に留まっている。半分ほど飲んだところでぐるりと方を回してキーに手をかけた。行き先は公安9課ビルだ。静かに動き出した車内に音はなく、バトーは肘を突いて外を眺めている。その横顔をちらりと見やって、重くも軽くもない息を吐く。バトーとふたりきりで、息詰るような空間ではないことが不思議だった。 三日前のことだ。 普段と代わり映えのない夜だった。観客のいないカーチェイスと肉弾戦を終えた勤務時間終了後、報告書をまとめるうちに日付が変わってしまった。本来自分と同列に仕事をするはずのバトーが姿をくらましたのは二時間も前のことで、おそらく今頃は自宅の(セイフハウスの?)一室で高いびきなのだろう。もしくは酒盛りだ。そうに違いない。バトーはこうした作業が苦手なわけではないのに、向き不向きを盾にしてするりと逃げていってしまう。その態度に腹が立たないわけでもなかったが、荒事に関してバトーに随分助けられているので文句を言う気にはなれなかった。 資料を探る作業を止めて、強張った米神を揉み解す。そろそろ休憩を挟まないと能率が落ちる。徹夜も悪くはないが、休めるときに休んでおかなければ非常時に役に立たない。役立たずの人間はここではいないのと同じことだ。シビアな上司の顔を思い浮かべて少し笑う。いかにも彼女が言いそうなことだった。 ぎゅう、と伸びをしてインターフェイスを押し上げる。シャワーを浴びて仮眠室、明朝は勤務開始時間より早く起きて残りを仕上げること。電脳内にきっちりメモを残すと、灯りを落としてオフィスを後にした。 ロッカールームには当然誰もいなかった。今日の当直はサイトーだが、彼とは先ほど自動販売機の前で擦れ違ったところだ。こんな時間までと訝しげなサイトーに、報告書が終わらないと告げれば、仕方がないというように苦笑される。無理はするなよ、そっちこそと生身同士の言葉を交わして、紙コップを手にダイブルームへ向かうサイトーを見送った。清潔なタオルを手に、手早く服を脱いだ。シャワーはいつだって適温に設定されている。熱い飛沫に目を閉じつつ、これで浴槽があれば文句はないんだがな、とちらりと思った。ぎゅう、とコックを捻って水を含んだ重たい髪を絞る。がしがしと水分を拭いながら腰にタオルを巻きつけた。さっぱりすると気分が軽くなるものだ。無機質なスチールの扉が白く影を落とす蛍光灯の下で、きちんと畳まれた着替えをそろえながら今日は会えない家族を思う。随分負担をかけているだろうに、いつだって笑って迎えてくれる。優しくて柔らかい妻と子を胸の中で抱きしめて、明日は絶対定時に上がる、と決意してパンツを手にしたところで、ロッカールームの扉が開く音がした。サイトーだろうか。お疲れ、と声をかけようと振り返って目に入った人物に、思わず気の抜けた声が飛び出した。 「旦那?」 ロッカールームに一歩踏み込んだ形で佇んだ長身のシルエットは、二時間以上前に逃げ出したはずのバトーだった。どこか重苦しい上着も、まだくっきりと頬から首筋にかけて残る傷跡も、見えない位置に巻かれた包帯もそのままで。何かを言おうと口を開いて、けれどもまずは中に入るよう促した。そこに立たれていては中が丸見えだ。生娘ではあるまいし、今更半裸を隠すようなこともなかったが、見せびらかすようなものでもない。立ち止まっていたバトーはそれを理解したのか、慌てて扉を閉めるとそのまま扉に寄りかかって腕を組んだ。何をしに来たんだろうか。シャワーを浴びに?それとも荷物をとりに。どうして今更。じっとりとした視線を送り続けると、バトーは居心地悪そうに呟いた。 「もう帰ったかと思ってたぜ」 「〜〜〜帰れると思うか?」 あまりといえばあまりのバトーの台詞に、ひくりと米神が引き攣った。二時間前の、俺の様子を見て、それを言うのか、と一区切りごとに力を込めてバトーを睨みつけると、ちらりと一瞬だけ視線が合ってから目を反らされる。 「…なんて格好してんだお前は」 「シャワー浴びたとこだっつの。あんたこそ報告書放り出して何してんだよ」 「ハンガーでタチコマに囲碁仕込んでた」 「はああ?いい加減にしろよな…」 がしがしと濡れた頭をかいて溜息を吐く。今頃はもうベッドの中だと思っていたのだ。今日は珍しく神経に障る怪我をしていた、だから何も言わずに振り向くこともなく立ち去る踵を見送ったというのに。サイボーグに休息が必要ないわけではないだろう。脳が生身である以上、全身生身よりも厳密な「睡眠」が必要なはずだった。お定まりの筋トレに走らなかったのはバトーなりの気遣いだったのかもしれないが、こちらの気遣いは思い切り空回りだ。そんなことなら報告書を書かせて家まで送り届けたほうがよほど早かったかも知れない。呆れて物も言えずにいると、バトーはなぜか苛立ったように、悪かったから早く服を着ろ、というようなことを言った。そんなことはどうでもいいはずだ。 「男の裸なんてどうでもいいだろ。見たくないなら出てけ、そんで早く帰れ」 「…見たいから困ってんだろ」 「はあ?」 一瞬何を言われたかわからなくて間の抜けた声を上げてしまった。バトーの言葉はいつだってどこか婉曲されているので、そのまま受け取ってはいけないことはわかりきっている。けれどもバトーの表情を見る限り、普段のにやついた様子はまるで見て取れない。次の言葉を待ったが、バトーは黙って目を伏せている。明らかに様子がおかしかった。怒っているのはこちらだと思っていたが、何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。反応を決めかねて、腰を下ろしていたベンチを後にバトーに近づいた。ぺたぺたと素足で冷たいビニール素材を踏みしめる。ゆったりしてはいるが所詮はロッカールームだ。バトーはもう目の前だった。もしかしたら傷が痛むのかもしれない。感覚器官を遮断して尚感じるものはいわゆる幻肢痛の類なのだろうが、僅かに残った神経系に障るというなら話は別だ。けれども、伸ばした腕はバトーに触れる寸前でぱしりと叩き落とされた。痛みはなかったが、じんわりと熱が上る。 「何すんだよいきなり」 「それはこっちの台詞だ。何近寄ってきてんだよ」 「機嫌悪いみたいだから、傷が痛いのかと思って」 表情の読めないバトーの義眼が戸惑うように揺れている。そう感じたのは願望だろうか。わかりやすいはずのバトーの感情を理解できないことが怖くて、届かなかった指先を握りこんでわざと挑発するような口調で言った。 「痛くねえよ。早く服着ろって。風邪引くぞ」 「まだ言ってんのかよ…冷暖房完備だぞ、今更風なんか引くか馬鹿」 「何があるかわからないのが生身だろうが。いいからほら、髪拭けよ」 軽口のついでのように前髪をぐいと引かれて眉をひそめる。こちらが触れることは拒んだくせに、バトーが触れるのはいいのだろうか。理不尽だ。乱暴にその手を振り払って、見えない位置にある包帯を指差した。 「あんただって、今日はやばかっただろ。義体のくせに」 「…それは関係ねえだろ」 「なくないだろうが。義体が有利だと思うなって、言ったのはあんただろ。気ィ抜いてんじゃねえよ」 昼間、肉弾戦に持ち込まれた乱闘で、そもそも襲われたのはバトーではなかった。けれども怪我をしたのはバトーだ。衝撃に備えて必死に防御を試みていたのに、生身ではありえない速さで滑り込んできたバトーのおかげで、こちらは若干のかすり傷で済んだ。感謝はしている。説明のつけられない大怪我をするたびに、家族の顔が浮かぶのも事実だ。けれども、その行為自体はいつまでも癇に障る。バトーと組んでもう2年になるが、いまだに庇われる立場なのだろうか。いつまで守られなくてはいけないのだろう。生身である限り、腕や足への一撃が致命傷になる限りこのままなのだろうか。悔しかった。だって死んでしまうのは、バトーだって同じなのだ。どれだけ硬い殻で覆ったとしても、脳がそこにある限り吹き飛ばされてしまえば同じだ。だからもう、そんな風に傷ついてほしくはなかったのだ。思い返すうちに、昼間の怒りが報告書の恨みと混ざってむくむくと膨れ上がるのを感じた。もどかしいほどの感情に焦れて、なけなしの理性で言葉を紡いだ。 「こんなに全部作り物の癖に、この上神経までなくしたらあんたほんとにただの機械になっちまうだろ」 「なんだそりゃ」 感情のない声がする。バトーは人間だ。脳と神経が存在していて、ゴーストラインが確立されている。それを知っている。けれども、おどけた仕草も、タチコマに対する過剰な愛情も、どこか飄々とした口調も、本当にそれを裏付けることにはならない。知っていることと信じることは違う。目に見える部分でわからないのなら、もしも明日、バトーの脳が壊れて外部記憶装置だけが残されたとして、今のバトーと何かが違うことを誰が証明できるというのだろう。どうしてそれを、理解してもらえないのだろう。 「壊れても直しゃいいなんて思ってるような人間は機械みたいなもんだろ。そうやっていつまでも生身の俺を馬鹿にしてりゃいいんだ、俺も勝手にするから」 「待てよ、何言ってんだトグサ。今日のあれは勝手に体が動いたんだっつの」 「なんで」 反射的に守るべきものだと思われた?それはそれでどうしろというんだ。そんなことを頼んではいない。こんな仕事についている以上、生きて帰る意思はあっても必要以上に死を恐れる気はない。自分の命は自分で守るとまで啖呵を切る気はなかったが心情としてはそうしたいところだ。だって切り抜ける自身があったのだ。少なくとも今日のあの場面では、怪我をしても死ぬことはなかったはずだ。バトーに庇われた分、バトーの負った傷は深くなった。だから悔しいのだ。 「聞くな」 「なんで」 「聞くなって言ってんだろ」 「っんでだよ!そんなに俺は頼りないか?俺が全身義体なら満足か?」 「誰もそんなこと言ってねえだろうが。ちょっと落ち着け」 な?と諭すように促されて、怒り以上に空しさがこみ上げる。理由すらないというのだろうか。生身以前に弱いから守られているのだろうか。口論すらする価値はないと言いたいのか。心配すらさせてくれないのか。ぎゅう、とこぶしを握り締める。爪が食い込んだけれど構ってはいられなかった。バトーにとって生身の人間は、否自分は、その程度の価値しかないものなのか。どうにも虚しかった。結局この怒りも空しさもバトーに伝わりはしないのだろう。張り詰めていた息を吐いて、拳を開く。 「…もういい」 「いいって、何が」 「悪かった。変なこと言ったな。助けてもらったのにな。頭冷えた、もう寝るな」 諦めに近い心持でくるりとバトーに背を向けた。もういい、こんな脳味噌筋肉のサイボーグに些細な機微を求めるのが無謀だったのだ。結局荒事にしか役に立たないんだ。こうなったらもう次から盾代わりに使ってやる。せいぜい無駄な筋トレで脳味噌を鍛えやがれ。銃くらい脳でも跳ね返せ。ナイフは神経で折ってやればいいのだ。修復できない生身を庇うというのならそれくらいやってみろ。できねえんだろざまあみろ、と散々罵って溜飲を下げた。背後のバトーの気配は消えない。やっぱりシャワーを浴びにきたんだろうか。傷口をシールするものは持っているのか?いや、でもそんなことはどうでもいい。とにかく着替えて寝るんだ、とパンツを手に取ったところで、大きな手にがっちりと腕をつかまれてげんなりした。 「離せよ」 もう話は終わっただろう。一方的なものだったけれど、会話自体が一方通行だった。バトーにその気がないのならどうすることもできない。早く休みたかったし、バトーにも休んでほしかった。けれどもバトーは何も聞こえなかったような顔で口を開く。 「結局何が言いたいんだ、お前」 「俺が聞いたことに答える気はないんだろ?俺があんたに答える義務もない」 「答えたら答えるのか?」 「知るか。聞いてからなら考えてやる」 鼻で笑うと、掴まれた腕に力が込められて痛かった。出力は抑えているのだろうが、このままだと痕がつくかもしれない。いい加減にしてほしい。そしてそろそろパンツくらい履かせてほしい。腰にタオルを巻いただけで皮膚に触れられているのはあまり気持ちのいいものではなかった。しかもそんな妙に真剣な顔で。そもそも最初に服を着ろといったのはバトーなのだ。言うとおりにしてやるから。ほら。けれども、バトーはひどく神妙な顔で「わかった」と言った。 「お前がそこまで言うなら教えてやる」 「は?」 何が。何を?言葉の意味を図りかねてバトーを見上げた。腕を掴んでいたバトーの手から力が抜けて、しかしその腕が重力にしたがって滑り落ちる前に今度は両腕をまとめて捻られた。そのまま両腕ごとロッカーまで引きずられる。がしゃん、と音を立てて軋んだスチールの感触に息を呑んだ。会話をするんじゃなかったのか。渾身の力でバトーの手を振りほどこうとしたが、捻られた角度のせいか思うように動かせない。何をするんだ、を喚こうとしたが、バトーのもう片方の手が近づくので口を噤む。殴られるのだろうか。軽く青ざめた頬に、予想に反して拳は振りおろされなかった。代わりに手のひらがそっと触れて、ぞわりと皮膚が総毛だった。これは反射だ。 「じっとしてろ。お前が聞きたがったんだからな」 噛んで含めるようにあやされて、一瞬抵抗を止めた。その隙を付くようにバトーの顔が一気に近づく。何を、考える間もなく生暖かいものが皮膚に触れて、ぬるりとしたものが唇を割って歯列をなぞる。口付けられている。気付いた瞬間、一気に瞳孔が開く気がした。先ほど毛羽立った毛穴からどっと冷や汗が吹き出る。顔を振ってバトーから離れようともがくが、さきほどあんなに優しく触れた手のひらががっちりとあごを掴んで逃げられない。せめてこれだけはと硬く歯を食いしばってそれ以上の進入を拒もうとしたが、ぎりぎりと顎に力を込められてそれもかなわなかった。わずかばかりの隙間をぬってバトーの舌が口内に滑り込む。せめておもいきり噛んでやろうと思ったのだが、逃げ遅れた舌を絡めとられて咳き込みそうになった。生理的な涙が滲んで視界が揺らぐ。動かなくなったのをいいことに、ゆるゆると這い回る舌の感触に眩暈がした。バトーは感覚器官を切っているのだろうか。生身ではこの感触をどうしようもない。粘膜同士が擦れ合ってくちゅりと水音を立てる。散々蹂躙され、ようやく開放される頃にはかすかに息が上がっていた。 「は…」 予備動作もなく顔を離したバトーは、吐息とも溜息ともつかない声を聞いて僅かに表情を揺らす。笑ったようにも、困ったようにも見て取れた。バトーはその表情のまま親指で唇を辿り、するりと首筋まで滑らせる。QRLコンセントと素肌の境目をゆるりと擦られてびくりと首をすくめた。その反応に、バトーは呆れたようにのんびりした声をかける。 「だから、早く服着ろって言っただろうが」 「ん、なっ…」 「黙ってろ」 耳元で囁かれて頭に血が上った。バトーがそんなところでそんな声を出して息を吹きかけるからだ。まるで意識していなかった重低音がやけに響いて、思わずくらりとした。バトーの手は遠慮なく首筋から背骨を確かめるように背中を撫で下ろし、腰周りを舐めるようになぞり、太股を緩やかに擦って内股に入り込んでくる。明らかに性的な意思を持ったその大きな手のひらはただ触れられるだけでとんでもなく気持ちがよくて、だからこそ必死に身を捩った。けれどもこちらの両腕をひとまとめにして押さえつける左腕はぴくりとも動かなくて、焦れば焦るほど指が食い込んで痛いばかりだ。それならばと足を振り上げたが、こちらもあっさりとバトーの右足に押さえつけられて片足立ちになってしまう。布一枚で隠れた場所が思い切り捲れ上がってますますどうにもならなくなった。素肌を這う手はゆるゆると動いて、その感触はダイレクトに脳まで届いている。 「トグサ」 重低音が響く。名前を呼ばれるのはたまらなかった。せめてもの矜持として、今にも硬く閉じてしまいたい目を見開いてバトーを睨みつける。何をされるのかはわかりたくもなかったが、何をされても折れる気はなかった。何があってもバトーとは対等でいたかったのだ。今まで積み上げてきた全てをなかったことにされることだけは避けたかった。ようやく、新人呼ばわりが終わったというのに。血の通わない義眼をねめつけて、これではまるで見詰め合っているようだと思った。気取られぬように静かに息を吸って、緩やかに吐き出す。震えだしそうな身体を抱えて、心臓が張り裂けそうな速さで鳴っていた。次に進んだら壊れてしまうかもしれないと思うほどに。けれども、予想に反してバトーの手がそれ以上先に進むことはなかった。真剣だったバトーの顔がくしゃりと歪んで、それから困ったように笑った。 「馬鹿だねえ、お前は」 穏やかな口調とともにあっけなく開放された両手に血が通いだして、そのむず痒いような感覚で急速に現実が戻ってくる。ずる、と一瞬ずり落ちそうになった身体を支えられそうになり、慌てて踏みとどまった。ぴくりと動いたバトーの腕がこちらへ伸ばされることはなかったけれど、安心などとても出来ない。じり、と一歩後ずさってじりじりと様子を伺っていると、バトーは困ったような顔で笑って両手を挙げた。その顔のまま、バトーはゆるりと口を開く。 「なんて顔してんだ」 「だっ、あっ、…な、…っあんたが、全部悪いんだろ?!」 言いたいことはいくらでもあって、けれども渦巻きすぎてうまく声にならなかった。どうにか元凶に攻撃的な言葉を口にすると、バトーはホールドアップしたままああそうだな、と頷く。そうあっさり認められてはこちらの立つ瀬がない。拍子抜けしてほんの少し肩の力を抜くと、バトーもゆっくり両手を下ろした。けれどもまだ手の届く距離だ。腰に巻いたタオルを握り締めると、バトーに鼻で笑われた。 「心配すんな、もう何もしねえよ」 「むしろ、…なんだったんだよ今のは。何をしようとした」 「何って…聞きたいのか?プラグ繋いで見せてやろうか、頭の中」 揶揄するような口調で問い返されて言葉に詰まる。それだけではなくQRSコンセントを押さえて防御した。正直見たくなかった。バトーは片方の眉だけを器用に上げて、何もしないからそう警戒するな、と繰り返した。そんなもので納得できるようなものではない。ただの悪戯にしては性質が悪すぎるし、お遊びにしては言葉が足りなすぎる。なおも食い下がろうとした言葉は、バトーの静かな声に遮られた。 「今ので意識してくれりゃ、それでいい。他人がいないところで、俺の前で裸になるな。俺はお前に欲情するんだってことを覚えておけ。いいな?これは警告だ。もう言わねえぞ」 「ちょっ、…何、何を」 何を言っているのかわからなかった。感覚と意識が切り離されたような感覚だ。何も繋がらなかった。バトーの手に性的な快楽を感じた。バトーの声に脳を侵される気がした。でもそれで、だから結局のところ何がどうだというのだろう。首筋を押さえながら冷たいスチールに背中を預けて、記憶を必死に探って、よく考えればついさっきの会話を引っ張り出す。どうしてこんなことになったんだ。そうだ、答えだとバトーは言った。それがどうして。混乱した頭で口に出来たのは、だからそれだけだった。 「それで結局、なんで俺を庇ったんだ」 「なんで?」 まだわからないのか、という口調でバトーは言った。問いの形ではあったが、明らかに馬鹿にされている。バトーの真意がまるで理解できなくて悔しかった。大体こんなことでなにがわかるというのだ。ほぼ全裸で無理矢理キスされて触られた。言葉にすればそれだけで、けれどもそれだけになんの誤魔化しようもない。ぐぐ、と眉間に力を込めて促すと、バトーは一瞬目を反らして、それから口を開いた。 「お前が好きだからだよ」 いっそ爽やかなほどあっさりと言われて、がくんと顎が落ちた気がした。好きだなんて、そんな言葉がバトーの口から出るとは思わなかった。少佐にもタチコマにも他の誰にも、冗談めかして「愛してるぜ」などと言うことはあっても、こんなに簡単に、けれども明らかに真剣に好きだなんて。ぽかん、と口を開いたままバトーを見上げていると、バトーの腕が動いた。反射的に身を竦ませると、バトーはにやりと笑った。そのまま引き寄せられて、まるで幼子にするような触れるだけの口付けが落とされる。額、眼球、鼻梁、頬、そして唇。抵抗も忘れて、そのやさしい口づけを受け入れていると、バトーは最後にぐしゃぐしゃとまだ乾ききらないもつれた髪をかき混ぜて離れていった。ぼんやりとバトーの手を見送っていると、そんな顔してるから俺に襲われるんだと溜息と苦笑交じりの声が聞こえた。やりたい放題だったバトーはそこで踵を返し、片手をひらひらふってロッカールームを出て行った。 バトーの背中が視界から消えた途端、かくんと膝が抜ける。冷たい床に手を付いて、何度も大きく息を吐いた。最後が一番驚いた。妻子持ちの強みと見せかけてなんでもないような顔をしたかったが、結局どうしようもなく動揺した。バトーにとってはたいしたことではないのかもしれないが、こちらにとっては大問題だった。なんてことをしてくれるのだ。ごしごしと唇をこすって口をゆすいでもう一度シャワーを浴びえて、それでも消えないバトーの感触にさらに心が泡立った。そしてそこまで来てようやく、何が問題だったのかを考えるべきだと思い立った。今夜はもう眠れそうになかった。 三日前のことだ。 三日間考えていた。転寝も生半な返事も変わらない空気も全てそのためだ。 一日目は何も浮かばなかった。浮かばないまま徹夜で仕上げた報告書は支離滅裂で、少佐には割りと受けが良かったが書き直すことになった。もちろんバトーは横で笑っていた。 二日目はバトーの一挙一動をひたすら思い返して終わった。眩しいのにどこか薄暗い蛍光灯の下で身を屈めたバトーの顔を、不躾で図々しいのにどこか臆病だったバトーの手を、激しく絡みついたのに丁寧で優しかったバトーの舌を、お前が好きだと言ったバトーの声を、つまりはバトーのことを。現実味の薄い銃撃戦の中、目前に迫った犯人にバトーが発砲するのを見ていた。転がった数人に電脳錠をかけて回りながら、問題なのはそれが問題ではないからなのだということをぼんやりと自覚した。 三日目はもう何も考えたくなかった。嫌な予感がしたからだ。少佐の言葉を借りればゴーストが囁いている。いや、囁くのは予感ではない、考えたくないその事実だ。結末をおぼろげにでも意識してしまえばあっという間に奈落の底だという気がして、ことさら必死に薄っぺらい電脳のデータに潜っていった。ブラックアウト寸前で引き抜かれたプラグの先にあったのは呆れたようなバトーの顔で、集中できない理由に蓋をすることは出来なかった。つまりはバトーが原因なのではない。バトーに対して何を思うかが問題なのだということにたどり着いてしまった。フリーズさせて電脳の奥不覚に閉まってやりたかった。 腑抜けた三日間だった。 代わり映えのない景色を見るともなく流しながら、形だけのハンドルを握ってコーヒーを啜る。ミラーに目をやるが、皮膚を張り替えたバトーの顔に先日の名残は見つけられなかった。けれどもあの身体に傷が付いたことは事実なのだ。同じように、もう覆らない事実を知っている。先程唐突に理解してしまった。目を覚ました瞬間にバトーが目に入った、その刹那。三日かかった理由と、バトーに感じた理不尽な怒りを補って有り余る感情だ。答えなど何一つわかっていなかったのはバトーだけではなかった。 短いドライブはあっという間に佳境を向かえ、オート制御された車は音もなく9課ビル地下駐車場に滑り込んでいく。込み合うこともない白線の列を眺めて、これくらい整然としていれば簡単だったのだと少しだけ笑った。自分も、バトーも。車を止めて、かちんとシートベルトを外した。助手席のキーはロックしてあるし、監視カメラの位置は確認している。バトーの目に乗っている人間も、俺の目に乗ってる奴もいない。念入りにゴーストラインの確保。ミラーの調整。バトーの顔の高さ。全部。 「バトー」 「うん?」 「俺も」 振り向いたバトーの唇に自分のそれを押し付けて、上唇を一度だけ舐め上げた。味らしい味はしない。内側はともかく義体の表面はこんなものか、と目の前の義眼にも口付けてから身体を起こす。揺らがないはずの義眼がまた揺れている気がする。願望でも良かった。もう少しあちこち触ってやっても良かったが、今日は家に帰ることになっているのでそこまでにしておいた。不自然な形で動かないままのバトーを残して車を降りる。半分残ったコーヒーはもうすっかり冷めてしまっている。 |