包帯を巻いてくれないなら触れてくれるな傷口に



人魚姫の童話を知ってるか?と、静かな声で仁は言った。俺の部屋のベッドの前で、それぞれ端の爪を剥がされた俺の足に、丁寧に包帯を巻きながら。人魚姫。アリエルの話でいいんだろうか。ねずみの国のアニメは母さんが好きで、家にもビデオが何本かあった。小さい頃に見た記憶はある。明るい色で描かれる空と海、軽快な音楽、そしてハッピーエンド。俺の顔を見ない仁の、だからつむじを眺めながら俺は、知ってる、と頷いた。ふうん、と仁は息を吐いた。まだ傷だらけの、仁の顔。

「終わったら、お前のガーゼは俺が取り替えるな」
「いい」

短く呟いた仁は、包帯の端を折り返して止めている。そうして俺の顔を見ないまま、もう片方の足に取り掛かった。古い包帯をゆっくり外して、患部に当てられたガーゼを慎重に剥がして、まだ熱を持ったままの傷口を冷静に眺めて、消毒液で丹念に汚れと膿を拭って。淡々と、でもある種の熱意を持った行動に、息が詰まりそうになる。こういうときの仁はこわい。俺の、つまりは慶光が役に立たない。だから、手当を言い募ることも、できない。

(きっと)

と、俺は思う。俺がしたことは、慶光ならしないこと、だと仁は思っている。たぶん。でも、俺が殴られたのは、慶光が既に何度も、あそこを訪れていたからだ。だけどそれを陣に告げるわけには行かない。何をしていたのかも、何が目的だったのかも、結局何が分かったのかも、俺にはわからないからだ。慶光の目当てがつゆこさんだったなら話は早いのだけれど。それでは、殴られた意味が、わからない。誰が何の目的で、俺を邪魔したかったのか。わかるまで仁には言えない。わかっても言えないかも知れない。だって俺は、仁を助けに来たんだ。
たぶん、きっと、仁を。
そうであって欲しいと思う。

消毒を終えた仁は、傷口に新しいガーゼを当てて、丁寧に丁寧に包帯を巻いていく。壊れ物に触るような仁の手つきは、それを壊してしまった俺の罪悪感に触れる。これは確かに俺の身体だと思うけれど、仁にとってはそうじゃないんだ。いつか還って来る、慶光のための、もの。爪の先まで慶光のものなのに、光也が壊してしまった。こんなことを謝るわけにも行かない。足を引くこともできず、丁寧に丁寧に触れられることしかできない。最後の一巻きを終えて、包帯の端を織り込んだ仁は、躊躇うような素振りを見せたあとでするりと俺の足を撫でた。背筋がそわっとした。一度目は赦す。二度目は、蹴り倒す。いや、痛いから殴る。身構えた俺の思考をよそに、仁は黙って道具をまとめると、立ち上がって俺に背を向けた。出て行こうとする仁の背中に、なあ、と声をかけた。立ち止まった仁は、そのまま言った。

「なんだ」
「人魚姫がどうしたんだ」

さっきの、話。一瞬揺れた仁の背中は、一体何を考えているんだ。尋ねられて、答えただけで終わってしまった。知っていたらどうだというんだろう。きっと慶光なら知っている話を、俺が知っているか確かめたということは大事なことなんだろうか。仁と慶光にしかわからない会話だったんだろうか。わからない。俺には何も。でも、だから知りたいと思う。俺は仁のことをもっと知りたいと思う。しばらくして振り返った仁は、俺の眼を見て口を開いた。

「お前に似てると思った」

はっきりとした発音でそう言った。言葉の意味よりも、仁の目に気を取られた。今日始めて、仁の目をまっすぐ見た。きらきらと輝く翠玉色が、今日は少しくすんでいる。それは察するまでもなく俺のせいで、でもそれを解消してやれない俺を、俺は少し持て余している。俺は、仁を助けるために来たのに、俺が仁を悲しませてどうするんだ。幸せにしてやりたい。だけど俺には、仁を幸せに出来ない。その資格がない。能力もない。王子と幸せになった、人魚姫のようになれるとは、とても思わない。だから首を傾げた。

「…人魚姫に?」
「そうだよ」

頷いた仁は、さっと踵を返して今度こそ部屋を出て行った。重い一枚板の扉が閉まる瞬間、数センチの隙間から感情の篭らない仁の顔が目に入った。早く、また俺の前で笑って欲しいと思った。慶光ではない、光也の前で。


( 最後は泡になるほうの人魚姫です / 仁×光也 / ゴールデン・デイズ / 20090620 )