こ の 身 の 死 よ り 遥 か に 残 酷 な



コンコン、とぎこちないノックの後、返事も待たずにドアが開いた。着替えの最中だったぼくは少しだけ動きを止めて、それでも入ってくる人間は分かっていたので振り返らなかった。ドアを開けた慶光はしばらくそこに佇んでいたけれど、僕が気に留めないのでゆっくり歩き出す。やわらかい室内履きがするすると床を滑る音がした。

「仁」

呼びかけられて、ようやく振り返った。寝巻きを羽織った慶光の襟元には鎖骨が覗いている。いまさらそんなものに動揺はしないが、それが目に心地よいものだというのはまた別の話だ。無防備な慶光は、だからいつだって僕にとって脅威だった。所在なさげに立ち尽くす慶光はやっぱり以前とはどうしたって違うもので、だけどやっぱり慶光だった。寝巻きを着終わった僕がベッドに腰を下ろすと、慶光は僕の目の前に立って僕を見下ろして、言った。

「口の…傷、大丈夫か」
「問題ない」
「嘘付け。夕飯ん時、熱いのも味が濃いのも避けてたくせに」

良く見ている。実を言えば死ぬほど染みた。当たり前だ。硝子の縁、鋭利な上に厚い物で切った傷だ。完全に塞がるまではしばらく時間がかかるだろう。なにしろ粘膜だ。でも、この傷が出来なければ、慶光はもっと長い間、僕の前から姿を消していた。女給が叫んだことに感謝している。ふたりを引き剥がすことも出来たし、慶光の焦る顔も見えた。自分からはめったに手を伸ばさない慶光が、唇にまで触れてくれた。比べて、痛みがなんだというのだろう。それで充分だ。充分すぎるほどの恩恵は受けた。

「血は止まってる。そのうち治る」
「そういう問題じゃあないだろ」

慶光の顔は曇っている。的外れに優しい慶光がすきだ。今だってそうだ。痛むからと言って、慶光に何が出来るというのだろう。弱さをさらけ出したって何が変わるわけもない。慶光が僕のために生きてくれるわけもない。いつだって、そうやって気遣う顔をして、簡単に僕を奈落にも突き落とせる。そんな慶光が好きだった。すきなんだ。僕は少し笑って、じゃあ、と呟いた。慶光がぱっと目を開く。そんな顔をするなよ。嬉しくなる。

「慶光が舐めてくれたら治る」
「ばっ、…」

いつものように顔を青くした慶光は、きっと僕を殴ってくれる。そうしたら、きっと元に戻れる。痛みに触れずに、心に触れずに、ただ好きでいられる。けれども慶光は鳥肌を立てたまま数瞬踏みとどまって、腕を下ろして少し考えて、何度か表情を変えて、それから。僕に向かって屈みこんだ。何、と思う間もなく、近づきすぎた慶光が目を閉じるのが見えた。唇に、正確に言えば、半開きだった僕の口の中に。生暖かいものが滑り込んだ。ざらりとしてぬるりとした感触。一瞬で離れた慶光の顔は、刷毛で塗ったように朱に染まっている。しばらく呆然と、真っ赤な慶光の顔を見上げていた。それからゆるゆると腕を持ち上げて、指先で口内に触れた。嘘じゃない。嘘じゃない。慶光が、僕の。僕に。慶光はふん、と息を吐いて、上気した顔のまま僕に言った。

「…治ったか」
「治った」
「嘘付け」
「嘘じゃない」

嘘だった。こんなことで傷が治るわけもない。むしろ傷口を直になぞられて、痛みは増したようだ。でも嘘じゃない。だって、こんなに幸せだ。こんなこと、思っても見なかった。慶光が僕に向ける感情全てが、僕を生かす光だった。哀れみですら愛しい。愛しくてたまらない。大事に大事に唇を擦ると、慶光は溜息をついて僕の隣に腰を下ろした。肩を落とした慶光は、目を閉じて口を開く。

「俺は、…そうやって簡単に、お前がお前を傷つけるのが怖い」

怖い。鳥肌を背負いながら、僕に口付けるほど?でも、お前がそれを言うのか、慶光。一声で僕を生かすことも殺すことも出来る、お前が。僕はお前が愛しくてたまらない。反面、時折恐ろしくてたまらない。この愛しさがどこへ向かったらお前を幸せに出来るかわからない。慶光の幸福を望みながら、その隣に僕がいない世界は耐えられない。僕の幸せが慶光の幸せだったら、いいのに。けれども、そんなことは口が裂けたって言えはしない。だから逃げることにした。目を閉じた慶光の顔を覗き込んで尋ねる。

「ひとつ…聞いていいか」
「答えられることなら」

ずるい前置きだ。逃げたはずの僕の胸が、かすかに痛む。いいよ、と答えて欲しかった。嘘だって構わない。上手についてくれるなら、優しい嘘のほうがどれだけ救われただろう。いつだって本当のことしか言わない慶光が、苦しくてたまらない。

「光也にとって、あの男はなんだ」

あの、カフェーの店主。慶光は、ケイと呼んだ。親しむように。慈しむように。縋るように。慶光が僕の知らない交友関係を持っているだけで胸が千切れそうになるというのに、あの男はさらにそれ以上を知っている、ようだった。記憶のない慶光が、あの男だけ覚えている。そんなことがあってたまるものか。百合子を、亜衣子を、僕を忘れて。じっと見つめると、慶光は眉根を寄せてうつむいた。何度か唇を震わせて、それからぽつりと慶光は言う。

「慶がいった以上のことは、俺にも言えない」
「恩人て奴か」

慶光は、うつむいたままこくりと頷いた。歯がゆくてたまらない。だって僕には、お前のほうが救われたように見えた。もう聞くなと慶光が言うならどうしようもない。僕に選べる選択肢はひとつしかない。傷つけたくない。だけど、あんな顔を、誰にでも見せないで。お願いだから。重苦しい空気の中、僕と慶光の呼吸音だけがやけに大きく響いた。心音すら届きそうな夜だった。


( コップ噛み割るシーンは萌える / 仁×光也 / ゴールデン・デイズ / 20090616 )