思 わ ず 笑 う ほ ど の 恐 怖 を 知 っ て い る か



押し倒された瞬間は嬉しかった。

あの慶光が、自分から僕に圧し掛かっている。どんな理由だって構わない。胸が熱くなるのは止められなかった。けれども、腕を伸ばそうとして見上げた慶光の顔が映ったとたん、浮かれた気分はあっという間に吹き飛んだ。背中に回しかけた腕を下ろして、慶光の腕を掴む。いつもなら振り払う慶光がみじろぎもしないだけで、異常だということがわかる。みつ。慶光。その目尻に光るものを見つけて、カッとなって叫んだ。

「光也!」
「…あ、」

話しかけて、殴られて、慶光が我に帰ったのは分かった。けれども、慶光の顔は元に戻らない。亡霊でも見たような。正確には、僕が亡霊ででもあるような、酷い顔で僕を見ている。僕を通して、どこか遠い場所を見ているようにも思えた。胸が痛い。お前にそんな顔をさせるなんて、あの店主いつか倒す。でも今は、慶光を抱きしめるほうが先だ。そっと触れると、慶光の身体がびくりと震えた。拒絶されている?いつものことだ。でも、そうではないことが、分かる。固く押さえたその口から、一体何が溢れると言うんだ。慶光。壊れ物に触れるように、慶光の髪を撫でる。額が赤い。きっと僕も同じだ。どうして、殴られた。

「…僕のせいか?」

尋ねると、慶光はぶんぶんと火がつきそうな勢いで頭を振った。違うという。目を閉じないのは、涙が溢れるからだろうか。苦しい。痛い。寂しい。お前が見ているものを、感じている全てを、知ることの出来ない自分が不甲斐なくてたまらない。僕はお前のためになんだってしてやりたい。お前が恐れるもの全てからお前を遠ざけてやりたい。でもそのためには、お前が求めてくれなくては、僕は何も出来はしない。拒まれてもいい。慶光、お前を。

「みつ」

揺れる瞳が、逃げ場を探して彷徨っている。どこへ、行こうと言うんだ。僕を置いて?僕のせいではないなら、なぜ僕を見て、そんな顔をする。僕の存在がお前を苦しめるというのなら、僕はいつだって僕を投げ捨てるのに。僕の左手が、微かに震える慶光の髪を辿り、首筋を伝い、ゆるやかな曲線を描く背中へと滑り落ちる。そうして、慶光の頭を引き寄せることはせずに、僕が慶光の胸に倒れこんだ。とくとくとくとく。普段よりずっと早い、慶光の鼓動を感じる。慶光のうすい胸がゆるく上下する。強張ったままの慶光の身体に、僕のほうが泣きたくなった。お前と一緒にいてこんな気持ちになるなんて。何もかも伝わりあっていた頃が、あった。その記憶が、いつまでも僕を縛るというのなら、記憶をなくしたお前はどこへだって行けるんだろう。

「嫌だ」

ぎゅう、と慶光の腰に抱きついた。振りほどかれないのをいいことに、慶光の腹に顔を押し当てて目を閉じる。お前は勝手だ。慶光。僕が何もかも差し出したって、お前は笑って拒絶する。違う、満足に拒むことすらしてくれない。それなのに、世界の終わりのような顔をして俺を押し倒すのは、どうして。近くにいるの、遠くにいるの。お前はちゃんと、ここにいるの。慶光の薄くて固い腹筋は、規則正しく生ぬるい音で呼吸している。

怖いのはお前じゃない。俺のほうだ。だから俺から隠れないで。俺に隠さないで。俺から逃げないで。俺を逃がさないで。俺はお前しか要らない。だから、お前も俺が、要ると言って。お願いだ、慶光。慶光。みつ。光。…光也。

いっそ泣き喚いてくれたらいいのにと、いつまでも聞こえない嗚咽の静寂の中で願った。


( 行間を読んでみよう / 仁×光也 / ゴールデン・デイズ / 20090615 )