も し も の せ    か    い



どうしたらお前を無事でいさせてやれるかわからない。



俺、もっとあっちで勉強してたら良かった お前が、お前達が生きてた、この時代を
この先起こることを正確に把握していたら お前達が 幸せに 生きる術を 教えてやれるのに
じいちゃん、なんでもっとたくさん教えてくれなかったの この人たちのことを
知っていたら変えられたことが、たくさんあったのに どうして 最期まで、最期だけ

仁、

俺は残酷なことを言ったよ 俺はお前を置いて平和な世界へ帰るんだ
お前がこれから受けるすべての災厄を知ることもなく 看取ることも出来ず
それでも幸せで在れと

お前がすきだという俺を、最後までおぼえていて欲しいだなんて


ほんとうは ずっと嬉しかった
俺の知らない俺を、お前がひとつずつ暴いてくれるたびに、俺の心が震えるようだった
俺が俺であることを認識してくれた それだけでよかった

だから仁



生きて、どうか、生きて、幸せに
そして

できることなら、もう一度、俺と






( も し も の せ    か    い  )







時間軸がずれたんだろう、と、年を重ねて尚鮮やかに光る翡翠色の瞳で仁は言った。



じいちゃんが死んで、一年後に生方がやってきて、またバイオリンを弾くようになった―その半年後。じいちゃんの墓の前で、それは唐突に訪れた。石畳を抜けて、少し開けた小さな石塔の前、目を閉じて手を合わせる黒いコートの老人。じいちゃんの知り合いだろうか。首をかしげる俺と両親の足音に気付いて、ゆっくり振り返った老人の、その眼を見た瞬間。俺は声もなく手桶を取り落とした。桶を満たしていた水が俺の足を侵す。どうでもよかった。だってこれは。そんなまさか。でも。

「やあ、光也」

その、声。その表情。うつくしい緑の目。間違えるはずがなかった。信じられなかった。これは幻だろうか。それとも夢を見ているんだろうか。みっちゃん、と不安そうな声を出す母さんの手を放して、一歩踏み出す。手を伸ばす。消えてしまわないだろうか。亜衣子がいないと知ったときから、もう誰も、いないと、思って。いたのに。かすかに震える手を、それでも確かに握り締めたのは、微笑む仁だった。仁だ。これは、仁だ。ああ。ここにいる。ここに。触れる。ちゃんと、ここに、生きている。生きて、生きて、生きて、いる。

「仁…!!!」

ほとんど泣き声だった。構わなかった。最初から、仁には酷い顔ばかり見せている。いまさら一つ二つ、恥を晒したってどうってことない。泣きながら、仁にしがみついた。細い身体だった。でも年齢を考えたら、ここに立っていてくれることだって奇跡のようだった。仁、仁、仁。喘ぐように名前を呼びながら抱きしめると、細い腕が俺の背中に回った。あやすようにぽんぽん、と叩かれて、なおさら涙が溢れた。仁。暖かい。どうして。

「熱烈だな、光也。こんなに歓迎されるなら、もっと早く来ればよかった」
「ばか…」

なあ慶光?と墓石に話しかける仁が、あの頃とまるで変わらないようで堪らなかった。


泣きじゃくる俺が落ち着くのを待って、仁は両親に俺たちのことを説明してくれた。亡き曽祖父と兄弟同然に育ったこと、俺のことは曽祖父から聞いていたこと、昔何度か会ったことがあること――事実を上手に混ぜながらしゃあしゃあと嘘をつく姿もやっぱりあの頃のままで、俺は少し笑ってしまった。仁を警戒していた母さんも、仁の言葉で打ち解けて、俺たちを二人きりにしてくれた。日が暮れる前に帰ってくるのよ、一緒にね、という言葉はやっぱり過保護だったけれど。仁は知っていたんだろうか。母さんが、仁のお母さんと同じようなものなんだって事を。哀しいだけなんだって、いった。亜衣子の言葉は仁にとっても同じだったんだろうか。

物言いたげな俺の視線を感じたのか、仁は俺の顔を見てにっこり笑った。皺の刻まれた顔。だけどこれは、仁が生きてきた証だ。口を開きかけて、結局閉じてしまった俺の手を、仁は宥めるように握っている。これは変だろうか。曽祖父の友人と、手を繋ぐ。わからなかった。大正時代ではキスだってしたのに。キス。思い出して、顔から火が出そうになった。そうだ。そうだった。あれからまだ、一年半しか。俺にとっては長かったけど、仁にはもっとずっと長い時間が流れている。急に恥ずかしくなってきた。こんなこと気にしてるのはもう俺だけかもしれない。奥さんも、子供も、孫も、曾孫だっているかもしれない奴に。上手く呼吸が出来ない。あの頃は同じ年だったのに、今はこんな。どんな顔をしていたらいい。なあ、俺は、今のお前にとって、何なんだ?

「…光也」
「っは、はい?」
「俺は、ずっと幸せだったぞ」
「え、う、うん、よかった…」
「嬉しいか?」
「は?うん、嬉しい…けど?」

幸せでいてくれたなら、嬉しい。大きな戦争をくぐって、祖国ではない国で生きて、それでも幸せだと、仁が言うのなら。こんなに嬉しい。うん、でも。質問の意味が分からなくて、あいまいな返事を返した俺を見て、仁はなんだか複雑そうな顔をした。なんだよ。首を捻った俺に、今度こそ仁は深い溜息をついた。だから、なんだよ!

「お前なあ…」
「なんだよ?」
「お前が言ったんだろう?」

仁の瞳が近い。吸い込まれそうなくらい鮮やかな色。最後に、この景色を見たのは、一年半前の。

「あ…」
「”オレを喜ばせて、仁”」

思い出したか、という言葉とともに、暖かいものが俺の口を塞いだ。止まったはずの涙がまた溢れた。振り払うことは出来なかった。愛しかった。仁から溢れた愛しさが、俺に届いているみたいだった。そっと離れた仁の顔を呆然と見上げる。笑っていた。なんて、きれいな、顔。

「う、そ、あんな一言」
「ああ、あんな殺し文句ひとつで俺を置いていったお前を恨んだな。お前のいない世界で、幸せでいるのは結構難しかったんだぞ、光也」
「お、俺、は、ずっと、寂しくて、もう会えなくて、じいちゃんも…」
「お前が言ったんだろう、70年後だって。少し遠い国だと、言った。だから俺は待った」
「あ…」
「嬉しいか?」
「嬉しい…っ」

嬉しい。俺の言葉一つで、何が変わるのだろうかと、思っていた。あのとき、死ななかっただけで、仁が今ここにいないことに変わりはないのだと、叫びたくなる日があった。あそこに戻れない自分を恨めしく思う俺がいた。今度こそ有益な情報を携えて、何もかも引き換えにしたって、次は、俺の為に、仁を助けたいと、思っていた。でも。今ここで、仁が、俺に。…俺に?滲む視界の向こうで、もう一度近づいてくる仁の顔をはしっと押さえた。仁の眉間に皺がよる。いや、でも。

「ちょっと待て!!」
「なんだ」
「お、お前、まだ俺にそーゆうことするのか?!」
「”そーゆうこと”ってどーゆーことだ」
「だ、だから、き・・・キス、とか、っ…」
「ああ?そのために70年間独り身を貫いたんだぞ、何を今更」
「はっ、はあっ??!」

あまりといえばあまりな言葉に、一気に現実に引き戻された。よく考えたらまずい。真冬だというのにやたらと暑苦しい体勢で、それにもう二回もキスされた。黙って受け入れた。なんだかこれだと、俺が。そういうことを。望んでいる、みたいな。

「わーーーーー!!!!」
「うるさいぞ光也」
「うっ、うるさくもするわ!!年齢考えろお前!何する気だ俺に!」
「人間生涯現役…だろ?」
「おっ、俺に言うなァァァァ」

細い腕なのに引き剥がせない。元軍属を舐めるなよ?と耳音で囁かれてぞくりと背筋があわ立った。悪寒だったと信じたい。だってこんなの。元気すぎるだろ、仁。もう90近いんだろ?!俺、俺は。それでもやっぱり嬉しくて、また少し泣いた。


じいちゃん。じいちゃんは知らなかったのか、仁が、生きてたこと。もしかしたら、俺が向こうに行くまでの世界では、仁はいなかったのかもしれない。でも、俺が、仁と。俺が仁を変えられたことで、仁が生きているなら。この先の仁の心は、”慶光”じゃない”光也”、俺自身がもらっても、いいんだろうか。

離れたくなくて、でももうキスはされたくないから、仁の薄い胸に顔を預けた。ゆるやかな鼓動が聞こえる。生きていてくれて、ありがとう。ありがとうありがとう。ありがとう。なんて言っていいか分からなかった。愛してくれて、幸せでいてくれて、ここにいてくれて、ありがとう。キスはしないけど、また一緒に、いよう。

「みつや」
「うん…」

ずっと。一緒にいよう。仁。


***

少し伸びた黒髪を探りながら、すっかり年老いた自分の腕を眺めて薄く笑みを刷いた。
随分長かったが、しかし、間に合った。
光也。
もう一度お前に会えたことを、感謝する。
溢れるほどの愛しさを受け取った。

”あなたの幸せが、わたしの喜び”

これほど愛しい言葉が、他にあるだろうか。その声を、その姿を、その心を、留めておくために戦った。戦って戦って戦って、朽ちるはずだった命を、繋いだのはやはりお前だった。お前の言葉だった。誰かを犠牲にしてまで生きる、世界を、誤っているといったお前を。お前の生きる世界を。お前の世界を形作るために、生きていようと、思った。
お前が生まれたと、日本と連絡を取っていた亜衣子に知らされたときは胸が震えたものだ。
いつ俺を知るのだろう。成長するお前のバイオリンを、聴けなくなって随分寂しかった。
そうだ、俺は寂しかった。お前のおかげで幸せだったが、お前のせいで俺は寂しかった。
亜衣子を見送ったとき、生方の子孫にナイトを預けたのはそのためだ。
お前も、少しは俺を思ってくれただろう?

70年、そんな気持ちだったんだ。少しは意地悪をしたって、赦されるだろう?なあ、慶光。
お前を愛したから、光也に出会えた。お前が後悔してくれたから、光也を愛せた。
お前の存在に、心から感謝する。そして、光也の存在にも。

愛している。
残り少ない俺の生涯を、全て、お前に捧げるよ。光也。


( 生きていて欲しい / 仁×光也 / ゴールデン・デイズ / 20090613 )