0 8 .   さ よ な ら 初 恋   

退院日は木曜だった。
低く雲が立ちこめる空は今にも泣きだしそうで、木吉は少しばかり膝が痛むような気がしたが、歩けることがただ嬉しくて、その気配には気付かないふりをする。久しぶりの我が家は何も変わっていなかったが、だからこそ木吉だけが取り残されているように見えた。一時帰宅は何度か許されたものの、移動は車椅子だったので、2階の木吉の部屋へ帰るのはあの試合後からはじめてのことである。祖母がこまめに掃除していてくれたらしい部屋は、いっそ木吉が生活していたときより小綺麗だったが、それでも人の匂いはしない。木吉はそっと懐かしい学習机に手を置いた。

柔らかい木の感触にほっと息を吐いた木吉は、荷解きもそこそこに居間へ下りると、「じいちゃん、ちょっと海を見に行ってくる」と、新聞を広げていた祖父に告げる。木吉の声に、祖母も台所から顔を出して、「今から?明日じゃダメなの?」と問い掛けた。「今からいかないといけないんだ」と木吉は頷く。祖父母は木吉を引き止めて、せめて一緒に、と妥協策を提示したが、「自分一人で歩けることが嬉しい」と言えば、それ以上何も言わなかった。卑怯なことをしている自覚はあった。自分の傷を盾になんて、以前の木吉であれば思いつきもしなかっただろう。それでも木吉は、今海が見たかった。

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券売機で一番端の駅を買ってみたかったが、陽のあるうちに帰ってこられない距離なので、一番近い海までのボタンを押す。そこは昨年の合宿地で、意識せず、と言いたいところだったが、思い切り意識しながら買ってしまった。駅までのバスに揺られるうちに降り出した雨はそう強くないが、止むこともない。病院からはタクシーを使ったので、電車に乗るのもほとんど一年ぶりだった。昼下がりの電車は人もまばらで、木吉は久しぶりに深く息を吸ったような気がする。目を閉じるのも惜しくて、瞬きすら忘れたように窓の外を眺め続けていれば、やがて灰色の海が見えた。打ちつける波は、当然だが遠目にも穏やかではない。

改札が2つしかない駅で下車した木吉は、ビニール傘を差してほど近い砂浜を目指す。秋と言うには早すぎて、夏と言うには遅い雨の浜を訪れる酔狂な人間は木吉以外いなかったらしく、それでも残る海の家の残骸を横目に、木吉は波打ち際までたどり着いた。真新しいスニーカーに、濡れた砂がまとわりつく。傘に落ちる雨はそう強くもないが、吹き付ける潮風に煽られて、木吉は軽く目を伏せる。

荒く打ち寄せる波を見るともなく眺めていた木吉は、やがてポケットから白い封筒を取り出した。表には、日向順平様、とだけ書かれている。何の飾りもない文字は、当たり前だが木吉が書いたものだ。
糊付けもしていない封筒の中には、便箋が一枚だけ入っている。何度も書き損じて、書き直した真っ白な紙には、結局一言しか残っていない。木吉が日向に伝えたいことは、最終的にこの4文字だけだった。それ以上でもそれ以下でもない。口に出すなら2秒もかからないその言葉が、木吉の全てである。

木吉がこんなところまでやってきたのは、この手紙を捨てるためだった。渡すことも破ることもできず、家まで持ち帰ってしまったものの、これ以上こんなものに振り回されるわけには行かない。もう二度と走れないかもしれない、という夜を支えてくれたことは確かだが、どう考えても叶うとは思えなかった。深呼吸した木吉は、最後に日向の名前を一撫でして、中身ごと封筒を引き裂く。ほとんど抵抗もなく真っ二つになった紙を重ねて、さらに細かくちぎった木吉は、砂浜にしゃがみこんで、一際大きい波に紙切れを浮かべた。一瞬浮かび上がった便箋のかけらは、余韻もなく薄暗い海へ引きずり込まれていく。一枚くらい残るかと思ったが、砂浜には何の跡もなかった。
これでさよならだな、と呟いた木吉は、自分の声が思ったよりも擦れていることを知って、膝を抱える。楽な姿勢ではない。痛くはないが、膝に負担をかけている自覚はあって、木吉はますます恨めしくなった。こんなことにさえならなければ。何事もなく日向の隣でバスケを続けることができれば、きっと一番幸せだった。あらゆるものをバスケで昇華して、いつか遠い未来に気づくそれは、綺麗な思い出になっただろう。悲しいわけではないので、涙は流れなかった。ここで終わりにしなくてはいけない。月曜日、笑って日向と向き合えるように。

いつの間にか雨は強くなり、木吉は冷え切った指先を擦りあわせた。帰ろう、と立ち上がった木吉は、薄く張り付く上着から携帯を取り出す。帰りの電車の時刻を確認しようとしたのだが、画面には不在着信通知が残されていた。病室ではずっとマナーモードで、解除し忘れていたから気付かなかったらしい。おそらく祖父母からだろうと、慌てて掛け直そうとした木吉は、表示された文字に指を止める。そこには、『日向順平』の名前が並んでいた。どうして、と画面を見つめる木吉の前で、計ったように携帯が震えだして、着信相手がまたしても『日向順平』だったので、木吉はかじかんだ指で通話ボタンを押す。

「…はい、」

木吉です、と言いかけた木吉の言葉を遮って、『出るのが遅ェ』とひどく不機嫌な日向の声が聞こえる。なんだか気が抜けた木吉は、「すまん、気付かなかった」と返しながら、ひとまず骨組みと気持ち程度の屋根が残る海の家の跡まで移動した。傘は差したまま、一番乾いた木材に腰を下ろす。『退院おめでとう』と日向が言うので、「ありがとう」と返してから、「でもなんで知ってるんだ?」と木吉は首を傾げた。退院日はずいぶん前から決まっていたが、日向には今週中としか伝えていなかった筈だ。だからもう来なくていい、と告げた時の日向が明らかにほっとしていたのは、気のせいではない。

『お前の祖父ちゃんから電話があって、』

今までの見舞いの礼と、木吉が海に行くといっていたことを教えてくれたのだと日向は答える。『海ってなんだよ、お前らしいっちゃらしいけど』と、電話の向こうで日向が笑う気配がしたので、木吉は携帯を握りしめて、「そうか?俺は意外だったけどな」と返した。何が悲しくて、自分で書いた手紙一枚のためにこんな場所まで来たと思っている。こんな風に割り切らなければならないほど日向を引きずるつもりなどなかったのだ。木吉のことなど何とも思っていない日向のために、こんなことまでしたくなかった。今度こそ泣きそうになった木吉は、それでも通話を切ることができない。

忘れることすら許してくれない日向に、何を伝えることもできない日向に、せめて月曜日は笑えるように、今はただ日向の声が聞きたかった。少し間を開けて、『お前、本当はどこに行きたかったんだ』と、日向が尋ねるので、「全国大会かな」と真顔で木吉が答えると、『ダァホ』と呆れ声で日向は言った。『それをお前が言うなよ』と、一段落ちた日向の声はひどく柔らかく響いて、「間に合わなくて悪かった」と、木吉は拳を握る。『謝られても困るから、早く帰って来い。月曜と言わず、明日からでも』と木吉を見透かすように日向が笑うので、木吉は思わず息を飲んで、「…真に受けるぞ」と口にした。

『好きにしろよ』と日向の口調はあくまで軽く、だからこそ木吉は深く息を吐く。木吉には帰る場所があるのだ。他愛ない会話を2,3往復して、『じゃあ切るけど、お前も早く帰れよ。おやすみ』と日向が言うので、「ありがとう。…日向も、おやすみ」と木吉は返す。何でもない会話が、ひどく嬉しかった。

電話を切ってから確かめれば、通話時間は12分だった。一日24時間、×60で3600分、12分で割って300、だから木吉は日向の300分の1日をもらったことになる。考えてみればこの一年、日向は木吉にどれだけの時間を割いてくれただろう。木吉が無為に過ごす24時間と、日向のそれとは、比べ物にならない価値があったはずだ。それで十分だった。木吉が日向を思う理由は、それだけで十分だった。木吉が真っ白な便箋と向き合う時間より、日向と過ごす時間の方が大切だったように、あんな紙切れ一枚で拭い去れるような思いでもなかったのだろう。すっかり暗くなった空と海に視線を移して、「さよならは取り消しだ」と木吉は呟く。

降りしきる雨の中に踏み出した木吉は、清々しい気分でまだ温かい携帯を握りしめた。今日の夕飯はなんだろうな、と考える木吉は、振り返らずに歩いていく。濡れた砂浜に残る足跡はすぐ水たまりに変わり、やがて流れていった。わりとずぶ濡れだった木吉は、それでも風邪など引きはしなかった。


( 日向と木吉  / 121101 )