0 8 . さ よ な ら 初 恋
退院日は木曜だった。 柔らかい木の感触にほっと息を吐いた木吉は、荷解きもそこそこに居間へ下りると、「じいちゃん、ちょっと海を見に行ってくる」と、新聞を広げていた祖父に告げる。木吉の声に、祖母も台所から顔を出して、「今から?明日じゃダメなの?」と問い掛けた。「今からいかないといけないんだ」と木吉は頷く。祖父母は木吉を引き止めて、せめて一緒に、と妥協策を提示したが、「自分一人で歩けることが嬉しい」と言えば、それ以上何も言わなかった。卑怯なことをしている自覚はあった。自分の傷を盾になんて、以前の木吉であれば思いつきもしなかっただろう。それでも木吉は、今海が見たかった。 改札が2つしかない駅で下車した木吉は、ビニール傘を差してほど近い砂浜を目指す。秋と言うには早すぎて、夏と言うには遅い雨の浜を訪れる酔狂な人間は木吉以外いなかったらしく、それでも残る海の家の残骸を横目に、木吉は波打ち際までたどり着いた。真新しいスニーカーに、濡れた砂がまとわりつく。傘に落ちる雨はそう強くもないが、吹き付ける潮風に煽られて、木吉は軽く目を伏せる。 荒く打ち寄せる波を見るともなく眺めていた木吉は、やがてポケットから白い封筒を取り出した。表には、日向順平様、とだけ書かれている。何の飾りもない文字は、当たり前だが木吉が書いたものだ。 木吉がこんなところまでやってきたのは、この手紙を捨てるためだった。渡すことも破ることもできず、家まで持ち帰ってしまったものの、これ以上こんなものに振り回されるわけには行かない。もう二度と走れないかもしれない、という夜を支えてくれたことは確かだが、どう考えても叶うとは思えなかった。深呼吸した木吉は、最後に日向の名前を一撫でして、中身ごと封筒を引き裂く。ほとんど抵抗もなく真っ二つになった紙を重ねて、さらに細かくちぎった木吉は、砂浜にしゃがみこんで、一際大きい波に紙切れを浮かべた。一瞬浮かび上がった便箋のかけらは、余韻もなく薄暗い海へ引きずり込まれていく。一枚くらい残るかと思ったが、砂浜には何の跡もなかった。 「…はい、」 木吉です、と言いかけた木吉の言葉を遮って、『出るのが遅ェ』とひどく不機嫌な日向の声が聞こえる。なんだか気が抜けた木吉は、「すまん、気付かなかった」と返しながら、ひとまず骨組みと気持ち程度の屋根が残る海の家の跡まで移動した。傘は差したまま、一番乾いた木材に腰を下ろす。『退院おめでとう』と日向が言うので、「ありがとう」と返してから、「でもなんで知ってるんだ?」と木吉は首を傾げた。退院日はずいぶん前から決まっていたが、日向には今週中としか伝えていなかった筈だ。だからもう来なくていい、と告げた時の日向が明らかにほっとしていたのは、気のせいではない。 『お前の祖父ちゃんから電話があって、』 今までの見舞いの礼と、木吉が海に行くといっていたことを教えてくれたのだと日向は答える。『海ってなんだよ、お前らしいっちゃらしいけど』と、電話の向こうで日向が笑う気配がしたので、木吉は携帯を握りしめて、「そうか?俺は意外だったけどな」と返した。何が悲しくて、自分で書いた手紙一枚のためにこんな場所まで来たと思っている。こんな風に割り切らなければならないほど日向を引きずるつもりなどなかったのだ。木吉のことなど何とも思っていない日向のために、こんなことまでしたくなかった。今度こそ泣きそうになった木吉は、それでも通話を切ることができない。 忘れることすら許してくれない日向に、何を伝えることもできない日向に、せめて月曜日は笑えるように、今はただ日向の声が聞きたかった。少し間を開けて、『お前、本当はどこに行きたかったんだ』と、日向が尋ねるので、「全国大会かな」と真顔で木吉が答えると、『ダァホ』と呆れ声で日向は言った。『それをお前が言うなよ』と、一段落ちた日向の声はひどく柔らかく響いて、「間に合わなくて悪かった」と、木吉は拳を握る。『謝られても困るから、早く帰って来い。月曜と言わず、明日からでも』と木吉を見透かすように日向が笑うので、木吉は思わず息を飲んで、「…真に受けるぞ」と口にした。 『好きにしろよ』と日向の口調はあくまで軽く、だからこそ木吉は深く息を吐く。木吉には帰る場所があるのだ。他愛ない会話を2,3往復して、『じゃあ切るけど、お前も早く帰れよ。おやすみ』と日向が言うので、「ありがとう。…日向も、おやすみ」と木吉は返す。何でもない会話が、ひどく嬉しかった。 降りしきる雨の中に踏み出した木吉は、清々しい気分でまだ温かい携帯を握りしめた。今日の夕飯はなんだろうな、と考える木吉は、振り返らずに歩いていく。濡れた砂浜に残る足跡はすぐ水たまりに変わり、やがて流れていった。わりとずぶ濡れだった木吉は、それでも風邪など引きはしなかった。
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( 日向と木吉 / 121101 ) ▲ |