0 6 .   落 日   

「トリックオアトリート」と平坦な発音が落ちて、日向は日誌から顔をあげた。いつの間にか教室に入り込んでいた木吉が、やけに得意そうな顔で両手を差し出すので、日向は鞄からどら焼(こしあん)を出して、木吉の手に乗せてやる。「何で持ってるんだ?」と首を傾げた木吉が少しばかり不満そうなので、いらないなら返せ、と日向は言った。どの道、木吉と会わなければ日向の腹に収まっていたものではある。

「いらなくないです、ありがとう」と素直に礼を言った木吉は、日向を見下ろしたまま何かを待っていた。素知らぬ顔をして、すでに書きあがった日誌に目を落とす日向の後頭部には、意味ありげな木吉の視線が突き刺さる。結局先に焦れたのは日向で、「トリックオアトリート」と無気力に言ってやれば、木吉は嬉しそうに、袋入りのいちごみるくをざらざらと机に開けた。転げ落ちそうになった一つを受け止めて、「黒飴じゃねえんだな」と日向はいちご模様の包み紙を透かす。

「だって日向、黒飴嫌いだろ?」

去年一度も食わなかったじゃないか、と当然のように木吉が言うので、「黒飴じゃなくてお前が嫌いだったんだよ」と、いちごみるくを一つ口に放り込みながら日向は答えた。木吉が日向へ執拗に黒飴を勧めたのは、日向がまだ金髪だった頃の話である。なんで黒飴だよ、と思ったのは確かだが、別に黒飴に罪はない。当時の木吉が口も利きたくない相手だっただけの話だ。そこで木吉が笑うので、「何だよ、気持ち悪ィな」と日向がいちごみるくを噛み砕けば、「嫌いだったってことは、今はそうじゃないんだな」と木吉は今更なことを言う。「嫌いな相手の好物を鞄に仕込んでおくほど暇じゃねえよ」と、日向は机の隅に置かれたどら焼きを突いた。

「…これは俺にくれるものだったのか?」

木吉が今度こそ信じられない、という声を上げるので、「他に誰が喜ぶんだ、こんなんで」と、日向は木吉のどら焼きを取り上げると、薄いセロファンを剥いて木吉の口元に差し出す。「せっかくだから半分こしようぜ?」と木吉は言ったが、「いいから黙って食え」と、日向は木吉の口にどら焼きを押し込んだ。お前のために用意したんだよ。俺が食ってどうする。そもそも、日向の口にはいちごみるくが残っている。日向の机に寄り掛かってどら焼きを咀嚼する木吉は、酷く幸せそうな顔をしていた。ゆっくりどら焼きを食べ終えてから、「日向はどうして俺に食べるものをくれるんだ」と木吉が尋ねるので、「食ってる間はお前が静かだからだよ」と間髪入れずに日向は返して、木吉の唇に付いた餡子を親指の腹で拭った。これをどうする、と日向が考えるまでもなく、木吉は日向の親指を咥える。そう多くも無かった餡子を丁寧に舌でなぞって、「甘いな」と木吉は言った。しょっぱかったら困るだろ、とはさすがに日向も言わなかった。

口の端に残っていたいちごみるくの欠片を飲み込んで立ち上がった日向は、木吉の唾液で塗れた指を無造作に制服で拭って、「お前、ハロウィンなんてどこで覚えてきたんだ」と問いかける。「クラスの女子がこれを配っててな」と、木吉が柄付きのマシュマロを見せるので、日向は無言でそれを奪い取った。あ、と声を上げた木吉を尻目に、オバケ柄のマシュマロをぽいと口に放り込んだ日向は、「仮装もせずに菓子だけ欲しいなんて、甘いんだよ」と木吉の頬を抓む。マシュマロにはチョコクリームが仕込まれていて、なかなか美味い。「お菓子が欲しかったわけじゃないんだがな…」と呟いた木吉に、「ごちそうさま」と日向が笑えば、「…お粗末様です」と木吉の声は薄暗い。じゃあ何がしたかったんだ、と聞いてやらないのはもちろん仕様である。

鞄を取って、木吉の横をすり抜けた日向は、「マシュマロくらい買ってやるから、とりあえず猫耳な」とごく普通の声で言った。「無印のチョコマシュマロにしてくれ」と答える木吉は、現金なものですでに笑顔である。「…お前って結構安いよな…」と、315円で釣れる木吉にしみじみ日向が呟けば、「うん、日向は趣味が悪いけどな」と、木吉はもう何度目になるかわからないことを言った。お前よりはマシだ、と正当な自己評価を下した日向は、ともかく沈みかけた夕日を背に教室を後にする。並んで歩きながら、「ところで、ハロウィンはあしただぞ」と日向が言えば、「そうだったのか?だったら、あしたは黒飴にする」と木吉は返した。

じゃあ俺は虎焼きでも買うか、と思ってしまうあたり、日向はずいぶん木吉に絆されているし、そもそもハロウィンなど関係なく鞄に木吉用のどら焼きが入っている時点で相当なのだが、そんなことには日向も木吉もまるで気づかないのだった。職員室に日誌を置いて、下駄箱までは競争だった。E組の木吉より、C組の日向の下駄箱の方が近いのは、何も日向のせいではなかった。

無印のチョコマシュマロは、駅前のファミマで売っていた。


( 日向と木吉  / 121030 )