0 5 .  デ ル タ   

木吉家の縁側で通い猫の喉を撫でていた日向は、ある種の熱烈な視線に気付かない振りをしていた。
猫は灰色と黒の縞で、柔らかな白い胸をしている。去勢されている上に飢えた様子もない彼(暫定)は、木吉家で何をするわけでもなく陽だまりに寝転び、ときおり愛想のように膝を催促した。
はじめて会う猫にほぼ例外なく冷たくされていた日向は、何の抵抗もなく日向の指を受け入れる猫に夢中で、このところ2階に上る回数が減っている。ぐるぐる、と控え目に喉を鳴らす猫は、どう差し引いても木吉よりずっと可愛いからだ。
木吉は日向に何を言うこともない。ないのだが、穴が開くほど見つめるくらいなら何か言ってもいいんじゃないか、と日向は思う。構って欲しい、と木吉がいうのなら、二人で木吉をあやしに行くこともやぶさかではないのだ。猫は日向を嫌がらないし、持参した玩具を喜んでくれるが、木吉のことは別の次元で気になっているらしい。

ゆらゆら揺れる縞模様の尾を眺めて、「どうする?」と小声で問い掛ければ、猫はにゃあとも言わずに立ち上がって、木吉に見える角度で日向の膝に乗り上げた。なるほど、と頷いた日向が、さも幸せそうに(実際至福の時なのだが)猫の背に指を埋めれば、猫は片目を開けて木吉を一瞥する。役者だな、お前。

そこでようやく顔をあげれば、陽が差し込まない部屋の隅で正座した木吉がひどく情けない顔をしているので、軽く吹き出した日向は、「そんなとこで何してんだよ」と声をかけた。
傍らの電気ポットに目を落とした木吉は、「一区切り付いたら飲むかなって」と、心許ない音を溢す。もう30分もか。呆れよりも笑いが先に立って、日向は猫の両前足に手をかけると、耳と耳の間に鼻を埋めながら、「こいつがいる限り区切りはねえなあ」と言ってやった。
普段ほとんど声をあげない猫も、こんな時ばかりは異様に可愛らしい声を立てて、日向の首に尻尾を巻き付ける。これは役得という奴だろう。ちらり、と伺った木吉はもうほとんど泣きそうな顔で、「そうか、だったら仕方ないな」と口だけの言葉を吐いた。ダメだな、と言う表情で猫を見つめれば、もういいだろ、と猫は目を閉じて、日向の膝を半分開ける。

猫の耳を摘んだ日向は、「区切りはねえから、お前も来いよ」と木吉を手真似いた。えっ、と目を丸くした木吉に、「ここはお前の家で、お前の客で、お前の通い猫だろ。なんでお前が遠慮してんだよ。いいから早く茶を淹れろ、俺とこいつをもてなせ」と日向が告げれば、木吉は弾かれたような勢いで急須に湯を注ぐと、湯呑を片手に立ち上がった。やっぱり手がでかいと便利だな。
縁側の縁に湯呑を並べて、慣れた手つきで茶を注いだ木吉は、思い出したように戸棚まで戻り、急須に手にしたままカントリーマアムと小分けのにぼしの袋を掴む。

「日向、これ平気か?」

片手を上げた木吉に、「嫌いじゃないぞ、にぼしも」と日向は笑って見せた。とたんに、にゃう、と猫が鳴く。
「悪い、取らねえって」と日向は猫の喉を掻いて、カントリーマアムを置いた木吉と日向の間にそっと下ろした。ざらざらとにぼしを紙皿に開けた木吉は、ひどく優しい手で猫の頭を撫でる。目を細めた猫は、にぼしを咥えて、ひとつずつ木吉と日向の前に置いた。日向はぽい、とにぼしを口に放り込む。

「…手を洗わなくていいのか?」と、湯呑を手にした木吉が首を捻るので、「なんでだよ」と日向は素っ気なく返して、「お前を撫でた後だって、別に手は洗わねえだろ」と続ける。その途端、木吉が大きく咽せて湯呑からお茶をこぼすので、猫は大きく飛び退る。
「何してんだよ」と、日向はタオルを取った。日向のタオル(部活で使用済)で塗れた服と顔をぬぐった木吉は、タオルを目に当てたまま「日向の中で、猫と俺は同列なのか?」と呟く。「猫の方が5倍くらい可愛いけどな」と日向が頷けば、木吉はぎゅう、とタオルを握りしめて、「じゃあ俺も膝に…乗っていいか…?」と問いかけた。
震える声と指で。「それは無理があるだろ、体格的に」と、日向は日向で面白くない台詞を吐けば、木吉は目に見えて肩を落として、「そうか、そうだな」とそれでもはっきりした声を返す。タオルを畳んだ木吉がそれ以上何も言わずにカントリーマアム・バニラを手に取るので、日向はとりあえずタオルを膝に敷いて手招いた。
カントリーマアム・バニラを齧った木吉が不思議そうな顔をしているので、「膝抱っこは無理だが、膝枕ならしてやる」と日向が真顔で両膝を叩けば、木吉は食べかけのカントリーマアム・バニラを放り出して、日向の膝に身を投げる。いやもったいないだろ、カントリーマアム・バニラ。湯呑も危ないし。

日向の腰に抱きつく木吉の柔らかい髪を撫でながら、木吉が放ったカントリーマアム・バニラを口に放り込んだ日向は、「…にぼしとカントリーマアムは合わないな」と呟いた。いつの間にか帰ってきた猫が、木吉の頭に寄り添って香箱を組むので、日向は陽の光を浴びてほかほかになった猫の背に手を置く。

木吉が淹れてくれた緑茶をごくりと飲んだ日向は、「お前より猫の方が話が通じるのは何とかなんねえのか」と木吉の耳を引く。「猫と喋れるなんて日向は凄いな」と木吉が心の底から感動したような声を上げるので、「うん、もうそれでいいわ」と、日向は身を屈めて木吉の髪に口付けた。ひなたの匂いがした。


( 日向と木吉  / 121018 )