0 3 . 花 一 匁   

「『勝って嬉しい』は、『買って嬉しい』なんだってね」

頬杖をついたリコが言うので、木吉は走らせていたペンを止めて顔を上げた。発音でニュアンスの違いは伝わったが、それがなんだというのだろう。「やらなかった?勝って嬉しいはないちもんめ、負けて悔しいはないちもんめ」と節をつけてリコは歌う。

「どうだったかな…したような気もするし、しなかった気もするな」

几帳面なリコの文字で埋まるノートに視線を移しながら木吉は答えた。誰かと手を繋いで、誰かを取り合う。どちらにしても、木吉は幼いころあまり人に好かれていなかったから、一番最後まで残っていたはずだ。思い出したくもない。
「急にどうしたんだ?やりたいのか」だったら、日向に言って練習の前にでも−と言いかけた木吉は、リコの双眸がきつく絞られるのを見て口を閉じる。「ふざけないで」と返されてしまえば、木吉は笑うしかない。「俺は、リコほど頭も勘も良くないんだよ」と先を促すと、リコは机の上で両手を重ねた。
決心したように息を吐いたリコは、座ってなお頭ひとつ分高い位置にある木吉の目を見つめて、「鉄平は日向の同情を買ったの?それとも、ほかの皆に勝ったの」と言った。軽やかな声は、リコがずっと前からそれを考えていたのだということを木吉に告げる。蝉の声が雨のように降り注ぐ。やけに薄暗い。

「…考えたこともなかったな」

ぽつりと木吉が落とせば、リコは口元を歪めて目を伏せた。「リコは、どっちだったらいいと思う?いや、どっちだと思う」と、木吉は柔らかく問いかける。酷い台詞だ。こんなことを言いたくはなかっただろうし、木吉も言わせたくなかった。日向はその比ではないだろう。しばらく間を開けてから、「日向は同情でひとを好きになったりしたいわ」とリコが断言するので、「そもそも、好きなのかどうかもわからないしな」と木吉はまた少し笑った。同情でも、愛でもないのなら、木吉は一体何を得たのだろう。何かを得たのだろうか。誰と何を争って、日向を引き入れたのだろう。
かちかち、とシャーペンをノックして芯を繰り出した木吉は、去年のリコのノートから要点を書き写す作業に戻る。バスケ部の助力と、自主学習の成果でなんとか授業には参加しているものの、零れ落ちるものはあって、リコとの放課後の1on1は木吉の命綱だった。日向のノートには不要なものが多すぎる。それが学年2位と112位の差なんだろうか、と現時点で180位前後をうろうろしている木吉は浅く溜息を吐いた。それでも日向のノートが好きだ、と言える立場でもない木吉の胸先に指先を突き付けて、リコは言う。

「あんまりふざけたことばかり言っていると、私が貰うわよ」

視線は、木吉から離れない。ぱき、と折れた芯は、ノートを転がって微かな軌道を描いた。消しゴムでも落ちない汚れはあるものだ。「リコは無理じゃないか?」と、努めて冷静に木吉はリコの目を見つめ返す。嘘だ。リコが本気になったら、日向は木吉になど目もくれないだろう。まだ『嫌い』が『好きじゃない』に変わった程度なのだ。まだ、と言ったけれど、この先それ以上先に進めるのかどうかも木吉にはわからない。何よりリコは女の子なのだ。木吉にはどうしても持ち合わせることのない器官も、機能も、何もかも持った存在である。木吉さえいなければ、日向は迷うことなくリコと愛を育んだのだろう。でも、木吉はもうここにいる。笑顔が引き攣っていなければ良い、と思いながら口角を上げた木吉は、「リコにはきっともっと良い相手が見つかるさ」と、心にもないことを言った。それから、リコが口を開く前に机上の文房具をまとめて鞄に押し込むと、

「そろそろ着替えないと、また日向にどやされる。ノート、ありがとな、またあとで」

木吉は蹴り出すように椅子を立って、人気のない廊下に飛び出していく。動悸が激しい。そんな風に思われているんだろうか、他の誰にも。日向にも。木吉は、確かに日向が欲しかったけれど、日向に強要した覚えはなかった。少し強引に奪いはしたが、でもそれだけだった。それで終わって良かったのだ。それ以上を与えてくれたのは、木吉にだからではなく、日向が優しいからだと木吉は知っている。走りながら涙が出そうになって、木吉はぐっと腹に力を込める。それこそ、リコのものならともかく、木吉の涙になど何の価値もないだろう。見せたくもないし、見たくもないはずだ。引き攣った喉が痛かった。呼吸ができなかった。

* * *

木吉が空けた窓を閉じて鍵を閉めてから、リコは拳を握って机を殴りつける。鈍い音がした。痛かった。けれども、木吉はきっともっと痛かったに違いない。物理的に殴ったほうがずっと良かった。リコにとっても、木吉にとっても。それでも言わずにはいられなかったのだ。あんたが要らないなら、頂戴よ。あんなにたくさん与えられておいて、まだあんなことを言う木吉に腹が立って仕方がなかった。コートの外側から、並んで歩く後ろから、見上げる首の角度から、向けられていないリコにさえ伝わるのに。日向も日向だった。溢れるほどの優しさと愛情に違いなどないのだと、本当にわかっているのだろうか。
それでも、木吉はリコに譲る、とは言わなかった。
あんな顔で笑っておいて。もっと良い人だなんて。「私の価値基準を、あんたが決めないでよ、鉄平…!」と、呟いて蹲ったリコの目からは、それでも涙など一滴も溢れはしなかった。リコにとってはその程度のはなしだった。


( 木吉とリコ  / 120909 )