0 2 . 蠍 の 火   

電子辞書の電池が切れたので、近所の大型ドラッグストアまで自転車を走らせて豆電池を手に取った日向が、ついでのようにカップアイス(氷いちごと氷あずき)も買って自宅に戻ると、課題に向かっていたはずの木吉がソファに転がって寝息を立てていた。普通サイズのソファから、膝下が溢れている。

テスト前のことだ。
部活も休みだし、一緒に勉強しよう、と持ちかけたのは木吉の方である。特に断る理由もなかった日向は、少し考えて勉強場所に日向宅の居間を指定した。「俺の家のほうが近いぞ?」と木吉は首を捻ったが、正直な話、扇風機しか冷房のない木吉の部屋ではおちおち勉強などしていられない。適当な理由をつけて(お前の家だとばあちゃんたちに気を使う)、クーラーの利いた日向宅に落ち着いたふたりは、それなりの態度で課題に向かっている。赤点以上は最低ラインで、日向にも日向なりのボーダーがあるし、木吉にはまず1年近くのハンデがあるのだ。留年もせずここにいること自体脅威である。あの明るくて冷たい病室に、何枚プリントを運んだのか、日向はよく覚えていない。初めはクラスの連中が押しかけていたらしいが、半年たっても定期的に足を運んでいたのは日向と、バスケ部の5人だけだという。木吉は案外楽しそうにしていたが、だからといってそれを額面通りに受け取れるものでもない。

時折、眠る木吉に遭遇することもあった。リハビリ疲れなのだ、とごく柔和な頬をした木吉の祖母が、花瓶に新しい花を活けながら教えてくれたことを覚えている。木吉が語らない木吉の入院生活を、日向は彼らからいくつ聞いただろう。もちろん、話したくないことを聞き出したいわけでもなかったのだが。だから日向にとって、木吉の寝顔は特に珍しいものでもない。

日向宅のソファは、母親が奮発しただけのことはあって割と良い座り心地だったし、日向自身も良く転寝しては母に突き落とされたりしている(寝汗がつく、と言うのが理由らしい)。ともかく、カップアイス(かき氷)は冷凍庫にしまっておいた。特に気を使うこともなく、木吉が占領するソファーの脇に座った日向は、木吉が進めた課題を一瞥して軽く目を細める。日向より数ページ進んでいることが腹立たしくて、豆電池を入れ替えてからテキストに向かった。こんなことに何の意味がある、と思わないこともないが、少なくともテストの点数は上がる。どうにか木吉と同じページまでたどり着いたところで、木吉が軽く呻いて体を縮めようとするので、日向はとっさに転げ落ちそうになった木吉の身体を両腕で支えた。重い。やたら重い。この81Kgが。起きろ。叱咤しそうになる舌を堪えて、なんとかソファの上に木吉を押し戻した日向は、辺りを見回した。探していたのはエアコンのリモコンである。教科書の下敷きになっていたそれを救って、設定温度を3度上げ、風量を「微風」にした日向は、少し考えてから洗面所に行き、畳んで棚にしまってあった日向のバスタオルを取り出した。青と白のパイル地は、幾分色褪せているが、大きめな上に手触りは良い。
心持ち眉をひそめて眠る木吉の腹にふわりとバスタオルを広げれば、木吉はもぞもぞと丸まって、タオルの縁を握る。仏頂面で見下ろす日向の視線には欠片も気づく様子がない。

「幸せそうにしてろよ」

薄く呟いた日向は、またソファに背を預けて、木吉に出してやった麦茶のコップに手を伸ばす。もう温い。氷と熱で薄まった麦茶は、だからこそ何の抵抗も無く喉を通って、日向の腹に収まる。この中には木吉の唾液も幾分混じっているのだろう、と何の感慨もなく思った日向は、電子辞書の蓋を閉じて目を閉じた。木吉の正しい寝息が聞こえる。日向よりよほど厚い胸が規則正しく上下する様さえ、瞼の裏に浮かぶ。

ほんとうは、日向もあの病室で眠りたかった。落ちかけた金色の日差しが差し込む窓辺で、深い眠りに落ちる木吉の隣はひどく心地良かったのだ。その眠りが安寧ではないとしても。この感情を何に例えていいのか、日向にはわからなかった。だから、眠りに落ちる木吉の隣で、日向は今も口に出せずにいる。

結局眠ることもなく顔を上げた日向は、ただし木吉の眠りを妨げることもせずに、水滴が浮かぶガラスのコップを意味もなく見つめた。温度差。言い表すとしたら、それだ。この生ぬるい感情と、木吉の濁流のような感情とでは、きっと熱が違うのだ。だから噛み合うこともない。ここはこんなに心地良いのに。お前がずっと寝ていたらいいのにな、とさすがに声は出さずに呟いた日向は、気を取り直して机に向かい直す。木吉が目を覚ます前に、もう少し差をつけておきたかった。微々たる物かもしれなかったが。やがて、肘かけから頭が落ちて覚醒した木吉は、目の前の日向を見て、腹の上のバスタオルに視線を移す。

「…これ日向が?」

溜息のような音で木吉が言うので、「他に誰がいるんだよ」と憎まれ口を叩きながら日向は立ち上がった。どこへ、と言いたげな木吉をよそに、日向は氷あずきと氷いちごを手に戻ってくると、「どっちがいい」と木吉の目の前に突き出した。え、と零した後、「こっち」と木吉は氷あずきを指す。ふうん、と頷いて氷いちごを木吉の腹に乗せれば、木吉は大きく目を見開いて、「日向は意地悪だな」と今更のように言った。「おう、お前にはな」とあっさり肯定した日向は、蓋を取って鬼のように固いあずきにスプーンを指した。ワンテンポ遅れていちごを食べ始めた木吉が、少しばかり嬉しそうなことは指摘しない。
いつものことだ。氷いちごがすきな日向と、同じくいちごがすきな木吉を秤にかけて、木吉はいつだって氷あずきに手を伸ばす。わかっていながら、日向もいちごを差し出す。始めからいちごを二つ買えば良いことはわかっていた。でも、それでは意味がないのだ。あの柔らかくて優しい病室での光景を繰り返すだけではいけない。

「日向は意地悪だなあ」

もう一度木吉が呟くので、「お前もな」と答えた日向は、木吉を押しのけてソファの半分を奪還する。キャンバス地のソファに背を預けながら、日向が口に運ぶ氷あずきはいつまでも舌の上に甘さを残した。木吉の唾液と、いっそ同じ味がした。眩暈のようだった。


( 日向と木吉 / 120909 )