※メフィストと藤本の過去捏造話

 初 め に 光 が あ っ た 


時計塔の天辺に腰を下ろしたメフィストが、「ほら藤本神父、夜明けですよ」と地平線の果てを指すので、「ああわかるよ、わかってるからお前もちょっとは手伝えよ!!」と、機械室の梯子段に足を掛けてマシンガンから薬莢をばら撒きながら藤本は叫ぶ。打ち捨てられた塔に住み着いていたのはおそらくヨルムンガルドの眷属で、藤本はあとからあとからあふれ出る無数の蛇の頭をひたすら打ちぬき続けているのだが、本体と残弾とに追い詰められて、もうほとんど後がない。返事もしないメフィストに舌打ちをしつつ、最後のマガジンを装填した藤本は、数時間前のことを思い返していた。

明らかに異質な空気を放つ塔の前で、ふむ、と首を捻ったメフィストが、「あなた方はここに入らない方が賢明ですね」と、他の祓魔師を待機させた時点で、瘴気の程度はわかっていたつもりだったのだが、それにしても聖水に浸した顔布をつけても呼吸が苦しい程度の場所に藤本一人を残して、メフィストは何を考えているのだろう。藤本は確かに全称号を取得した聖騎士ではあったが、それでも、祓魔師は本来たったひとりで戦える存在ではないのだ。頼みの綱である筈のメフィストは、己に向かってくる蛇を無造作に薙ぐばかりで、藤本を振り返ることもない。今日ばかりは黒コートのメフィストの背中を眺める藤本にとっては、俺そろそろお払い箱なのかな、と、悲しくなる程度の光景ではあった。っくしゅ、と軽いくしゃみを落としながら進むメフィストを追うように進んでいった藤本は、「藤本神父、この先は行き止まりなのですが、私に着いてきて良いのですか?」とメフィストに尋ねられてようやく、「お前何しに来たんだよ!」と藤本は怒鳴った。

澄ました顔で、何を怒っているんです、と返したメフィストは、「私はあなた方の監査に来ただけですから、それ以上の手出しはしないとわかっていたでしょう」と、ごく簡単に藤本を切り捨てて塔の上部へと足を向ける。そりゃあ、そうだけど、じゃあなんで俺一人で、と言い募りかけた藤本を制して、「統率のとれない7人でかかるより、あなた一人の方が生存率は高い、そうですね?」とメフィストはほとんど断定系で問いかけた。「そりゃそうだけど、」と、言った藤本は、ヴァチカンに指定された祓魔師とほとんど面識もなく、「メフィストフェレス」とともに現れた東洋人の当代聖騎士を眺める彼らの目に浮かんだ色が蔑みであることを知っていたので、メフィストから目を反らして聖水を撒く。「…なんにせよ、本体を叩かねえとどうにもなんねえんだから、…追い詰められるのも悪くはねえかな」と呟く藤本に、「はい、それではがんばってください」と良い笑顔を向けて、メフィストが軽快に螺旋階段を上っていくので、藤本も仏頂面で足を動かした。

そうして、塔の屋上にほど近い機械室に陣取ってみたものの、結局明け方になっても本体は現れず、藤本は無駄打ちを続けている。これが終わったら始末書だろうか、と藤本が僅かに意識を逸らしたその瞬間、「陽が差しますよ、藤本神父」とメフィストの声が聞こえた。だから、とまた苛立ち交じりの声を上げようとした藤本の目の前にメフィストの仕込み刃が降ってくるのと、大きく口を開けた本体の眼球を藤本が打ち抜くのとはほとんど同時である。キシャアァァ、と耳障りな哭き声を上げた本体が螺旋階段一杯に蜷局を巻いているので、藤本は梯子の中程からメフィストの足が覗く最上部まで体を引き上げて、上げ蓋を閉じる。

黒皮のブーツに填まる銀の金具を朝日に煌めかせながら、「アレには集光性があると、伝えませんでしたかねえ」とメフィストがのんびりした声で言えば、「聞いてねえよ、でも助かったよ」と藤本は軽く礼を言う。ほとんど乾いてしまった顔布を引き剥がして、親指の先を噛み千切った藤本は、メリメリと音を立てる上げ蓋から視線を反らさずに、手早く床に呪縛の呪印を記した。ただの憑依体はともかく、これだけ大きくなってしまった本体には藤本の血が持つ魔除けの効果も僅かしか見込めないだろうが、ともかく無いよりマシである。十字架を握りしめて、すう、と息を吐いた藤本の隣に音もなく降り立ったメフィストが、「2分でよろしいですか」と問いかけるので、「1分半」と藤本は答えた。

「それでこそ」と笑みを浮かべたメフィストの声を合図に、本体が上げ蓋を突き破り、堅いうろこに覆われた頭を突き出してきたのだが、メフィストはごくわずかに体を捻って仕込み刃を抜くと、藤本が潰した目とは逆の眼孔を正確に貫く。ビチビチと苦しそうにのたうつ大蛇から目を逸らして、メフィストが藤本を振り返るので、藤本は軽く頷いて、致死節を固定する。

「汝はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われたものである、汝は生涯地を這いまわり、塵を食らう。 汝の子孫の間に、主は祝福ではなく敵意を置く!主はお前の頭を砕き、お前の踵を砕いた!」

ギュワア!と叫んで、メフィストの脇をすり抜けようとした大蛇の牙を無造作に掴んで、「アレはお前ごときに触れられるものではないよ」と、メフィストは薄く微笑んだ。光を失くした眼球に唇を寄せて、「さあ、あのやさしい人でなしの言葉で、お前も虚無界に還るが良い」とメフィストが囁けば、ようやくメフィストの正体を思い当たったらしい大蛇が、牙を折ってでもその場から逃げ出そうと身を捩った、ように見えたのだが、もう遅い。

「正史より続く主の命の元に、我もまた汝を滅さん!!」

と、一際高らかに放った藤本の声を受けた大蛇の身体はぼろりと大きく砕け、メフィストが手を離すまでもなく塵となって、機械室へと音もなく降り積もった。ぱたぱたと両手を掃って、床に落ちた仕込み刃を小脇に抱えたメフィストが、「お見事です、藤本神父」と微笑みかければ、「ありがとよ、でもできればもうちょっと早く助けてくれよ」と顔布を拾い上げながら藤本が溜息を吐くので、メフィストは鉄を芯にしたブーツの踵を鳴らして藤本に近づくと、訝しげな藤本の顔から眼鏡を外す。

そこまで自由にさせておきながら、「…なんだよ」と、普段から悪い目つきをさらに悪くしながら藤本が問いかけるので、「いいえ、ただあなたに怪我がないか確かめようと」と、メフィストはゆっくりと右手を藤本の額から頬へ、頬から首へ、首から胸へ、胸から脇腹へと移動させながら答えた。「別に今日はどこも痛くねえけど、…少し瘴気を吸いすぎたくらいで」とメフィストの右手を握りつつ、右手で顔布を口に当てた藤本が返せば、「ええ、これは完全に私の誤算でした」と頷いたメフィストは、藤本の右手を引き剥がすと、当然のような顔で藤本に口づける。特に抵抗も無い藤本の咥内に舌を滑らせたメフィストが、丹念に歯茎から喉の根元まで舐め上げると、藤本は軽く鼻にかかったような声を上げた。おそらく、苦しかったのだろう。

何度か唾液を飲み込ませた後で、メフィストが唇を離せば、藤本はメフィストの唇をがしがし拭って、「なあ、気持ちはうれしいんだけど、お前で中和すると聖水の効果が薄くなってそれはそれで困るんだよ」と眉根を下げた。「どうせ一時のことですから、構わないでしょう」とメフィストは首を傾げて、「それよりも、外に置いてきた6人はこれで中枢から追放です」と藤本に告げる。「はっ?」と訝しげな眼をした藤本を見降ろして、「当然でしょう、腐っても当代聖騎士を、単身どころか悪魔とともに悪魔の巣窟に送り込むような輩が罰せられないはずはありません」とメフィストはしたり顔で言った。眼鏡をかけなおした藤本は、「でもそれ、お前が指示したんじゃねえか」と言いかけたのだが、「日本であればともかく、ヴァチカンで権威を持つのは私ではなくあなたなのですよ、藤本聖騎士」と、メフィストが呆れたような目をするので、「何を怒ってるんだよ」と、藤本は黒手袋のメフィストの手を掴んだ。

藤本の手を握り返したメフィストが、「…怒ってはいません」と目を伏せるので、「なら拗ねてんのか?なんだよ、どうした」と藤本は左肩にかけていたマシンガンをはらい落として、左腕でメフィストの背を抱く。「どうして私があなたに慰められているような体なんです」と、藤本の肩に顎を乗せたメフィストが尋ねれば、「知らねえよ、お前のことだろ」と、メフィストの背を撫でながら藤本は答えた。握りこんだ藤本の右手の親指にまだ血が滲んでいるのを見て、軽く爪を立てたメフィストが、「私はただ私と一緒にいるだけで過小評価されるあなたを見て、苛立っただけなのですよ」と漏らすので、「あー、だから助けてくれなかったのか」と、藤本はようやく合点が言ったように頷く。

親指を口に入れようかどうしようか考えつつ、「この場をひとりで収めたとなれば、少なくとも畏敬の念くらいは得られるでしょう」とメフィストが言うと、「別に欲しくねえんだけどな、そんなもの」と、藤本の返答は素っ気ない。「そもそも、お前と仲の悪い振りをすることにもそろそろ意味がねえと思って得るんだけどな、俺は」と藤本が続けるので、「これ以上立場を危うくしてどうするんです」とメフィストは非難するように言葉尻を強くした。けれども、「表面上どうあっても疑いが晴れないんなら、堂々としていても同じことじゃねえか」と返す藤本の声に、確かな意思が籠っているので、メフィストはそっと藤本から離れて、「いつでも私が傍にいるわけではないのですよ」と言う。

にや、と唇を歪めた藤本が、「いまさら何言ってんだよ、最初の4年を忘れたのか?」とからかうようにメフィストの顔を見上げるので、「忘れないから言っているのでしょう」と、メフィストは藤本の右手を振りほどいて、左胸に左掌を押し当てた。「あなたがこの心音を保っていること自体がすでに奇跡だと私は知っている」と、ほとんど囁くように告げたメフィストの言葉を受けて、軽く目を見張った藤本は、「…お前、奇跡とか信じてるのか」と、妙なところに食いついている。「悪魔のくせに、奇跡とか天国とかロマンとか、お前面白いよなあ」と、藤本がへらへら笑っているので、「今はあなたの話をしているんです」と、メフィストが左手の指を藤本の胸に食い込ませれば、「ああうん、悪い」と藤本は笑みを消した。

「悪い、けど、俺にとって奇跡なんてその程度の価値しかねえんだよ」

と、ごく静かに続けた藤本は、メフィストの首筋に手を伸ばすと、「今ここにあることだけが俺の真実で、奇跡でもなんでもない現実だ」と断言する。「それはつまり、君が生きていることも私の存在も、ヴァチカンの対応も祓魔師の態度もすべて受け入れると、そう言っているのですか」とメフィストが問いかければ、「まあそうだな、もう俺一人の命でもないしな」と藤本はまた軽く笑みを落として、「だから、お前が俺のために俺を犠牲にしてくれなくてもいいよ」と、目を閉じながら言った。

メフィストが二の句を告げずにいる間に、藤本は精一杯背伸びをしてメフィストに軽く口づけると、「じゃ、さっさと報告して帰ろうぜ、日本に」と言って、サブマシンガンを拾い上げる。呪印の跡を聖水で流す藤本から3歩ほど距離を取って、「藤本君」とメフィストが声をかければ、「それは日本で」と藤本が2秒でメフィストの要求を断ち切るので、メフィストは軽く溜息を吐いて、「相変わらずつれないですねえ、仕事中のあなたは」と返した。けれども、「いや、仕事とかそういうの置いておいて、もうこういう場所でことに走れるほど若くねえっつうか…お前も埃でくしゃみしてただろ」と答える藤本の声がごく優しいので、「はい、ではそういうことにしておきましょう」と、メフィストは藤本の手を握る。

メフィストの手を柔らかく握り返して、「入口までな」と釘を刺す藤本が、聖水の空き容器をきちんとポケットに戻すので、「相変わらず律儀ですねえ」とメフィストが揶揄するように眉を上げれば、「備品もタダじゃねえんだよ…」と藤本の声は暗い。「今回はあなた一人の装備で片付いたのですから、おそらくヴァチカンも報酬を減らしはしませんよ」と、手を繋いだまま梯子から飛び降りたメフィストに、「だといいんだけどな」と、危なげなく数メートル下の床に着地しながら藤本は答えた。

光の差し込む螺旋階をぐるぐる下りながら、「あ、…」と軽く声を上げた藤本が、「なあメフィスト」と呼びかけるので、「なんでしょう藤本神父」と、1段上にいる藤本を振り返りながらメフィストは返す。「うん、まあ、」と口籠った藤本が、

「俺は俺がここにいることを奇跡とは思わねえけど、お前と会えたことは奇跡だと思ってる」

と言ってのければ、メフィストががくん、と階段を踏み外しかけるので、「うおっ、なにしてんだよ?!」と、藤本はあわてて両腕でメフィストを支えた。と、メフィストが無言で藤本を抱きしめるので、「なっ、なんだよ」と藤本はさらに声を上げたのだが、「君こそ何のつもりなんです」とメフィストはごく真面目な声音を返す。しばらく黙り込んだ後で、「…お前が好きだってことだよ…」と、藤本が呟けば、「そんなことは知っていますとも」と、メフィストはぎゅっ、と藤本を抱きしめる腕に力を込めて、抱きついた時と同じだけの唐突さで離れると、駆け足で螺旋階段を降り始めた。「さっきも転びかけたのに、危ねえぞ」と藤本が忠告しても、「誰のせいですか、もう何でもかまいませんから、早く帰りますよ」とメフィストの答えは素っ気ない。

けれども、振り返らないメフィストの、コートの襟からわずかに覗く素肌が少しばかり赤いので、藤本はごく薄く笑みを落として、だから奇跡なんだよ、と声には出さずに呟いた。こんなに人間らしい悪魔を、藤本は他に知らない。おそらくこれから先も失うことのない温もりを握りしめて、藤本は「Amen,」と呟いた。

躊躇いなく食い破った親指は、まだ僅かに痛んだ。



(藤本38才くらい / 目付け役として付いてくるメフィスト / 青の祓魔師 / メフィストと藤本 / 111106 )